ゲーテ/池内紀訳『ファウスト』、1999年、集英社(2004年、集英社文庫) 文系型中二病に端を発する『ファウスト』への思いは、故郷の中学の冬の朝の図書室からずっと、この身にくすぶり続けています。そしてくすぶったまま挫折を繰り返し、年月は過ぎる。凡そ文系であればこのへんの屈折した感情は同意いただけるものと思うのです。 9月、意を決して池内訳を買い揃えてから、12月12日にようやく読破。長患いの中二病に一つの決着がついた達成感とともに、この作品の複雑な(しかし意外に直截な)美を俯瞰することができた喜びは強い。 なぜ読み通すことができたかというと、池内訳は散文なのです。 ちょっと長いけど、彼自身の解説を引用しましょう。 『ファウスト』には、実にさまざまな詩形が使われている。二十代から八十代までにまたがっているのであれば当然である。その場に応じてもっともふさわしい詩形が、もっとも効果的に使われた。この点だけでもゲーテはまさしく天才だった。池内先生には(先生と呼ぼう)、一生頭が上がりませんな。ドイツ語を自在に操りながら原文を味わう能力がない以上、日本語話者のままで「いまひとたびの出発」に立ち会える贅沢な喜びは、言葉では言い尽くせない。仮令この「出発」がリライトと小馬鹿にされようとも、ガチガチの韻文訳の表面を舐めてわかったようなふりをするよりはずっといい。 + + + 第一部のストーリーは有名だから、韻文でも気合いを入れればなんとかなりそうだったんですよね(何度かの挫折からわかったこと)。でも、老ファウストの強い絶望感と若ファウストの欲望、誘惑されるグレートヒェンの心の機微、憎めない皮肉屋メフィストフェレスの実際など、散文にしかないであろう生々しさに胸が躍ります。思ってたよりもずっと愉快で猥雑な人間ドラマなのだなあ。 問題なのは第二部。なるほど池内先生が解説に書いているとおり、こちらはマクロコスモスなのだ。第一部がせいぜいテレ朝21時の二時間推理ドラマだとしたら、第二部は、何十チャンネルかを分割画面で同時に見ていくような感じ。視点も時間も複数が同時に進行しているから論理なんかズタズタだし、登場人物が普通の意味で「登場」しているかどうかだって怪しいものだ。 つまり第一部とは全然位相が異なるわけで、さすがの池内訳散文でも意味を捉えるのに心の強度が必要な部分が多いのです。でもそんなときは無理に意味を取ろうとせず、無心になって、池内先生が日曜喫茶室で聞かせる話し方そのままの柔らかい日本語と、圧倒的なイメージの氾濫に淫するのが一番だということがわかった。 瓶詰め生命のホムンクルスが海に向かう第二部第二幕は、今回の体験の中でもひときわ圧倒された局面でした。海神ネレウスの娘ネレイデスとセイレーンがエメラルドグリーンのエーゲ海で歌い交わすシーンの巨きな美に、座って本を読んでいた電車のシートがぱあっと浮かび上がって上空に飛ばされるような、物凄い感覚に襲われたこと、これは書いておかなければならない。 なんという氾濫だったろう!あれは! ※この副産物として、『崖の上のポニョ』が、『人魚姫』よりも《ワルキューレ》よりも、何よりもずっと『ファウスト』第二部第二幕に近いということがわかった。あの、深読みを誘う(しかし深読みしようとすると破綻する)物語に思考が囚われていては、宮崎駿の中の海と官能のイメージに入り込むことはできないような気がする。イメージに論理も何もあったものではないから。。 + + + そして、音楽ファンとしての最大の喜びは、マーラーの第8交響曲にさらに深く接近するための道筋がわかったことです。 よくもまあ…あの第五幕の最終場を音楽化しようとしたなあという尊敬の念がまず浮んでくる。ファウストが息を引き取った後のことだから、もはや人称らしい人称はなくなって、「山峡、森、岩」の隠者たちと天使たち、マリア崇拝の博士、かつてグレートヒェンと呼ばれた女、そして栄光の聖母らが、めいめいばらばらにファウストの救済と肯定を歌い上げている、ポリフォニックなテキスト。 しかし、ここにファウストの転生フラグが立っていることに、恥ずかしながら今回テキストを読んでみるまで気づいていなかったのです。《大地の歌》のテキストだって、最後は永遠の救済のようなものを望んでいるわけだから、もしマーラーが自分をファウストに重ねていたとしても、それは自然なことだと思う(アルマはメフィストフェレスほど甲斐々々しくはなかったかもしれないが)。 a音とu音とo音が多い池内訳の結尾には、神々しいほどの単純さがある。 これでマーラーは救われるだろうか。 うつろうものは
by Sonnenfleck
| 2009-12-14 23:04
| 晴読雨読
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