未来は僕らのとなりにありてあるもの

ご存知のように、クラヴィコードは17~18世紀に流行し、チェンバロと同じように急速に廃れた鍵盤楽器だが、チェンバロとは異なる機構を持っていて、あちらが弦をはじいて音を出すように、こちらは弦を叩いて音を出す。ピアノフォルテと同様のシステムながら、しかしその音量はごくごく控えめ且つたおやかで、理想的な可聴範囲はせいぜい四畳半ひと間といったところだろう(けっして大げさではない)。

すでに何度か書いているが、チェンバロを弾く(今はオルガンを弾く)友だちが、一時期クラヴィコードを所有していて、触らせてもらったことがある。僕はピアノが弾けないから深くは語れないけれども、打鍵とともに鍵盤の奥のほうが弦に触れる感触が生々しく伝わってくるのがこの楽器の楽しいところで、したがって音量の強弱を含んだ広範なアーティキュレーションが実現可能みたいである。

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c0060659_20535999.jpg【EPR-Classic/EPRC007】
●バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
⇒ベンヤミン=ヨーゼフ・シュテーンス(クラヴィコード)

そのときの体験が面白くて、こんなディスクを買ってみる。クラヴィコードで聴くゴルトベルク。

まずね。ライヴ感追求のために、このディスクは収録音量が極微なのだな。いつもと同じようなヴォリュームで再生し始めると全然何も聴こえないので(直感的には10メートルくらいの距離感)、慌ててきゅうっとつまみを回す。あるいは、つまみを回さないのもいい。「つまみ」ってなんだ。世界には「つまみ」の感性論的意味を探る学者もいるだろうに。

シュテーンスというひとは、パリでアンタイやボーモンにチェンバロを学んだあと、アントワープでインマゼールに出会って劇的にクラヴィコード熱に罹ってしまったらしい。ほんのところどころクセのあるルバートが掛かるのは変態師匠の薫陶によるんだろうけども、楽器の特質もあって、身体の延長線上のように素直でリアルなゴルトベルクだなあと思う。すげえ楽。疲れない。
第15変奏から第16変奏のギャップがあえて避けられているところに、日々に倦んでいる心根がゆったりと刺激される。お城みたいなフランス風序曲が聴けない状態にあっても、これなら、大丈夫。
第20変奏:マルチタスク。
第22変奏:性的桎梏から解放された萌え。

こういう気張らない、サンダル履きのバッハを聴くと、レオンハルトやレオンハルトに対するコープマンなどの演奏は、今になれば本当に「力抜いてよ…」という感じだな。したがって、すでにアロハ+雪駄的だったスコット・ロスは偉大だな。

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amazonでは、この「アルバム」がMP3で購入できる。密室的抒情は回線を通してひとり静かに得られるべきだろう。音楽をダウンロードする行為の美学的意味合いについては、誰か研究してください。
by Sonnenfleck | 2010-12-07 20:57 | パンケーキ(18)
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