森は蠢いている

c0060659_2237539.jpg【DISCLOSURE/DS0055-2】
●ヤナーチェク:序曲《嫉妬》
●ドヴォルザーク:交響的変奏曲 op.78
●ヤナーチェク:《シンフォニエッタ》
⇒サー・チャールズ・マッケラス/
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(2004年1月22日、マッケラスのBPOデビュー)

昨年も書いたように僕はヤナーチェクの音楽に距離を感じていて―それはバルトークに感じる微妙な距離とは比べものにならないくらい、絶望的な断絶なのかもしれないのだが―、遠いなりに、この作曲家の不思議さに敬意を払ってもいる。人はこれを敬遠と呼ぶのか。

今やブームの去った《シンフォニエッタ》も、手許にあるのはノイマン/南西ドイツ放送響の録音(Arte Nova)だけ、という状況で、その乾いた静物画のような演奏を聴いて、僕はこれがヤナーチェクなんだあと思っていた(これは想像に過ぎないけども、村上春樹が聴いていたセル/クリーヴランド管の録音も、ノイマンの録音に似てるんじゃないかなと思う)。そういう状態で、マッケラスに寄せたアリアCD店主氏の追悼文に心を動かされてこのディスクを購入しました。

《シンフォニエッタ》を聴いて、ぶったまげた。
テクスチュアのあちこちがギョロギョロと蠢いて、とても気持ち悪いんだよね。
8月に熊野の山の中を歩いているとき、「森の音」としか表せないような、しーん、という音を聴いたのだけど、この、しーん、という音も、杉が気体を吸い込んだり、蟻が小枝を踏んだり、落ち葉が腐ったりする、そういう小さな音のハルモニーなのだろうと思った。気持ち悪くても、それが真。
僕はこの曲の主役を横への機械的運動だとばかり思い込んで(あるいはこの曲に限らず、ヤナーチェク特有の抑揚だけに囚われて)、縦の豊饒な空間を見ていなかったし、同じように、殊ヤナーチェクにおける指揮者マッケラスの練達の手捌きも、僕にはほとんど見えていなかったようだった。

第1楽章の立ち上がりは磐石ではなく、せかせかと速いテンポにオケが幾分ふらついてさえいるんだけど、第2楽章後半から響きが急激に引き締まりつつ、泥のような、草いきれのような強い香りを纏う。
第3楽章の弦楽合奏の綿密さに天下のBPOだなと素直に感激しつつ、フィナーレに向けての管楽隊への追い込みは圧巻の一言に尽き、ちょっと信じがたいような曼荼羅的音響が立ち上がって、須臾にして全曲が過ぎ去ってしまった。百鬼夜行のようであった。あるいは村上春樹の好きな表現を使うなら、このヤナーチェクは「損なわれていなかった」ということか。

+ + +

このような私は、次に何を聴いたらいいでしょうか。《利口な女狐の物語》でしょうか。《草陰の小径》でしょうか。
by Sonnenfleck | 2010-09-19 23:32 | パンケーキ(20)
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