新国立劇場 《ヴォツェック》(11/21)

鬼も呆れる時差感想文。

c0060659_21124953.jpg【2009年11月21日(土)14:00~ 新国立劇場】
●ベルク:《ヴォツェック》
→トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォツェック)、
  エンドリック・ヴォトリッヒ(鼓手長)、
  高野二郎(アンドレス)、
  フォルカー・フォーゲル(大尉)、妻屋秀和(医師)、
  大澤建(第一の徒弟職人)、
  星野淳(第二の徒弟職人)、
  ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン(マリー)、
  山下牧子(マルグレート)
→新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
⇒ハルトムート・ヘンヒェン/東京フィルハーモニー交響楽団


生で舞台を観たことのない演目ってのは結構多い。《モーゼとアロン》は体験済みで《ヴォツェック》が未体験というのは変わり種かもしれないが、ようやくこれをライヴを味わうことができた。故若杉監督の薫陶は僕のようなキャリアの浅いクラファンにも及ぶのだから、まことにありがたいことです。
会社への往還にiPodでベーム盤を聴きまくったので、予習はバッチリ(新聞に目を通しながらヴォツェックを聴くことの倫理性は措いとく)。

■悪意の沼地+見る装置
最初にして最大の吃驚だったのが、今演出の核の部分が、舞台一面に浅く水が張られた「長靴ヴォツェック」だったという点です。
ヴォツェックが嵌まり込む沼地は、第1幕の大尉のシーン直後から終劇までずっとそこに存在していて、そこには、黒いフロックコートを着た黙役たちがパラパラと立っている。彼らは誰かが放り投げた肉片やGeldに群がったり、〈職求む〉のカードを首に下げて一列に並んだりして、一見本筋とは関係ないことをやってみたり、あるいはヴォツェックにナイフを渡したり、マリーの死体を片付けたりして、黒子を兼ねながら進行に絡んできたりもする。彼らの存在感はなかなか凄くて、僕は「社会の悪意」「狂気」「ヒステリー」の擬人化なんだろうなあと思って見た。でももしかしたら何の意味もない遊び要素だったかもしれない。

そんな「沼地の妖精さんたち」が巨視的なフォルムだとしたら、微視的なフォルムとして位置付けられていたのが「家庭」だったろう。細部の趣味がちょっと特殊だけども、そうした意味では正統的なやり方ではあった。

こちらのほうのフォルムを黙役として支えていたのが、ヴォツェックの息子。
彼は始まりから終わりまで舞台の上にいて、父親が大尉のヒゲを剃っていたり、実験台にさせられていたりする様子を見ている。あるいは、母親が鼓手長と不倫関係にあるのを見、第3幕でマグダラのマリア気取りの母親に向かって、壁に「売女」と書く。終幕では溺死して沼地に浮んでいる父親の死体に寄り添って座ったりする。
子どもの黙役はびわ湖サロメでも「装置」として大事な役割を担っていたわけだが、狂人ばかりが登場するオペラに対峙した観衆が、誰かに感情移入しなければならないものなのであれば、思いは彼らに注ぎ込まれるしかない。そして、彼らが幸せになることはない。

でもね。細かすぎてめんどくせ、というのが一番の感想。
本筋に何ら関係のない小ネタを散りばめるやり方はとても好きだけど、そうではなくて、「本筋」のヴァリアントが厖大に並べてあるのはご勘弁願いたい。あれならもうちょっと約分されてもよくね?という。

■うたも音楽も
そんなわけであんまり頭に入ってきませんでした。
マイヤーという人のヴォツェックは声が立派すぎて哲人みたいだったなあ。案外マリーって見せ場少ないんだなあ。殺人シーンの音楽は本当に凄いなあ。
by Sonnenfleck | 2010-01-17 21:28 | 演奏会聴き語り
<< ロジェストヴェンスキー/読売日... さよならオトマールじいさん >>