サントリーサマーフェスティバル2009 ウンスク・チン Orchestral Works(8/28)

c0060659_915426.jpg【2009年8月28日(金) 19:00~ サントリーホール】
●リゲティ:《サンフランシスコ・ポリフォニー》
●ウェーベルン:オーケストラのための5つの小品 op.10
●ウンスク・チン:大オーケストラのための《ロカナ》
●スキ・カン:大オーケストラのための《カテナ》
●ウンスク・チン:中国笙とオーケストラのための協奏曲《シュウ》
→ウー・ウェイ(笙)
⇒秋山和慶/東京交響楽団


とにかくというかやっぱりというか、客席が豪華でした。見かけただけでも岡部先生(は当然か)、一柳氏、池辺氏、その他業界の偉い方たちばかりという感じで。彼らが座っていた正面席ではどう聴こえたんかいなあ。僕が座ったステージ脇上も聴こえ方が面白かったですけどね。あれで2000円は安い!

結論は、リゲティウェーベルンの凄さが改めてわかった、ということです。
《サンフランシスコ・ポリフォニー》は、クラスターのプールの中で色とりどりのゴム鞠がぶつかり合うような様子がとんでもなく美しかったし(晴朗な夏だ!)、5つの小品はウェーベルンの強烈なロマンティシズムがねっとりと凝縮しているのがやっぱり理解された。ウェーベルンは100年分、リゲティは30年分の時の淘汰に揉まれて生き残っている作品たちであり、古典たるに必要なパワーを強く感じた次第。藝術だ。

一方、リゲティの弟子であり、1961年生まれのウンスク・チンはどうであるか?
管弦楽のための合奏協奏曲とでも言える《ロカナ》は特にその傾向が強いように思われたのですが、その文脈では彼女の次の言葉が意味深く響きます。
文化的に異なる出身地を持つからでしょうか、私はシンフォニーオーケストラというものの音響について、ある種の反発を覚えています。19世紀的な美学の残滓が感じられる時には、特にそうです。(後略)
…「反発」どころか、僕には「憎悪」に思われました。絶え間なく(あるいは意味もなく)炸裂する打楽器に、厳しく切り込んでくる管楽器、量感を持たない代わりに鋭敏な弦楽器は、いずれも極めて峻厳に響きます。
大管弦楽は、巨視的に見れば自明である展開を許されず、微視的に見れば各パートそれぞれの「らしさ」を禁じられ、ただ手も足も捥がれて舞台の上に転がされているような、そんな感じ。師匠のスキ・カンの作品が持ち得ない、聴き手を引き込む強い力をウンスク・チンの作品は持っているけれど、そこに漲っている否定や嫌悪のような負のアトモスフィアを、聴衆としての自分は受け入れられませんでした。こういうヒステリックな絶叫の連続なら、もう少し短くまとまるのではないかしらという気もします。

笙協奏曲《シュウ》は(笙の音量を慮ってのことでしょうが)全体にテクスチュアが薄め。ただし今回のソロに使われた中国笙はオーボエやファゴットのようにキーが装着されていて、ちょっとサイボーグみたいな雰囲気であり、音量も少なくとも日本の笙より大きいようでした。音色の似たアコーディオン協奏曲として聴いてみてもよかったかもしれない。
こちらの作品は笙奏者の超絶技巧にすっかり目が眩んでしまったのと、《ロカナ》のようなヒステリックさがあんまりなかったために、比較的好印象ではあった。それでも、またこの音楽のために自分の数十分を付託しますか、という質問への答えは自明です。

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31日の《グルッペン》3点盛り、聴きたかったなあ。
by Sonnenfleck | 2009-08-30 09:12 | 演奏会聴き語り
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