スクロヴァチェフスキ/読売日響 第497回定期演奏会(10/16)

c0060659_2201762.jpg【2010年10月16日(土)18:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


一年前に芸劇で聴いたブル9の、究極★不自然な曲づくりを目の当たりにして、この指揮者から教えてもらったことやそれにまつわる思い出を守るため、もうライヴで聴くのは止めにしよう、と思った。加齢がいい方向に作用していないとまで考えた。

このチケットを取ったのは、それでもやっぱり、何度目かの不思議体験を期待してしまったからだし、何よりも、同じブル7を取り上げた第437回定期(2005年4月)の再現を望んだからなのだった。そんなわけで今一度、スクロヴァチェフスキ讃。

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ブル9演奏との違いで最も驚きかつ安心したのは、ブルックナーらしい響きの質量をナチュラルに活かして、無理に曲げたり撓めたりはしていなかったこと。無論、2005年の定期を思い出してもそんなことはしてなかったし、CD化された1999年のN響ライヴも同様なのよね。えがったえがった。

ただし、ナチュラル極右派たるギュンター・ヴァントとスクロヴァチェフスキが異なるのは、この人がロマンのお砂糖をちゃんと知っていて、しかもそれを適度に用いる術を心得ているという点に尽きる。
人工甘味料とお砂糖とが似て非なるものであるように、例えば現代の某指揮者Tなどが恣意的に復刻を試みる音楽のロマンティックと、モダニストとして生きてきたスクロヴァ爺さんが「自分の物ではなく、むしろ自分はアンチなのだが、まさにそのためによく知っている」音楽のロマンティックと、どう違うかと言うと、それはもうまるで違うんだ。爺さまが今回のブル7で控えめに、しかし確かにまぶしてきたお砂糖は、『1984年』のサッカリンではなかったのだった。

第1・第2楽章の峰と、第3・第4楽章の丘、平原、という構成は五年前と変化ない。でも、あのときに比べてなお素晴らしい印象を残したのは、第2楽章のオトコっぽい甘美さであった。
第1楽章をいつものように骨っぽく、しかし僕がよく知っているレベルの自然さで造形した後、この楽章は内部から響きがじんわりと膨張し、いくぶんもっさりとしたアーティキュレーションの中で、控えめにロマンティックな歌心が奏でられる(ここでの読響Va隊の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい)。辛口の指揮者がふと取り出す(と見せかけてたぶんこの人は全部計算しているのだが…)ホンモノのお砂糖は絶大な効果を与える。また、こういう演奏を聴くと、ブルックナーが中二男子のような感覚をずっと志向していたような気がしてくるし、また、ブルックナー好きに女性が少ないと言われるのもなんとなく納得がいく。
クライマックスの後、ワーグナーテューバも太く円やか。

その直後の第3楽章の勢いに任せたような雑なアンサンブルもをかし。これもスクロヴァ+読響の味わいと思う。
第4楽章は予想以上に音運びのバランスがよく、音色も開放的で楽天的、ブルックナーのフィナーレを聴く愉しみを存分に味わう。第1楽章主題回帰の直前でホルン隊とワーグナーテューバ隊が左右で鳴き交わす箇所(たぶん)の処理がスクロヴァチェフスキはとても巧くて、峰から降りてきて街の鐘楼で鐘が鳴っているのを耳にするような立体的感が、やはりこの演奏でも聴き取れる。
五年前の感想文を見ると、最後の瞬間に向けた大きなリタルダンドが気に入らなかったようだが、今聴けば、これも大質量をソフトランディングさせるための自然な操作と思われた。自然な静寂と大きな拍手。一般参賀アリ。

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コアなスクロヴァファンには、むしろ前半の《未完成》が究極のご馳走だったかもしれない。あちこちのアクセントは硬い一撃、五線譜がキシキシと音を立てているようなインテンポ、、あれほど干からびて甘みのないシューベルトを僕は生で聴いたことがないですよ。。やっぱり変な爺さん。長生きしてね。
by Sonnenfleck | 2010-10-17 22:00 | 演奏会聴き語り
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