ようやくドホナーニのマーラー9番を聴いた。

c0060659_13132468.jpg【DECCA/289 458 902】
●マーラー:交響曲第9番
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  クリーヴランド管弦楽団

おっCD感想文久しぶりじゃね?的な?

「このブログのキャラクタだからきっとこのCDのこと書くでしょう?」という、傍から見たらそんなことどうも思ってねえっつうのというジジョージバク。この数ヶ月、縄抜けしたつもりになっていたけど、むしろその空白の辛さによって、この強迫観念を自分の力で断ち切るのは無理であるとの結論に達した。断ち切るよりはもがき苦しんでも何かを書いて、乗り越えていくよりほかにないのかもしれない。だからこの演奏のことを書きます。

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僕がこの曲の中身をちゃんと知ったのは、FMから流れてきたケント・ナガノのライヴと、それからラトルとギーレンのCDだったから、見事にドライなテクスチュア好みに育った(と自負)。
それにしてもこのドホナーニは、ドライマラ9好みの僕でもかなりビビるほど大気が乾燥している(特に真ん中の二楽章に関して)。これまでに聴いてきた一連のドホナーニ録音群の中でも異色の乾燥ぶりと書いてしまいたい。

ウェットな曲づくりは何がウェットを感じさすのかと言うと、まあ要素はいろいろあるけれども、僕は第一にフレーズの収まるところに湿り気を感じる。
各フレーズのしっぽに吐息のような余韻が残っていると、次のフレーズの立ち上がりにその余韻が微妙に重なって襞ができる。さらに、特にオーケストラであれば、楽器ごとのズレは無くなりようがないから、フレーズしっぽ自体にも襞がある。これによって何層もの重なりが湿気に富んだテクスチュアを形づくるというわけ。
(蛇足ながら、湿度には演奏のスピードは関与しないように思う。速くて湿った演奏も、遅くて乾いた演奏もある。)

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ドホナーニのマラ9は、この人らしくフレーズの設計が隅々まで行き届いて、一片の破綻もない。気になるフレーズしっぽには、憎たらしいことに、余韻の襞まで「設計」されている。
マーラーの懊悩に付き合うことなんて端からドホナーニの頭にはない(この録音を聴いて「苦しむマーラーの姿が表されていないといえよう!」とか言っちゃうのはマヌケです)。ネジやバネや歯車が噛み合って運動しているところに、私小説的なのけぞりや不幸の涙や洟が生じるわけがないんですもの。その意味で第2楽章第3楽章の、触覚に訴えてくる機械的な美しさには心底驚嘆する。ことに後者なんか、ブルレスクに縋りついてでも生きたい作曲者を完全に無視して、テクスチュアで遊んでしまう非道の演奏でありましょう(こりゃまさに二重ブルレスク)。

この作品は両端の二楽章と真ん中の二楽章が別物すぎてさぞかし設計に苦労するんだろうなあと思うんだけど、この録音の第1楽章は乾きと湿り気のバランスが素晴らしい。フレーズとフレーズの連結部分はしっかりしているのにわざと曖昧にぼやかされているので、フレーズたちは間接照明のようにぼうっと暗い部屋に浮んでいるような具合。泣いたり絶叫したりする演奏がお好きな方はここに近寄ってはいけないかもしれない。

第4楽章だけは、湿った旋律美の図面がシンプルに選択されていて興味深い。フレーズしっぽごとに設計されている襞が急に厚くなって響きが前方に滑らかに流れ出す様子が、真ん中の乾ききった二楽章との著しいギャップを形成している。これは、ウソっぽいくらい超高級なクリーヴランド管の弦楽合奏がいい味を出しているとしか言えず、コーダの薄氷のようなpppには、他の演奏では味わい難い冷たい緊張感があります。

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150→100の初めに。
by Sonnenfleck | 2010-01-11 13:18 | パンケーキ(20)
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