フェドセーエフ/東京フィル 第798回サントリー定期(2/11)

雪の降る街を歩いて、久しぶりに重量級のハシゴ。順番は前後するが、ハシゴの二軒目から先に感想文を書いておきます。

北東北育ちの男子的には(いつまでも僕を支配する男子中学生メンタル的には)、雪に対して傘をさすのはとってもとってもとーっても格好悪いことなので、この日も傘を持たずに外出したのだが、残念ながら東京の雪はすぐに融けてしまうので、頭からずぶ濡れになった。東京で雪なのに傘をさしていない男性は北東北以北の人だと勝手に変換して、勝手に親近感を抱いてしまう。

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c0060659_1050518.jpg【2011年2月11日(金) 19:00~ サントリーホール】
●ドヴォルザーク:Vc協奏曲ロ短調 op.104
 ○バッハ:無伴奏Vc組曲第1番~プレリュード
 ○同:同第3番~サラバンド
 ○同:同第3番~ジーグ
→アレクサンドル・クニャーゼフ(Vc)
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》
  (1911年版コンサートver)
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
  東京フィルハーモニー交響楽団


フェド久しぶりだなあ。最後に聴いたのは2006年の1月に《森の歌》をやったときみたいでしたが、それよりも前、2003年にタコ10を振ったときにすっかり魅了されてしまって、いまだにそれを上回る思い出ができないこの関係。

ともかくもこの5年間でいろいろな音楽を聴いてきて、今回それでもなおかつ、フェドセーエフすげえなあ…と思った次第。
ソヴィエトの香りを音楽に籠めることができる指揮者はもうほとんど残っていないと思うが(ロジェヴェン老師はそういうのを超越しているし、テミルカーノフやキタエンコは、なんか違うのだ)、日本に住む僕らにはラザレフとフェドセーエフがいてくれる。前者がチャイコフスキー的高慢を体現するなら、後者はバラキレフ的お下劣を巧妙に構築する技に長けているといえよう。もちろんどちらも褒め言葉ですよ。



今回の《ペトルーシュカ》が、もう出会うことはないであろうまことに奇矯な演奏だったことを、まずは初めに書いておこう。
とにかくすべてのフレーズが泥のように粘ついていて、それぞれの短い局面においてはたいへん気持ちの悪い音楽なのだが(バレエ音楽のバレエ音楽性を、極端に突き詰めるとこうなるのだろう)、しかしその短い局面が連続して並んでいると構築は破綻しておらず、むしろ丁寧なつくりさえ感じさせて、アルチンボルドの野菜人間みたいな変な安定感が生まれている。

白眉は第1場第4場。謝肉祭の広場の塵芥と泥濘の中から次々とパッセージが立ち上がってこちらに押し寄せてくる様子には、酩酊感を覚えるほどでした。何が、どのパートが、というよりも、トゥッティが隅々まで調教されたときの威力に気おされた、というか。だいたいの時間において、東京のオケとは思えないような傲然とした響きが立ち昇っていたよな。この、謎の土俗性。もしくは肉々しさ。

何も知らない人に「この音楽はペトルーシュカという乙女が異教の祭典に生贄として捧げられる様子を描写しているのだ」と説明して、彼を納得させるのは容易いだろう。三大バレエの中でももっともモダンでドライなこの作品でそれが起きたということに驚いている。
こうした様式で《レクイエム・カンティクルス》などやった暁には、十二音時代のストラヴィンスキーが決然と見直されることになろうかと思うが、そんな日はついにやってこないだろうな。ソヴィエトの体制がもう30年くらい続いていたら、ソヴィエト型の怪しい指揮者に成長したゲルギエフなどがやってくれたかもしれないが。



前半のドヴォルザークも実に自由な演奏で。
2007年のLFJで同じ曲をクニャーゼフで(+ドミトリー・リス/ウラル・フィルで)聴いた自分は「ひたすら演歌の人」との感想を書き残していますが、指揮者まで演歌に徹するとこうなるんだろうなあ。全盛期のロストロポーヴィチのライヴはこんな感じだったんだろうか。世界で一人くらいは、こういう本能のままのチェリストが一線級にいるべきだと思う。チェリストがみんなケラスとかウィスペルウェイみたいじゃつまらないものね。(おっとこれはマイスキーの悪口じゃないぞ。)

アンコール。真ん中のサラバンドはグッと胸に来た。

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ホールを出ると、まだ雪がちらちらと舞っている。コンビニでビニール傘を買った。
by Sonnenfleck | 2011-02-13 10:52 | 演奏会聴き語り
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