新交響楽団 第212回演奏会@東京芸術劇場(1/16)

危機脱す。割れんがごとき頭痛もついには終わる。
しかし、残念なことに、いまだにインフルエンザウイルスを排出し続ける身なれば、今夜の読響500回定期には行かれませんでした。次にファウスト交響曲を生で聴くのは、いったいいつだろう。。

+ + +

c0060659_2151279.jpg【2011年1月16日(日)14:00~ 東京芸術劇場】
●髙田三郎:狂詩曲第1番~「木曾節」の主題による
●同:同第2番~「追分」の主題による
●エネスコ:《ルーマニア狂詩曲》第2番ニ長調
●同:同第1番イ長調
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》(1947年版)
 ○チャイコフスキー:《くるみ割り人形》~パ・ド・ドゥ
⇒曽我大介/新交響楽団



さて、これが休館前の最後になるかなあ。
現・芸劇、、色づかいは寒色系で寒々しいし、トイレは暗いし狭いし、椅子は安くてギシギシいうし、音は遠くてスカスカだし、いい演奏でも7掛けされちゃうようなひどい空間でしたね(ショスタコーヴィチとかシベリウスを聴くにはよかった)。いくつかのいい思い出もありますが、個人的にはここに行くと頭痛がしたり寒気がしたりで、あんまり積極的には近寄りたくない場所だったな。大改装を望むものです。

しかしな。うん!今回はなんか元気になるコンサートだったな!

髙田狂詩曲は、初演以来なんと60年ぶりの蘇演とのこと(第1番が1945年、第2番が1947年)。素材の煮詰めがたいへん懇ろな作品で、たとえば外山《管弦楽のためのラプソディ》などとはまるで異なる。主題に沿って直線的に盛り上がるかと思えばすぐに脇道に外れ、その反動で尾根にワープ、そのあとずっと葦原、みたいな曲調。主題は親しみやすいのに勢いを形成しづらいというのは、演奏者にとってはいかにも大変そうでしたね。
しかし、浅漬け外山ラプソディに対して、古漬け髙田ラプソディ、これも日本の時間のかたちだよね。Naxosの「選輯」、髙田は合唱作品集なのかもだけど、これら初期作品は入るべきと思いました。お客さん盛り上がってなかったけどね。。

かたやエネスコ狂詩曲は、実は生まれて初めて聴いたのですが、愛すべきバカ曲というか、きっと昔はプロオケの定期でもたくさん演奏されたんだろうなあ。しかしこれはマーラーの交響曲の前に意図的に置いてあっても、ある文脈ではまったく正しい曲よな。
オケは、直前の髙田作品のふんにゃり時空に引きずられたか、お客さんの気のなさに引きずられたか、あるいはプロオケのように照れたかして、やや湿っぽく固い演奏に終始してしまったような気がする。奏者のひとりひとりが、ぱあっと派手にやったる!という気持ちをもっとストレートに右手やブレスに籠めれば(学生のようにね)、この作品においてはよりよい結果が得られたのではと思う。極度に巧いアマオケならではの壁なんだろうか。



とかなんとか思っていたら、《ペトルーシュカ》でぶっ飛び。
この音の圧力の強さ、ブリリアントな響き、これこそが高級アマオケで味わうことのできる嬉しさ愉しさでありましょうね。エネスコは練習が十分に行き届かなかったのかな。難しそうなパッセージばっかりだったしな。

とにかく〈謝肉祭の市場〉冒頭から、木管楽器たちが「ずごおぉーっずごぉーっ」という、見事に肥えた響きで飛ばしてくる。最初に思いもよらぬ巨大な質量があって、ついに終局までその大質量の移動でもって音楽を形作ったような趣き。ムーア人も踊り子も警官も轢かれてしまったよ。
〈ペトルーシュカの部屋〉は、だからとても変な感じであった。ジャンプ漫画の主人公のようなペトルーシュカに、閉じこもるべき部屋はいらないよね。あ、精神と時の部屋かね。
なんだかこれじゃ、、誉めてるんだか貶してるんだかよくわからないですが、ともかくも全体はとっても面白かった。ブーレーズ的ストラヴィンスキーへの明確な反動の意志を、新響を巧みに煽動して?実現した曽我氏の手腕に驚いたのでした。全然タイプは違うのに、モントゥーの古い録音のことをふと思い出す。

後先考えないハイカロリーな音響を保持し続けた各パートの皆さんに、まずはお疲れさまを。それから特に、首席Tp氏は本当に本当にお疲れさまでございました(物凄いプレッシャーだったろうなあ)。確かにヒヤヒヤはしたけど、プロ以上に鋭くコースを抜けた箇所がいくつもありましたよ。ブラヴォ!



曽我氏は面白い人かもしれない。この日は西武線沿いのつけ麺屋のおやじみたいなコスチュームだったけど、アンコールのくるみの〈パ・ド・ドゥ〉の煽り方は土俗的と言ってよかった。
by Sonnenfleck | 2011-01-22 21:54 | 演奏会聴き語り
<< オサレ駅のオサレ本屋に対する反... 華氏140度:7 >>