イーヴォ・ポゴレリチ リサイタル@サントリーホール(5/5)

4月28日のデュトワ/フィラデルフィア管との超対決、5月3日の怒号飛び交うLFJ出演などのレヴューが上がるにつれ、この伝説を聴き逃すわけにはゆかぬと思われて、5月5日の当日券に並ぶことにした。
カラヤン広場に薫風吹き抜けるこどもの日、30枚の当日券を求める長蛇の列は、おのおのの時間を心地よい期待のうちに過ごしたものと思われる。あの中の誰が、その後展開されることになる人心惑乱時間を想像していただろうか。

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c0060659_10142736.jpg【2010年5月5日(水) 14:00~ サントリーホール】
●ショパン:ノクターン第18番ホ長調 op.62-2
●同:Pfソナタ第3番ロ短調 op.58
●リスト:メフィスト・ワルツ第1番
●ブラームス:間奏曲イ長調 op.118-2
●シベリウス:《悲しきワルツ》
●ラヴェル:《夜のガスパール》
⇒イーヴォ・ポゴレリチ(Pf)



開場遅れること10分、開演遅れることさらに15分。
極端に照明を落とした暗い舞台に、急ぐでもなく悠々と歩み出てくるポゴさん。

前半のショパンとリストの80分間は、この二人の作品に縁遠い僕にとっては、まさしく気が遠くなるような時間でありました。
かの有名な停滞的テンポと極端に幅広のデュナーミクを全身に浴びることで、こちらの集中力は十数分で完全に切れ、幾度も短い眠りに落ち、目覚めてもまだ曲の終わりが来ない地獄。「吉田秀和 meets クナッパーツブッシュ」を追体験した。

プログラムに掲載された過去のインタビューで、こう語るポゴさん。
「私の音が長く続くのは、それが深い響きだからです。私はやたら速く弾くなどということを好みません。もちろん、非常に速く演奏することはできますよ。けれど、深い音には長い生命があるのですからね。響きを維持することを好み、2つの音を直ちにひとつの線に連結することは求めない。それよりも私は、をみたいと思うのです。」(「ムジカノーヴァ」2006年1月号)
ぶつかり合った音符が虹のように透き通って、人智を超えていた瞬間も多かったけれど、あるいは絶望的に混濁して、雨のアスファルトに滲んだガソリンの虹のように醜悪な瞬間も多かったのは事実。

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後半、急に追加されたブラームス、それからシベリウスは、原曲を多少知っているために、前半に比べればまだポゴレリチの行為が追い易かったといえる。(プログラムの前半は、だからショパンをしっかりと知っている人なら、凄まじい感激に襲われたのかもしれなかった。)
いま、比較の試みにアファナシエフのop.118-2を聴いてみました。
そうすると、アファナシエフがいかに遅いテンポを以て任ずるピアニストであったとしても、彼の咀嚼はあくまでも理知の辺縁に踏み止まっているのだということがよくわかる。つまり、シンプルに歩くのが遅い人と、意識の森林をさまよいながら足を前に運んでいるだけの人では、速度の意味が違いすぎるということ。

深い森や臭いのする沼地に変わってしまったブラームスのスコアは、拍動や旋律がばらばらにほどけて、和音の雰囲気だけがゆらっとたちこめる異様な空間として示されました。このやり方を、ポゴレリチはここまでのすべての作品に同じように適用するという本当に野蛮なことをしていたのだけど、作品側からの反応・照り返しが最も良かったのは、意外にもブラームスだったように思った。

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《夜のガスパール》。これはたぶん、昔のポゴレリチの「かたち」が破壊されずに残っていた。
ピアノという黒い楽器の秘孔を突いてビーストモードに変えてしまうポゴさんの手腕は魔術的であったが、また同時に、この日唯一、自分がステージに立っている世界的ピアニストで、聴衆に囲まれていることを思い出した瞬間だったのではないかと思う。コンサート会場で聴くホロヴィッツというのは、こういう感じだったのではないかと、なんとなく想像する。

心胆コールド。しかし、久しぶりに、藝術行為を聴いたような気がします。
by Sonnenfleck | 2010-05-22 11:33 | 演奏会聴き語り
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