造園11周年/錠を開けよう、窓を開けよう。

前回更新は2015年9月だったから、9ヶ月も放っておいてしまった。
放っておいても残っている秘密の花園が、しかしやっぱり自分には必要なんである。毎日丹念に手入れしていたころを懐かしみ、そのまま錠前を掛けたままにするのは実に甘美な行為だが、それではクレイヴン伯父さんと同じだ。自分だけの場所だから、自分がときどき錠を開けに戻らなくっちゃ。ね。

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このブログを始めた日、フェニーチェ歌劇場の名シェフとして将来を嘱望されていたマルチェロ・ヴィオッティが、リハーサル中に脳卒中で倒れ、そのまま天に召されるという出来事があった。
11年後のいま、僕はロレンツォ・ヴィオッティの名前を東響名曲シリーズのプログラムのなかに見つける。1990年にマルチェロの息子として生を受けた男の子が、今年の9月に東響を振るために来日するんだ。
東京オペラシティシリーズ 第93回
2016年09月03日(土)14:00 開演
ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス

2014年にウルバンスキの代役として共演し絶賛されたヴィオッティ。今回はオペラ指揮者の父(故マルチェロ・ヴィオッティ)とフランス人の母の元に生まれ、ウィーンで学んだという彼の人生そのもののプログラムで再登場。東響HPより
父親と同じ道を選んだロレンツォ君は指揮者コンクールで結果を重ね、やがて檜舞台に立った。ウィーンのはっぱさんがつい2週間ほど前のウィーン響客演を大絶賛されているので、可能なら聴きに行ってみたいな。
# by Sonnenfleck | 2016-06-12 22:30 | 日記 | Comments(2)

精神と時のお買い物XXXIV(Twitterが落ちているその2分間)

その2分間は僕に本店のことを思い出させる。

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【BOOKOFF某店】
1 "Songs of Desire"(PHILIPS) *オルガ・ボロディナ+ラリッサ・ゲルギエヴァ
2 星野道夫『旅をする木』(文春文庫)
3 上原善広『異邦人 世界の辺境を旅する』(文春文庫)
4 武田龍夫『宮中物語 元式部官の回想』(中公文庫)

【サウンドベイ金山店】
5 "LANG LANG Live in Vienna"(Sony) *ラン・ラン

1は、オルガ・ボロディナのロシア歌曲集。バラキレフやキュイの歌曲は秋の情緒を呼び込むはず。名古屋はまだ夏の出口を行ったり来たりしているわけだが。PHILIPSの地味なアルバム探索は今やBOOKOFFを巡る楽しみのひとつで、イ・ムジチとホリガーとマリナーの木立から何か不思議なものを見つけ出す嗅覚が必要とされている。
ところでPHILIPSのジャケットは、DECCAの強い赤青を念頭に置かない渋い色調が多いですよね。DECCAのロゴが付いたPHILIPS原盤のアルバムはだいぶ悲惨なアートワークになっていると思うんであります。

2。カムチャツカで熊に食べられて亡くなった写真家・探検家の星野道夫氏。これまでに読んできたいくつかのノンフィクションが星野氏の著作の上で交差し始めており、彼の紀行文に正面から向き合うときが来ていると判断。『のだめカンタービレ』全25巻が1冊5円で引き取られていったその代金がアラスカの詩作に化ける。

3。『日本の路地を旅する』が猛烈に面白かった上原氏による、世界の被差別部落を旅するルポ。目前の事象と自分の過去を同化しながら、ルポであり私小説でもある「路地」を描く手段が海外ルポで通用するのか、またまったく異なるアプローチをしているのか。

4。武田氏は外務官僚ながら宮内庁に勤務した経験を持つ御仁。完全に内側の人物ではなく少し外側の人物によって描かれた宮廷の様子が知りたい。夏休みに読んだ半藤一利『日本のいちばん長い日』以降、出光美術館のソファから近くて遠い桜田門と宮内庁を眺め、2015年のいまでも不可侵の森について興味が湧いているんである。

5。ラン・ランが好きな自分は、ユジャ・ワンにない「計算を感じさせないくらい極めて巧妙に計算された」天真爛漫さを彼に求めている。
モーツァルトアルバムでラン・ランが達している異様な軽さとドライな空気はシュタイアーよりもベザイデンホウトよりも「ピリオド的」だと感じるので、ピリオド界隈専門の皆さんはモーツァルトアルバムを進んで買ってみるべきと思います。アーノンクールとのコンチェルトも2枚目についているしね~(そちらはもしかすると両者にとって挑戦だったかもしれないけれど)
# by Sonnenfleck | 2015-09-02 22:56 | 精神と時のお買い物 | Comments(0)

スラヴァ×セイジのモダン・タイムス

結婚してから生活のスタイルが変わり、難しい顔をして音楽をじっくり聴きながらPCの前に長時間座っているのが難しくなった。これではブログのエントリを生み出すことができない。できないが、したい。

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c0060659_22515769.jpg【Erato/WPCS22184】
●プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
●ショスタコーヴィチ:Vc協奏曲第1番変ホ長調 op.107
→ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)
⇒小澤征爾/ロンドン交響楽団

HMVのセールで756円くらいになっていた。安いね。
小澤とロストロポーヴィチ、という組み合わせがいかにも昔風に見えるのはどうしてだろう。ところが組み合わせから受ける印象に比べて、ここに録音された演奏実践は意外にもスマートで聴きやすい。ひょっとすると「モダン」かもしれない。

まずロストロポーヴィチが、一般的にイメージされるような鈍重さをあまり感じさせない(僕の脳みそに残っている指揮者としてのロストロポーヴィチがテキストの前面に出てしまっているのだろうなあ)。
80年代後半にチェロを持ったときのロストロポーヴィチが敏捷ですらあった(!)ことを、この録音が証拠として伝えている。少し強引な歌い回しと鋭敏さがミックスされたマチエール、これがモダニズムの薫りをそのまま宿しているわけですが、たぶん今世紀の若いチェリストが同じことをやろうとすれば、そればメタな視点からしか獲得できないはずなのであります。

それから小澤だけれども。
なめらかに整えようとする圧力と、ガサガサに掘り下げようとする圧力の両方から常に引っ張られて、その強い張力や緩んだときの対処にいつも悩まされているような気がするのです。このひとは。

ところでショスタコーヴィチの楽譜は、実は小澤の(僕が勝手に想像している)悩みに対して意外によく合致するのではないかと思われて仕方がない。
とある両側の圧力に「悪意のある器用さ」で対応したのがショスタコーヴィチとすれば、小澤征爾は悪意なんて考えることもなくどこまでも真摯に楽譜をなぞる。それによって、髭のグルジア人とその後継者を横目にしていたショスタコーヴィチの悪意が打ち消されてしまい、ただ器用なスコアがイコールの向こう側に浮かび上がるではないですか。ロンドン響のつるっとした音響はここで完璧にプラスに働いています。

小澤は結局、ショスタコーヴィチを彼のキャリアのなかに置かなかったことが少なくともレコード史的にはわかっているけれど、このようにニュートラルな器用さがばっちり表面に出てくるショスタコーヴィチ演奏というのは実はあまり思いつかないんである。皆さんはどうでしょうか?アシュケナージ?ハイティンク?いやいや、少し違う。何でもない何か、である。

2010年代は、ショスタコーヴィチの悪意に指揮者の悪意を掛け合わせた悪意2乗のゲテモノ演奏がはびこっている。そんなときに僕たちは小澤の器用で真摯な運転に乗った、ナイーヴで力強いロストロポーヴィチの歌を懐かしく思い出すのかもしれません。これがモダンのひとつの正体。

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プロコフィエフについて書く時間がありませんでした。追記できるかな?


# by Sonnenfleck | 2015-06-03 23:21 | パンケーキ(20) | Comments(4)

造園10周年/近況報告

前回の更新からずいぶん間が空いてしまったけれど、名古屋で変わらず元気に暮らしています。
東京圏の藝術シーンの最先端を追うことをやめてしまうと、気持ちはずいぶん楽になった。気が向いたときに奥さんの了解をもらって名フィルの定期演奏会に足を運び、たまに愛知県美術館でゆっくりしていると、20代のころとは違うスピードで時間が流れ始めているような気がする。しかし時間はごっごごご…と音を立てて動いている。

10年前の今日、就職活動に臨む大学3年生の僕は、友人Nの勧めに従ってブログを書き始めた。あれから10年、30代になってもこの営みを続けているとは思っていなかったが、そもそもあのころは10年先を思い浮かべるような時間の定規を持っていなかったのだった。いま、定規の種類は増えたが、使いこなせているか?

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10年前の明日、フランス・ブリュッヘンが初めて日本のオーケストラに客演する。プログラムはこうだ。

【2005年2月18日(金)19:15〜 第381回定期演奏会/すみだトリフォニーホール】
●ラモー:歌劇《ナイス》から序曲、シャコンヌ
●モーツァルト:交響曲第31番ニ長調《パリ》K297
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op. 61


フランス・ブリュッヘンはこの9年後、2014年の8月に天に召された。時間は動いている。僕も動いている。当分立ち止まることはなさそうだ。


# by Sonnenfleck | 2015-02-17 22:44 | 日記 | Comments(2)

円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)

c0060659_10484791.jpg【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
 ○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。

2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)

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この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。

ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。

ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。

ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆

この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
# by Sonnenfleck | 2014-11-01 11:10 | 演奏会聴き語り | Comments(0)

「かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ」「ファジョーリにや」

c0060659_9305654.jpg【Naive/V5333】
●ハッセ:《シロエ》より〈嵐の恐怖の中で〉
●ハッセ:《シロエ》より〈私はあなたの人生でなければならなかった〉
●ヴィンチ:《許されたセミラーミデ》より〈千の怒りに抱かれて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈可哀そうな子供〉
●ポルポラ:《許されたセミラーミデ》より〈Passaggier che sulla sponda〉
●ペルゴレージ:《シリアのアドリアーノ》より〈だから、時々嬉しくて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈海岸近くで願い信じていたのに〉
●カファロ:《イペルメストラ》より〈私をもっと落ち着かせて〉
●サッロ:《ヴァルデモロ》より〈よく愛する心〉
●マンナ:《ルキウス・ウェルス、またの名をヴォロジェーソ》より〈お前を残して行く、愛する人よ、さようなら〉
●マンナ:《独裁者ルキウス・パピルス》より〈戦場のトランペットの音を聴き〉
→フランコ・ファジョーリ(C-T)
⇒リッカルド・ミナージ/イル・ポモ・ドーロ

そのうち、そのうち、と思いながら感想文は書けていないのだが、レオナルド・ヴィンチ Leonardo Vinci(1690-1730)のオペラ《アルタセルセ》を1年以上ずっと聴き続けている。
《アルタセルセ》はカウンターテナーが5人必要なものすごいオペラで、しかもナポリ楽派の大天才であるヴィンチが花園のようにメロディを書きまくったおかげで凄まじい作品になっているのですが、そこで重要な役を務めているのが、アルゼンチン出身の若きカウンターテナー、フランコ・ファジョーリです。

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カウンターテナーの人気者たち。デラー、コヴァルスキー、ヤーコプス、レーヌ、ヴィス、ショル、、煌びやかな先人たちが種をまいた畑がいよいよ実りの時期を迎え、ついに2010年代がカウンターテナーの百花繚乱となっていることを、たとえばレコ芸のおじいさんたちは知っているのでしょうか?知らないだろうなあ。知らないままでえーわ。
そのなかでも特に、フィリップ・ジャルスキー、マックス・エマヌエル・ツェンチッチ、そしてフランコ・ファジョーリ。この3名が抜きん出た活躍をし始め、しかも賢明に声質を住み分けて、おのがじし大輪の花を咲かせ始めています。ドラクエ3的な語彙でたとえると、ジャルスキーは妖しい魔法使いLv.65、ツェンチッチは僧侶から武闘家への転職組(+黄金の爪)、そしてファジョーリはベホマズンとギガデインを操るロトの勇者、というのが僕の見立てである。

なぜファジョーリが勇者枠なのかということだ。
このひと、C-Tの教科書のような歌唱を平気でやってしまう。曰く、滑らかな中高音をテノール歌手の豊かな声量で、というのが辞典的な記述だが、僕はこれまでヴィスやヤーコプスの歌唱からそれを感じ取ったことはなかった。でもショルあたりから格段に技術が進歩してきて、いよいよファジョーリがそれを「本当に」やってのけた。C-T2.0である。
たとえばトラック6、ペルゴレージ《シリアのアドリアーノ》のアリアを聴いてみよう。11分を超す長大なアリアだが、ペルゴレージらしく甘やかでたおやかな、言ってしまえばかなり起伏のつけにくいナンバーなんですよ。これをファジョーリはそのまま、肉厚で豊かな音楽としてそのまま顕現させてしまった。煮たり揚げたり、これまでは手の込んだ料理として味わわなければならなかった素材が、あるときから素材の味によってロマン派オペラのアリアのように楽しめるようになったというのは、革命と書いてよいのではないか?

もちろん、滋味ある素材ばかりが彼の得意技ではない。肉食系のド派手なナンバーもまさにそのままの魅力で僕たちに突きつけてくる。
トラック3、レオナルド・ヴィンチ《許されたセミラーミデ》のアリアなどは、ティンパニがどんどこ鳴り響き、ラッパが吹き荒れる強力な曲です(仮にこれがモーツァルトのオペラのなかに挿入されていたとしたら、テノール歌手たちはこぞってこのナンバーを自分のフェイヴァリットアルバムに入れるでしょう)。A-B-A'のダカーポアリアの伝統はA'に自在な装飾を要求するわけですが、そこでファジョーリが披露する装飾はある意味では装飾らしくなくて、音楽の豊饒な劇性をそのまま活かしているだけなのだなあ。
悔しいけど上手に形容できないので、YouTubeのクリップを貼ろう。Bは2分12秒、A'は2分39秒から始まる。


この自然な調理から僕が連想するのは、たとえばワーグナーがジークムントに付与したような高貴な音楽である。こうした想像をさせるC-Tは、彼が初めてなんだよね。攻守のバランスがよく、正攻法で高得点をたたき出す。それが勇者枠。
(ちなみにこのクリップ、5分11秒からとある別のC-Tが歌う同じアリアが続くが、つまらない小細工に頼って音楽を台無しにしているのがよくわかる。上で書いたようにファジョーリの勇者だとしたら、この別のC-Tは残念ながら村人Aくらいでしかない。動画うp主による残酷な比較です。)

隆盛するバロックオペラは、こと日本ではまだまだ、ロマン派オペラやロマン派リートに比べ市民権を得るまでに到っていない。でもいつの間にか僕たちは、化学調味料のような味つけに頼らない本物の演奏実践を、まずはCDで楽しむことができるようになっている。その革命を知らないままでいるのは惜しいのです。


# by Sonnenfleck | 2014-07-13 09:34 | パンケーキ(18) | Comments(0)

いくつかのご報告とこのブログの今後について

4月に隣家の柿の木が切り倒されてからというもの、僕の身辺にはじつに多くのことが起こった。柿の木はその大きな枝ぶりによって、まるで僕の人生が先に進むのを食い止めてくれていたようだったが、そのありさまは最後まで象徴的だったと言える。そうして時間は堰き止められずに進んでゆくことになった。

◆1 引っ越しました
柿の木が伐られた翌週、上司は僕を会議室に呼んで異動を命じた。二度目の名古屋であった。
半月の間、慌ててさまざまの支度をし、本を売りCDを段ボール箱に詰め、東京の寓居を引き払うことになった。この住まいは大震災を経験した場所でもあったし、何よりも20代の楽しい時間をひとりで過ごした場所でもあった。地震で落ちたテレビが作った床の凹みを見下ろしながら、まことに思い出は尽きない。この狭い部屋が僕の庭であった。

そしていま、僕は名古屋のマンションの一室からこのブログを書いている。前の名古屋の家は静かな住宅地のなかにあったが、今度の家は繁華街の外れにあって、たまに酔っぱらいの楽しそうな声が聞こえる。窓の外を眺めても柿の木はないけれど時間が流れているのがよく見える。そういうことだ。

◆2 結婚しました
人生はわからぬもので、この転勤を機にえいやっと結婚してしまいました。勢いよく時間の流れに漕ぎ出すことも大切ですね。
このブログを始めたのは僕が大学3年生、21歳のころだったのだけど、自分が結婚するまでこの場所をちゃんと守ることになろうとは、当時は考えなかったなあ。

◆3 このブログの今後について
時間は流れる。
ますます仕事に忙殺され、細切れの藝術体験(それは、しかしそれでも感性を刺激するのだが)と、Twitterの小さな文章に満足する9年後の僕は、それでもこのブログをやめません。定期的な更新が途絶えてもはや久しく、初めて訪れるユニークユーザがここを廃墟のようだと感じたとしても、ここは僕の庭であり続けます。いまでは僕の庭に根を張った柿の木が、風をはらんでさわさわと揺れています。

ときどき思い出したように更新するかもしれません。でもそれは誰かのためではなく、僕のためです。

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# by Sonnenfleck | 2014-07-10 20:49 | 日記 | Comments(0)

さらば柿の木

このブログで何度か書いてきた、隣家の庭の巨大な柿の木が、この木の芽時に切り倒されてしまった。
樹高は僕の部屋のある2階の高さをゆうに超え、3階の高さと同等かそれ以上に見えていた。「柿8年」のことを思えば、あの樹高に達するまで10年や20年ではきかないのではないかと考える。夏には照り返す緑色で僕の部屋のなかを染め、秋にはたくさんの鳥が舞い降りては実をついばみ、冬にも堂々とした枝ぶりを寒空に示していた。そして春にはまた、新しい葉をつけようとしていた。

2009年4月30日 美しい4月に。
2009年11月1日 柿の午後
2009年10月18日 暮色蒼然
2012年11月10日 柿の晝

隣家の敷地には、古いアトリエのような建物と、柿の木を中心にした活力に満ちた庭が含まれていた。いまはすっかり更地なのだ。小さな一戸建てが2軒建つのだろう。そして庭のことを知らない、罪のない一家が引っ越してくるのだろう。一家には犬がいるかもしれない。犬は柿の木があった気配を感じるかもしれない。

さらば柿の木!
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# by Sonnenfleck | 2014-04-12 10:22 | 日記 | Comments(2)

NHK、ザ八・八ディド氏設計による新NHKホール建設へ

NHK、ザ八・八ディド氏設計による新NHKホール建設へ(asali.com/4月1日)

NHK経営委員のミリオン尚樹氏による「(現NHKホールは)音楽ホールのくず」発言が物議を醸す中、NHKが新しい音楽用ホールの建設を検討していることが明らかになった。

消息筋によると、2月末頃、NHKのモミーヌ勝人会長と東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森元気楼会長が都内の料亭で会食した際、森元会長から「せっかく決めた新国立競技場のデザインがお蔵入りになりそうだ、何とかならないか」とモミーヌ会長へ露骨な打診があったという。
2015年秋季頃に建て替え着工、2019年竣工を目指す新国立競技場は、イギリスの建築家、ザ八・八ディド氏のデザインを採用することで決定した。ところが、専門家から「高い」「カブトガニだ」「雪で屋根が落ちる」などと批判の声が上がり、政府はデザインや規模の見直しなどの検討に入っている。

一方、1973年に運用が開始された現NHKホールは施設の老朽化が進んでおり、また世界最大規模の歌の祭典である紅白歌合戦の会場に相応しくない、自販機の飲み物の種類を増やして、などの指摘が相次いでいる。NHKはNHKホールを含む東京・渋谷の放送センターの建て替えを検討しており、森元会長の鶴の一声が、モミーヌ会長の思惑と一致した格好だ。

+ + +

NHK高官によれば、ザ八・八ディド氏の設計を流用した新NHKホールの総工費は3000億円、8万人が収容可能で、開閉式ドームを持つという。
そのため「事実上の新国立競技場だ」との声も上がる中、モミーヌ会長は「NHK交響楽団に所属する職員数を1000人規模に拡大する」「世界一のコンサートホールにしたいと政府が言っているのに我々が違うよと言うわけにはいかない」などと呟いているという。

モミーヌ会長はさらに、「(ダメだったときの)取り壊し許可証を取っている」「一般社会ではよくあること」と発言したとの情報もあり、今後物議を醸しそうだ。

# by Sonnenfleck | 2014-04-01 01:04 | 日記 | Comments(0)

フライブルク・バロック・オーケストラ|ブランデンブルク協奏曲全曲演奏会@三鷹(2/15)

せめて、ひと月に一度の更新くらいは死守したいよね。

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c0060659_10174032.jpg【2014年2月15日(土) 17:30~ 三鷹市芸術文化センター・風のホール】
<バッハ>
●ブランデンブルク協奏曲第1番ヘ長調 BWV1046
●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051
●ブランデンブルク協奏曲第2番ヘ長調 BWV1047
●ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048
●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調 BWV1050
●ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調 BWV1049
○テレマン:Vn、Obと2つのHrのための協奏曲ヘ長調 TWV54:F1 ~ジーグ
⇒ペトラ・ミュレヤンス(Vn)+ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(Vn)/
 フライブルク・バロック・オーケストラ


いかにも雪の多い2月であった。
2月14日の昼から降り始めた関東甲信の雪は、日が暮れると勢いを増し、大規模に降り積もっていった。2月15日の朝、われわれは東京とは思われないような光景を目の当たりにするのである(別に北国ならふつう)。よって、摩周岳登山に活躍した登山靴を引っ張り出すことになり、ひさびさに「雪わらを漕いで」三鷹へ向かうのだ。

自宅からバスでアクセスできる三鷹市芸術文化センター。ここはたいへん素直な響きの中ホールを持っていて、案外、古楽の重要公演が開かれることが多い。2012年のフライブルク・バロック・オーケストラ初来日公演も、僕はこのホールで聴いた。
聴いたが、感想文を書いていない。なぜか。
僕は2012年1月に初めて「古楽のベルリン・フィル」であるFBOを耳にして、どうにもピンと来なかったのである。
理由はいくつか考えられるが、このときの演目がバッハの管弦楽組曲全曲だったのは鍵になり得る。FBOのパリパリッと(ときどきゴリゴリッと)しながら特に 束 感 の あ る 響きは、特にヘンゲルブロックが去ってからこの楽団のアイデンティティになっていると思うんだが、このキャラクタと「かんくみ」のフランス様式とは必ずしも相性がいいわけではない、と感じるんだよねえ。

そのため、翻ってバッハの「コンチェルトグロッソ」であるブランデンブルク協奏曲に相対したとき、彼らの音楽づくりが輝くのは十分に期待ができ、またその期待ははっきりと満たされたのであった。

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チェンバロを搬入する予定だった「チェンバロ漫遊日記」さんのこのエントリにも少し触れられているが、2月15日の公演はチェンバロ・コントラバス・ヴィオローネといった大型の楽器がついにホールに到着することができず、ホール備え付けのチェンバロに、市中で調達した(!)コントラバスとヴィオローネを用いるという苦肉の策で、どうにか開演に漕ぎ着けるFBO。だいいち本人たちも、飛行機がキャンセルになったため急遽新幹線で京都から戻ってきたのだから、気の毒である。

こうしたトラブルがあったためか、冒頭の第1番についてはアンサンブルの状態が最上ではなく、少し心配させられたのではあったが、やがて尻上がりに調子を出し始めるのがさすが「BPO」なのですな。
アンサンブルは優秀な個の音の積み重ねであるというすんごく当たり前のことを、第6番と第2番で胸ぐらを掴まれグワッと理解させられる。バロック音楽で時には大切な「ひとつの円やか」に、やはり彼らは収斂されない。でもその代わり、果てしない重層構造が聴こえてくる。この強靱な束感こそFBOの美質なのだなあ。

後半は第3番のアダージョが思いのほかどす黒い装飾を与えられていたのでびっくりしたが、白眉は第5番の第2楽章と第4番なのだった!
この日、第5番でチェンバロを担当したセバスティアン・ヴィーナント Sebastian Wienand氏の軽やかで色気のあるタッチ、そして通奏低音Vcを弾いたシュテファン・ミューライゼン Stefan Mühleisen氏のしっとり吸いつくような美音により、第2楽章は震えるほど美しい時間になった。
ミューライゼン氏は特に、これまで自分が生で耳にしたなかで最強のアンサンブル系古楽Vcだったと断言できます。フォルムは強固なのに芯は空疎で、その「洞」に高音楽器の旋律をぴたりと填めてしまうあの音。自分のなかに少しだけ残っているプレイヤーとしてのペルソナが、あんな音が出せたら死んでもいいなと言っている。


↑シュテファン・ミューライゼンが通奏低音に参加した、ヴィヴァルディのトリオ・ソナタ編成《ラ・フォリア》。お聴きくださいよこの音を。

トリの第4番は、言葉で形容するのが難しい。こういうときは本当にアマチュアでよかったなあと思うのよ。プロの物書きはあの究極的なアンサンブルの魔法を分析して、それをわかりやすい言葉で公衆に提供しなければならないんだから。
第1楽書の終わり、無数の美しい音の束に優しく縛られて法悦を感じてしまったことを書いておく。聴き手を音楽的ドMに突き落とす演奏実践ってどうなのよと思う。それは確実に大正義だけれども。

+ + +

アンコール。テレマンっぽいなあ、きっとテレマンだなあと思って聴いていたら当たりだった。このアンコールの演奏からすると、いまのFBOはファッシュやジェミニアーニといった華麗系下世話バロックでも平然と素晴らしい演奏をするはず。聴いてみたい。ものすごく。
# by Sonnenfleck | 2014-02-23 11:34 | 演奏会聴き語り | Comments(2)

さようならマエストロ・クラウディオ・アバド

Claudio Abbado dies aged 80(The Guardian, 2014.1.20)
Claudio Abbado, an Italian Conductor With a Global Reach, Is Dead at 80(The New York Times, 2014.1.20)
Claudio Abbado ist tot(Die Zeit, 2014.1.20)
Le chef d'orchestre Claudio Abbado est mort(Le Monde, 2014.1.20)
世界的指揮者のアバド氏死去(NHK, 2014.1.20)

ある音楽家の死について、いつもであれば僕はわりとすぐに平気になってしまうのだが、今回だけはだめである。この指揮者のことをどれだけ好んでいたのか、彼が永遠にいなくなって初めて理解したのだ。もう遅い。

僕がアバドを「本当に」認知したのはそんなに昔のことではない。クラシック好き後発組としてBPO治世の最後のほうをFMで聴いていたころ、アバドは遠い世界で活躍するスター指揮者のひとりであり、特段、大切な指揮者とは感じていなかった。
その認識が根底から覆されたのは、彼がBPOのシェフを辞めて自由な活動を開始してからのこと。2006年5月にマーラー室内管とライヴ録音した《魔笛》のディスクを聴いてから、アバドは僕のスターになった。

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1月20日の夜、残業を切り上げて帰宅する地下鉄の車内で、友人から届いた知らせが第一報。Twitterにあふれていく追悼の言葉。帰宅してすぐに僕は、あの魔笛を聴くことにした。この夜に聴くのはこの演奏以外であってはいけない。

アバドが彼の晩年に集中的に取り上げたモーツァルトは、どれも素晴らしかった。生のスコアが彼のなかを通ることで昇華されて、すべての音符は羽が生えているみたいに素早く、あっという間に飛び去るように価値づけられた。この陰翳と軽さはピリオド由来なのかもしれないし、そうでないかもしれない。いま、指揮者の死を知った僕の耳を通過して、アバドの魔笛はどこかに飛んでいこうとしていた。0時を回って、太陽の教団が勝利を収める。

いまの気分では、書きたい思いが全然まとまらない。
アバドの音楽をどのように考えているか、2013年7月のエントリ「天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ」へもう一度リンクを張っておこうと思う。言い訳のようにして。オーケストラ・モーツァルトとのシューマン全集の完結を僕たちの想像力に委ねて、マエストロは遠いところへ行ってしまった。

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R.I.P.

# by Sonnenfleck | 2014-01-26 11:33 | 日記 | Comments(2)

頌春(と、ブログに対する思い)

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あけましておめでとうございます。

旧年中はこれまでにないほどブログの運営から遠ざかってしまい、もうそれほど多くはないであろう、でもとても大切な読者の皆さんには平身低頭、お詫び申し上げるほかありません。日々のつれづれに、Twitterに短い文章を書いて気を紛らわせることも多いのですが、この年頭に声を大にして申し上げたいのは、このブログを閉じるつもりはないということです。自分の本拠地はここです。

かつて大勢いたクラシック音楽系ブロガー仲間の多くがTwitterに移住して、そのまま戻ってこなくなったのは無理からぬことと思います。僕も実際に使ってみて、あの楽ちんさを理解しました。あれを覚えるともうブログを書く気にはならないかもしれない。
しかし(ふたつ前のエントリでも書きましたが)すべての事象、またそれに対するすべての思いが140字ずつの房でまとまっているわけはないんですよ。ところが、Twitterに首までどっぷり浸かることで、その房に収まるように自分の思いや記述方法がだんだん矯正されていくのを僕は感じています。それではまったくよろしくない。自分で自分に用意する原稿用紙は無限の白紙でないといけなくて、それだけが、またそれこそが「ブログ」の有している圧倒的な価値です。

従来のようなたくさんの投稿は今年も難しいはずです。でもしぶとく続けていきます。この場所でね。
# by Sonnenfleck | 2014-01-04 11:07 | 日記 | Comments(4)

2013年感想文まだで賞(上)慶應リュリからブロムシュテットのブラームスまで

音楽会の感想文はこのブログの主たるメニューであるが、もう全然書けてない。溜まりに溜まってもう首が回らない。2013年分はここらでご破算としましょう。

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◆慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団・古楽アカデミー演奏会
【2013年1月5日(土) 18:30~ 慶應義塾大学・藤原洋記念ホール】
●シュッツ:《宗教的合唱曲集》、《シンフォニア・サクラ集》より*
●ハッセ:《クレオフィーデ》序曲ニ長調
●ヴィヴァルディ:4Vnのための協奏曲ロ短調 op.3-10
●ムファット:《音楽の花束》第1巻より組曲第6番ホ短調
●リュリ:《ロラン》~第4幕最終場・第5幕*
⇒佐藤望/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団*
⇒石井明/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム・古楽アカデミーオーケストラ


慶應の教養のいち授業として発足したコレギウム・ムジクム。その合唱団とオーケストラの初めての大規模合同演奏会。
曲数が多すぎて明らかに練習の足りていない作品もあったのだけど(3-10とか)、最後のリュリ抜粋で帳消しかと思う。驚くべきことにちゃんとリュリの舞台上演なのだった。バレエもパントマイムも、合唱もオケも、照明も字幕も手作り。バロックの演奏実践は音程より発音・フレージングが絶対条件になると考えていますが、この点ではオケも合唱も相当に訓練されていた。ただの総合大学の教養の授業で、よくここまでマニアックに仕上げたなあと素直に驚いたのだった。

※ちなみに年末年始にはコジファントゥッテを上演してしまうみたい。行かれないのが残念。

◆大野和士/水戸室内管弦楽団 第86回定期演奏会
【2013年1月13日(日) 18:30~ 水戸芸術館コンサートホールATM】
●ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調 op.22
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→西村悟(T)
●シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D589
⇒大野和士/水戸室内管弦楽団


大野さんのブリテンが聴いてみたくて、初の水戸遠征となった。
前半の《ノクターン》ではあの素敵なホールの親密さがぐるっと反転、寒さと孤独と夜の気配が空間を満たして、忘れられない藝術体験になってしまった。振り返ってみると10月のギルクリスト+ノリントン/N響よりさらにきめ細やかな残忍さが全体を覆っていたように思う。西村さんの声質も、バボラークのホルンも、アルトマンのティンパニも、みな冷たく光っていた。

後半、凍りついた心胆を再び温め直してくれたのが、シューベルトの第6。マエストロ大野のシューベルトはまるでロッシーニみたいに、楽しいものも、きれいなものも、美味しいものも、気持ちのいいものも、全部ぎゅうぎゅうに詰まった幸せ空間であった。第4楽章を聴いていてどんどん頬が緩んできたのを覚えている。

この夜、帰りのフレッシュひたち号でNHKスペシャルのダイオウイカを見逃したことを知る。ノクターン第2曲のクラーケンが脳裏に浮かぶ。

◆東京春祭 ストラヴィンスキー・ザ・バレエ
【2013年4月14日(日) 15:00~ 東京文化会館】
●《ミューズを率いるアポロ》
→パトリック・ド・バナ(振付)
⇒長岡京室内アンサンブル
●《春の祭典》
→モーリス・ベジャール(振付)
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


控えめに言ってうーん…という感じ。自分はバレエ観者にはなれないかもしれないなと改めて思ってしまった。
能や歌舞伎からのエコーで今回のような振付のバレエを見ると、「ルールなんかないのサ!」というルールに縛られてるようですこぶる窮屈に感じる。びょんびょん飛んだり跳ねたりするモダン振付バレエの身体性が、能や歌舞伎ほどには納得できない。いやまったくすとんと落ちてこない。ギチギチのルールの中で身体を満開に咲かせている日本の劇作品のほうが、端的に言って好みなんであるよ。

でもそれゆえに、古典的な振付のバレエをちゃんと観なければばならない。くるみ割り人形とか。

◆ヘレヴェッヘ/コレギウム・ヴォカーレ+シャンゼリゼ管弦楽団来日公演@所沢
【2013年6月9日(日) 15:00~ ミューズ所沢】
<モーツァルト>
●交響曲第41番ハ長調 K551《ジュピター》
●《レクイエム》ニ短調 K626
→スンハエ・イム(S)
 クリスティーナ・ハンマーストローム(A)
 ベンジャミン・ヒューレット(T)
 ヨハネス・ヴァイザー(Br)
→コレギウム・ヴォカーレ・ゲント
⇒フィリップ・ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管弦楽団


初めての生ヘレヴェッヘで嬉しい。
まず前半のジュピター、アンチ通奏低音な演奏実践にすごく驚いたのを覚えている。指揮者を含めて誰も(低弦やファゴットでさえ!)リズムに責任を持っていないように聴こえるんだけれど、しかし中音域にコアのあるオケは、清涼な小川のようによく横に流れてゆく…。これは実践の文法が違うだけなのだね…。いま思い出してみても特異な演奏だった。面白い。

そして後半のレクイエム。これは別次元の名演奏だったと思う。
前半、ヘレヴェッヘが何を指揮しているか自分にはよくわからない局面も多かったのですが、後半にコレギウム・ヴォカーレが入って、あれは声を最上位に置いた指揮なのだと確信。ヘレヴェッヘの両手は合唱とぴたり、、声が拍節を支配しているのだよねえ。声はヘレヴェッヘにとって旋律であり拍子であり和音なのだなあと改めて感じたのだった。

◆沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ 第64回定期演奏会
【2013年6月30日(日) 15:00~ 三鷹市芸術文化センター風のホール】
●プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調 op.25《古典》
●ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 op.135
→黒澤麻美(S)
 デニス・ヴィシュニャ(Bs)
⇒沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ


武蔵野でひっそりと執り行われた演奏会だったけれど、実は日本のショスタコーヴィチ演奏史上、決定的な名演のひとつだったのではないかと思う。からっとドライ、喉ごし鮮烈、、からの、、深い闇。抉られる日曜の午後。指揮者もオーケストラも歌手もお客さんも、あの小さなホールごと闇に沈んだ。
今日の日本でもまだ、演奏することに価値があるように思われがちなショスタコの第14交響曲に、沼尻さんはちゃんと第5や第10と同じ「交響曲」としてメスを入れていた。演奏で精一杯、なんていう時代はもうお終いにしよう。この交響曲では比較的単調になりがちな響きの色づけ、特に弦楽器のアーティキュレーションを丹念に見直すことで、フルカラーのショスタコーヴィチが眼前に現れて、、そして第11楽章のв нааааааас!!!!!!!の絶叫とともにホール中の照明を落とした。

若くて主張のはっきりしたTMPの巧さと、彼らをキレよくドライヴしてゆく沼尻さん。前半のプロコフィエフの第1交響曲もたいへん好みで、この作品のライヴであそこまで納得がいったのは初めてだと思う(プロコの古典交響曲は極めて難しい作品だと僕は考えてる)。あちこちでぶつかり合い反応し合うフォルムによって、ホール中に色や形が散乱していた。実に気持ちよかった。

◆ブロムシュテット/N響 第1761回定期公演
【2013年9月21日(土) 18:00~ NHKホール】
<ブラームス>
●交響曲第2番ニ長調 op.73
●交響曲第3番ヘ長調 op.90
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


先日、Eテレのクラシック音楽館でも放送されたので、多くの方がご覧になったのではないかと思う。言葉には尽くせない稀代の名演奏だった。

前半の第2番では第2楽章の艶と照り、第4楽章の爽快な爆発が印象に残る。こういう演奏をいまでも自在に繰り出すあの老人には心から敬意を表したい。何なんだろう。すごい。
後半の第3番は第3楽章がばらっとほどけて始まったんだけれど、風で揺れる梢が、瞬間的に途方もない複雑性を獲得するような感覚を受け取った。これまでブラームスでは体感したことのない不思議なマチエール。ブロムシュテットはブルックナーでもときどきこういう「自然のような複雑性」を花開かせたりするので、今回も何らかの事故ではなくああいう設計だったと考えている。

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(下)に続く。
# by Sonnenfleck | 2013-12-28 11:50 | 演奏会聴き語り | Comments(2)

ガッティ×モリーニ|未出版作品集”アッシジのコレッリ”世界初演@白寿ホール(11/21)

長い文章は書かずにいると書けなくなるなあと思った12月でした。すべての出来事や思いが140字に収まるわけがないのだ。

この11月、敬愛するヴァイオリニスト、エンリコ・ガッティが5年ぶりの来日を果たしました。まずはその初日、何とコレッリの未発表曲の世界初演という前代未聞のプログラムを聴きに行ったのであります。

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c0060659_9392733.jpg【2013年11月21日(木) 19:00~ 白寿ホール】
<コレッリ没後300年記念>
●アッシジのソナタ第1番ニ長調
●アッシジのソナタ第2番イ長調
●アッシジのソナタ第3番ニ短調
●アッシジのソナタ第4番ハ長調
●アッシジのソナタ第5番イ短調
●アッシジのソナタ第6番ト長調
●ソナタニ長調 anh.34
●アッシジのソナタ第7番ヘ長調
●アッシジのソナタ第8番ハ短調
●アッシジのソナタ第9番変ロ長調
●アッシジのソナタ第10番ト短調
●アッシジのソナタ第11番ホ長調
●アッシジのソナタ第12番イ長調
●ソナタイ長調 anh.33
●ソナタイ短調 anh.35
 ○ソナタニ長調 anh.36~Allegro
 ○アッシジのソナタ第8番ニ長調~Allemanda (Presto)
 ○ソナタヘ長調 op.5-10~Preludio:Adagio
⇒エンリコ・ガッティ(Vn)+グイド・モリーニ(Cem)


コレッリ農園の若い果実が、12個並んでいる。種類はすべて異なる果実。
ネットで子細は調べてもいまいちよくわからないのだけど、この12曲のVnソナタは10代後半のコレッリがボローニャで作曲し、アッシジの聖フランチェスコ教会の図書館に収蔵されていたらしい。
プログラムノートの寺西肇さんの記述をそのまま援用していくと、ガッティはこの手稿譜を注意深く校訂し、今回ようやく演奏可能な状況にこぎつけたとのこと。11月29日-30日にコレッリの生地・フジニャーノで開かれた学会で演奏される予定だったので、この11月21日の東京公演が本当の世界初演だった模様。

12個はいずれも、やがて成熟してのちの作品5に到達する道筋を示していた。旋律の運びはいかにもコレッリ好みで、平明と緊張を行き来しながら小体な世界を形成しているのであります。
ただ、技法が発展途上であるがゆえの未成熟な青臭さは、そのコレッリらしい小体な世界に少ない分量ながらも確かに混在していました。後年であればもっと自在に展開して広がるはずのメロディがすとん…と切れてしまったり、継ぎ目が不自然だったり、フレーズの形に少し無理があったり(ただ、第5番イ短調の妖しい旋律運びなどはコレッリ以前の世界をよく伝えていて、単なる若書き以上の煌めきを放っていた)

もちろん、こうした青い苦さはコレッリの成熟の土台になっているのだろうけれども、そのことを逆に強く印象づけたのが、一緒に演奏された「作品5には入らなかったソナタ」と、アンコールで取り上げられた作品5-10なのであった。

出版されたものの、作品5の12曲には組み入れられなかった3曲のソナタ。これらはあり得たかもしれない作品5のパラレルワールドとして十分な完成度を誇り、若書きの味から苦みやえぐみだけが注意深く取り去られているのがわかる。

しかしどうだろう。作品5-10のプレリュードの完熟した味わいは…!
その第一音から、黄金色の蜜が小さなホールをなみなみと満たしていく。装飾が丁寧に施された旋律線、その甘美にして健康な蜜の味わいに聴衆が息を呑む。ガッティのボウイングが余韻を完璧にコントロールして蜜が消え去ると、皆、痺れ薬から覚めたかのように震える溜息を吐いて、やがてじわじわと拍手が高まっていく。青い果実の酸味に慣れていた数十分の最後に、とどめの蜜なのであった。
なおこの日の装飾音はガッティ不滅の名盤とは少し違って、ちょっと爽やかテイストだったことを書き添えておきたい。

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エンリコ・ガッティは、僕がこの世の中で最も尊敬する音楽家のひとりなのですが、ついにこれまで生で体験することができずにいた。
2008年の「目白バ・ロック音楽祭」(これがもし続いていたら、首都圏の初夏はずっと薫り高いものになっていたでしょう)で来日して以来、ガッティはずっと日本には足を運んでくれなかったのだった。

初めて生で聴くガッティの音色は、もちろん録音で慣れ親しんできたとおりのフルーティな甘みを誇っていて、最初の調弦からして芳醇な香りがする。
ところがよくよく聴いていくと、そこには甘みだけではなくて、ハーブのような複雑な野性味がひとつまみ加えられているのがわかる。ボウイングの微かな加減によってこのビターな味わいが存在しているようです。

さらに、今回たいへんに驚きかつ心を揺さぶられたのは、彼の音色が燦燦と輝く太陽のような開放感を伝えてきたこと。密室の悦楽、室内の妖しい遊戯である後期バロック音楽のその入口に、燦然と輝く太陽!コレッリの音楽に「絶対的に不可欠な」強い陽光を、僕はついに聴き知ったように思う。
# by Sonnenfleck | 2013-12-23 09:43 | 演奏会聴き語り | Comments(0)

アンドレアス・ショル リサイタル@武蔵野市民文化会館(10/12)

【2013年10月12日(土) 19:00~ 武蔵野市民文化会館小ホール】
●ハイドン:絶望、さすらい人、回想
●シューベルト:ワルツ op.18-6*
 林にて D738
 夕べの星 D806
 ミニョンに D161
 君は我が憩い D776
●ブラームス:間奏曲 op.118-2*
●モーツァルト:すみれ K476
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かわいいあの娘は、ばらの唇
  今晩は、ぼくのおりこうなかわいこちゃん
  我が思いの全て
  下の谷底では
●シューベルト:丘の上の若者 D702
●モーツァルト:ロンド ヘ長調 K494*
●シューベルト:死と乙女 D531
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かよわい娘が歩いて行った
  静かな夜に
●モーツァルト:夕べの想い K523
○イダン・レイチェル:静かな夜に
○イギリス民謡:恋人にリンゴを
→アンドレアス・ショル(C-T)+タマール・ハルペリン(Pf*)


武蔵野文化会館はわが庵からぎりぎり徒歩圏内なのだが、何しろ大事な公演が平日に集中するので、真面目に会員になってチケットを押さえる気にはなりません。
それでも年に数回は、こうしてどうしても聴きたい音楽会が週末に開催されたりするので気が抜けない。八方手を尽くして、カウンターテナーのスター、アンドレアス・ショルのリサイタルに足を運びました。

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ショルを初めて生で聴くのにバロックではないことについて、当初、全く不満を覚えないではなかった。バッハやヘンデルで彼が聴かせる完璧な歌唱を(それから伴奏をつける活きのいいバロックアンサンブルたちを)CDで楽しんできたのだから、これは仕方がないと思う。
でもタマール・ハルペリンとの19世紀リートプログラムに、この夜、僕は打ちのめされたのだった。

まず、何を措いてもシューベルトです。
「カウンターテナーの」という形容詞を、僕たちは無意識に欲する。それは彼らが歌うリートが表層的にはソプラノやテノールのリートとは異質な様相を呈するからだけど、硬い表層に守られて蠢くシューベルトの深淵に一度到達してしまうと、「声の種類」なんていうのは実に大したことのない問題に成り下がる。むしろ、シューベルトの硬い表層は、カウンターテナーの異質性によっていとも簡単に破られる、と書くべきかもしれぬ。ある種の劇的な薬品が染みわたるように、化学反応が起こっているから。

ショルのディクションは、よく聴き慣れた彼のバッハやヘンデルとは少し違っていた。ほんのわずかに均整が崩れて、深々と絶望するような浪漫が灯る。人間らしさに声が湿る。
そのような美しいドイツ語で実践されたシューベルトは、ほんの瞬間的な違和感の直後、そのでろでろとした深淵を覗かせる。これは恐怖であった。《ミニョンに》もだし、《丘の上の若者》も。…《死と乙女》で乙女パートと死神パートを歌い分けたのは、ファンには面白くても、少し表面的な試みだったかもしれないけれど。

そしてモーツァルトのとき、声が急激に乾いてからりと明るいディクションになったのは、まさに聴き逃がせないポイントだったと言える。僕がよく知っているショルの発音実践はこちらだったからだ。

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ただしこの日、ショルのコンディションはどうやら万全ではなかった。第一声に僅かにスモークされたような香りがあり、こんなものかなあ年取ったのかなあと思っていたら、前半のあちこちで「…ェヘン」「…コホ」と小さな咳払いを確認。
最後のブラームスではついに歌いながら咳き込んで、一時的に演奏がストップしてしまうという珍しくも気の毒な事態に。それでもすぐさま体勢を立て直せるのはプロだなあと思う。

サイン会のときにお大事に、と声を掛けたら、深く息を吸い込むとどうしてもネ、みたいな反応だった。身体が楽器であればこんなこともあるよね。今度は万全な状態で彼の美声を楽しみたいものです。
# by Sonnenfleck | 2013-12-01 09:32 | 演奏会聴き語り | Comments(2)