ヱヴァンゲリヲン:破 感想文

今日はクラ雑談はお休み。

c0060659_8245338.jpg世代的に、どうも最後の最後まで見届ける責任があるような気がして、映画館まで見に行ってきました。

館内はほぼ完全に満員で、いかにもヲタク保守本流っぽいお一人様から、かなり若めの中学生グループ、普通のカップル、クールビズがあんまり似合ってないサラリーマン、ちょっとオサレなOL風女子二人組、高等遊民っぽいおっさんまで、老若男女問わずいろいろなタイプが。
以下、好きなようにネタバレしています。(当ブログ読者の中にはあんまりいらっしゃらないとは思いますが)ちょっとでも興味のある方はひとまずここで読むのを止められて、本編をご覧になった後に再度お越しください。

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「ガンダム」って、こう、明るい男子っぽくて好ましいじゃないですか。普通の雑誌で特集されたり、お台場にでっかいのが建造されたりして。自分の堅い職場にも生粋のガンダム好きがいたりするので、受容というよりも社会的受理に近い感覚です。一個のカルチャーとして立派に育ちつつある途中のようなね。
ところが「エヴァ」となると途端にダメだ。自分がガンダム世代ではないから僻みやその裏返しの変な優越感が混じっているかもしれないですが、あのジメジメザラリとしている「エヴァ」が社会に広く受け入れられるような気は到底しません。いくらパチンコで名前が売れたといっても、あれに染み付いている妙な湿気は抜けようがないんじゃないかと思うんですよ。

そのジメジメザラリの元になっているのが、ストーリーの救いのなさだったり、あの主人公の徹底しただらしなさだったり、難解なキリスト教学に擬態した装飾要素だったり、一途な心理描写だったりするとしましょう。あるいは、そうした雰囲気を好む「エヴァ世代」が醸し出す得体の知れない湿気であるとしましょう。であればこそ、新劇場版三部作としてリビルド中の「ヱヴァンゲリヲン」には、非常に強力で恣意的な脱湿処理が施されているように思うわけです。

エキセントリックな新キャラクタが適度に絡んできて、使徒のデザインが洗練されていて、3号機に乗って使徒に乗っ取られたあげく「破壊」されるのがアスカで、最後にカヲル君が出てきて、と、旧作に則りながらも細部は大胆に作り変えられています。キリスト教的装飾要素も(ナブッコ?)、夕暮れ電車の心理描写も、どちらも必要最低限に減らされている。ただ旧作と何が一番違うかと言ったら、それは対人恐怖症であったはずの登場人物たちが惹かれあう関係における意志性だろうな。
たとえば、旧作ではかたや心理的ヒキコモリ、かたや人形であって、互いの領域を侵すことがなかったあの2人が、直線的に惹かれあう描写の多いことといったら。終盤で使徒に取り込まれた綾波レイを、あの碇シンジが「来い」と叫んで救い出した瞬間、重く垂れ込めていた主人公のだらしなさも、綾波レイのネクロフィリア的美もすっかり除湿されて、観客は旧作とは完全に違う方向に来てしまったことに気づくのです。心理的ヒキコモリにも、人形にも、「ジェネレーションY」である我々の中にも、もしかして意志があってもいいんじゃないかと。そうか意志があってもいいんだ!おめでたいおめでたい!

話を冒頭に戻すなら、この熱風ドライが次回作<Q>にまで及ぶようであれば、「ガンダム」と同じような社会的な受理がこの作品にも起こるかもね、というところなのです。
言い換えれば、作品そのものがシンプルに補完され、それを見た人間もシンプルな形質に補完され、自分たちの社会的受理が確認できるくらいの世界にはなるかも、ということ。この新劇場版に対して賛意の波が発生しているのは、補われることの悦びを「旧エヴァ世代」が知ったからではないかと思う(旧作で補われたのはシンちゃんだけだったですから)。「してもらうこと」が大切なのは結局変わりなさそうだけどね。

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旧作のように印象的なクラシックの使用はありませんでした。 ソルの《魔笛の主題による変奏曲》が使われていたみたい。nobumassaさん情報多謝です!
ただ、ダミーシステムで動く初号機が、3号機のハラワタを引っ張り出すBGMに当てられていたのが《今日の日はさようなら》であった。陳腐をぶっちぎりで通り越したためむしろ効果的でしたが、やはりこの手の猛烈な悪趣味がこの監督の好みの核なのですな。
by Sonnenfleck | 2009-08-01 08:59 | 日記
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