東京二期会―R. シュトラウス《カプリッチョ》(11/22)

c0060659_21525726.jpg【2009年11月22日(日) 14:00~ 日生劇場】
●R. シュトラウス:音楽のための会話劇《カプリッチョ》
→佐々木典子(マドレーヌ)、初鹿野剛(伯爵)、
  望月哲也(フラマン)、石崎秀和(オリヴィエ)、
  米谷毅彦(ラ・ロシュ)、加納悦子(クレロン)、
  大川信之(ムッシュ・トープ)、
  羽山弘子(イタリア人ソプラノ歌手)、
  渡邉公威(イタリア人テノール歌手)、
  佐野正一(執事長)、菅野敦・西岡慎介・
  宮本英一郎・園山正孝・井上雅人・倉本晋児・
  塩入功司・千葉裕一(8人の従僕たち)
→ジョエル・ローウェルス(演出)
⇒沼尻竜典/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


美しくて切なくて、このまま時間が止まればいいのになあ…と幾度も思った。
シュトラウスの本質的な音楽の力もさることながら、演出家の術中に嵌り、ハンカチをびしょびしょにしてしまいました。オペラ玄人の人たちがどのように難癖をつけようとも、自分はこの公演を賛美して已まない。

■1944年、パリ
この作品の舞台は18世紀末ごろのパリ、というのがクレメンス・クラウスとシュトラウスのト書き。でも今演出のローウェルスは、シュトラウスがこの音楽を書き上げたのと同時代の、ヴィシー政権下のパリを舞台にすることで、思ってもみなかった効果を上げます。
◆幕が上がると荒らされた室内が青い月に照らされている。字幕に映し出されるのは「1944年、占領下のパリ」の文字。こっそり忍び込んできた作曲家と詩人は、マドレーヌのものと思われる肖像画が床に転がっているのを見つけて悲嘆に暮れる。
◆2人が去るのと入れ替わりに憲兵たちが室内に入って来、相変わらず鳴り続けるフラマンの六重奏をBGMに、荒らされた室内をきれいに復旧していく。これは回想のお話なんだな。

◆六重奏が劇中音楽に遷移したところから、在りし日の伯爵邸。以降、第10場(?)でクレロンが出立しようとする場面まで、ほぼト書き通りの進行と思われる。
(※ただしト書きを逸脱しない程度の面白おかしいギミックが多数あり、恐ろしく細部まで作り込まれた演技はそれだけでフーガのような存在感。掃除の途中で寝てしまう黙役の老執事、詩人との間接キスを避けようとするラ・ロシュ、エトワール及びバレエ少女軍団、エトワールのレオタードに視線を送る「従僕」たち、ガトーショコラを貪るイタリア人テノール歌手。相当な完成度でしたな。)

◆クレロンを見送ろうとした一行の前に、鉤十字腕章を付けたフロックコート姿の「執事長」と「従僕」たちが静かに現れる。後ろ手に縛り上げられた老執事(本当の執事は彼だけだった!)
◆軽く美しい音楽のまま、事態は最悪の展開を迎える。ユダヤ人の印である黄色の「ダヴィデの星」を付けられた作曲家と詩人、他のゲストも次々と引っ立てられていくのを見て、呆然と立ち尽くすしかないマドレーヌと伯爵。
◆機転を利かせたラ・ロシュが「連行役」を買って出、隙を見て作曲家と詩人を逃がす。

◆本来、主人たちの騒動に苦笑する召使いたちの合唱だったはずのシーンは、冷たく室内を荒らすナチ憲兵たちの合唱シーンとなり、「これが終われば食事」「お客のいない夜ほど良いものはない」という台詞の鋭い攻撃性にひんやり。
◆シュトラウスを模したとしか思えないプロンプター氏(ムッシュ・トープ)の登場が、物語の完結につながっていく。執事長=ナチ憲兵隊長が言うところの「現実の世界」に現れたシュトラウス。

〈月光の音楽〉
荒らされた室内に差し込む青い月光の中で、逃げ遅れたバレエ少女の一人が、見張りに残って銃を構えた憲兵の一人に見つかってしまう。
憲兵が上着を脱ぎ出したので最悪のレイプ演出も脳裏をよぎったけれども、バレエ少女と憲兵は手を取り合って踊る。見張りの憲兵の正体は余興に参加していた男性バレエダンサー、身はナチに売れども心は、、という健康な設定と見ました。しかし絶望的なバレエシーン。。

◆そして、歩み出てくるのは白髪の老婆となったマドレーヌ。
◆2009年には廃墟と化している過去。瓦礫の室内から詩人の詩集と作曲家のスコアを掘り出したマドレーヌは、台本通りの台詞で「11時に図書館で…」と歌い、深く絶望するのだった。
◆鶴翼の形に開いていたセットが、結末に向かってガラス張りの小部屋に閉じていく。過去がすでに手の届かない過去になったことを示しているのかなあ(在りし日に作曲家が弾いていたチェンバロが小部屋に飲み込まれていく)。
◆絶望のマドレーヌにあんまりにも救いがないなあと思って見てたら、劇のセットではない舞台袖からプロンプター氏=シュトラウスが静かに歩み出て来、マドレーヌが手にしていた詩集とスコアは彼の手に収まる。マドレーヌは救済されただろうか。暗転。
+ + +

僕はこの演出、素直に巧いなあと思った。
「藝術風刺オペラ」の枠組みをそのままに、その行間に隠れている人間のドラマをあたかも劇中劇のようにして掬い取り、そうして最後にはプロンプターという登場人物の姿を借りて、「藝術風刺オペラ」も作曲家シュトラウスの人生における劇中劇であったということを気づかせる、、ということではなかったろうか。自分はそのような入れ子構造を感じた。大勢押しかけていたオバハンたちがどう理解したかは知らない(少なくとも両脇のオバハンはぐうぐう寝てたぞ)。

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■うたと音楽
《カプリッチョ》との最初の出会いはプレヴィン/ウィーン・フィルがシュトラウス作品集の中で奏でる〈月光の音楽〉でしたが、こちらはいかんせん管弦楽曲の抜粋。ここに至るまでの長い長い“会話劇”を十二分に聴いた上で耳にしたときに、その無言の美しさが何倍にも膨れ上がっていたのは大きな驚きでした。何の言葉もないあの場面に強烈に美しい音楽を付与したのは、シュトラウスの「作曲家としての」クレドなのだと思う。

それに従うマエストロ沼尻の想いは、あの大胆にして胸苦しいアーティキュレーションにすべて現れていると感じられた。
どの楽員もソリストになる必要のあるスコアを見事に捌いただけでなく、たとえばフラマンの告白を受けたマドレーヌが気にしないフリをするシーンや、〈月光の音楽〉後のラストシーンなど、気持ちが言葉を裏切っているような場面では特にニュアンスが豊かで、マドレーヌでなくてもうねるような音楽の力に魅了されてしまうところです。彼が作り出す後期ロマン派音楽にはいつも感心してるけども、今回はいっそう冴え冴えとしていたなあ。シティ・フィルには正直いい印象を持っていなかったけれど、今回は熱に浮かされたような官能的な音を発していました。。

歌手に関しては、二期会の底力を思い知ったとしか。
まず、あちこちのブログで評価の高い佐々木さんは、非常に高潔な高音とお茶目な中音がマドレーヌのキャラクタによく合致していて、本当に安心して聴いていられました。特に最後の十分間、白髪の老婆になってからの絶望的に切ない歌唱は忘れがたい。。

それから2人の恋敵同士、フラマン役・望月氏とオリヴィエ役・石崎氏の安定感も、今公演のフォルムを堅牢なものにしていた。あれならマドレーヌが迷うのも無理ないよね。。広田大介氏の解説通り、望月氏に音楽的見せ場が多いのは不公平な気もする(笑)
劇場支配人ラ・ロシュ役も忘れてはならない第4の極。米田氏は嫌味ったらしくも憎めないラ・ロシュのキャラクタをどっしりと演じ切り、前述のように2人のユダヤ人青年を救う役も買って出て美味しい。作劇論に関する長大なモノローグも、最後でほんの少し疲れがあったものの総じて重厚で、凄みがある。

さらに(まだ続くよ)女優クレロン役の加納さんはいつも通りの深沈としたメゾを聴かせるし、イタリア人歌手役の2人もわざとらしくて愉しい。執事長と8人の従僕たち(実はナチの憲兵たち)は本当に生気なく冷徹な歌唱で、あの細やかな演技は素晴らしかった。

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DVD化されて発売されてもおかしくないプロダクションでした。何度か見直して、見落としているはずの細部を観察したい、そういう思いにとらわれている。
by Sonnenfleck | 2009-11-30 22:19 | 演奏会聴き語り
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