ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第4回(2/19)

c0060659_1455252.jpg【2011年2月19日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第8番ヘ長調 op.93
●交響曲第9番ニ短調 op.125 《合唱付き》
→リーサ・ラーション(S)
  ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)
  ベンジャミン・ヒューレット(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


◆第8番、ノーコメント。
この交響曲だけはいまだに正体がわかりません。ハイドンパロディ、そしてセルフパロディも含んだベートーヴェンの《古典交響曲》なんだろうなーということは薄々感じているが、この日の演奏でも確信には至らなかった。

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◆シンフォニア付きオラトリオ ニ短調 op.125a 《歓喜に寄す》
よくね、通のひとって、「第九は第3楽章まででいいんざんす」って言うでしょう。
しかしこの日の演奏を聴いてなお、そう言い切れるだろうか。

第1楽章第2楽章。泰西古典大交響曲の、大楽章としての。
ツィクルスを通していくつかの曲から奪い取ってきた交響曲性を、今度は自分の手駒として投入するブリュッヘン。確かに、古楽「風」アーティキュレーションをツールに用いながら、彼のやりたいことはフルトヴェングラーなどとほぼ変わらないのではなかったか。ジェットコースターのように上っては下る響きの波に洗われる客席。静まり返る。
そして、第8までの編成から弦の各パートを倍増させているにもかかわらず、アンサンブルの状態は前半とはずいぶん違う。劇的なパッセージで表情の彫り込みがより豊かになっているのはよく理解するけども、静かな局面においても静けさがより濃密になっているのは、これは綿密な練習の結果であろうよ。ツィクルスを通じて、新日のアンサンブルの状態は不安定と言ってしまってよかったが、当たったときのここ一番の集中力はなかなか凄い。

第3楽章レチタティーヴォ楽章としての
この扱い。まずここで、たいへん驚く。
1stVnやOb、Flなど、旋律を奏でる高音楽器の言語的な取り扱い、その揺らぎは、完璧に語りであった。そこへVcとKb、Fgまで勝手気ままに振舞うと収拾がつかなくなってしまうんだけど、そこは通奏低音としての役回りがちゃんと計算されていて、揺らぐ高音にヒタリ…とつけてリズムの一定の秩序を守る(この日のVcトップが花崎氏だったのはちゃんと意味があった)。この楽章は滔々と甘美に歌われるアリアではなく、レチタティーヴォだったわけだ。

1992年の正規全集(PHILIPS)、2006年のシャンゼリゼ・ライヴ(KARNA MUSIK)、聴き返してみればいずれもその萌芽があるんだけれども、実体験としてはもっと鮮烈であった。悠然と伸び縮みし、自由に呼吸する音楽。クラヲタに蔓延する第九アダージョ至上主義は、アダージョがアリアとして扱われることによる思考停止状態ではないのか。

そして第4楽章。要するに、レチタティーヴォのあとには何がくるかということ。
第3楽章のレチタティーヴォの雰囲気は、力強く訓練されたVc+Kb軍団によってさらに引き継がれる。その中ではあたかもVcがテノールソロ、Kbが通奏低音であるかのような分担作業が行なわれ、歓喜の主題を経てバリトンソロの登場が待たれる。。
ところが、バリトンソロがステージの上にいない。バリトンだけでなく、残りの3人もいない。合唱団は第1楽章からずっとオケの後ろに座っているのだけれど、ソリストたちが入場していない。二度目の不協和音が鳴り終わっても、ソリストが入ってこない。どうすんの!?
そうして、バリトンのウィルソン=ジョンソンが「O Freunde, nicht diese Töne!」と歌いながら、合唱団員をかき分けるようにして入場してきたとき、そして合唱団が「Freude」の入りを半拍以上、下手をすれば一拍程度早めて演技的に発声したとき、これはヘンデルがたくさん書いたオペラ=オラトリオのパロディだな、という妄想的結論に至る。ああ!そして時はもうまもなく四旬節なのであった(かつてヘンデルは、四旬節の間はオペラの上演を控えて、オペラ歌手にオラトリオを歌わせていたのです)

もうね、背すじがぞくりとしたですよ。
レチタティーヴォ→アリア+合唱という、確固たる連続性の演出にも賛辞を贈りたいけれども(第九に第4楽章は必要だということ)、僕はそれ以上に、そのもうひとつ外側の箱であるところの、演技性の表出に驚嘆させられたのだった。

これは何十年もバッハやヘンデルに立脚して音楽をやってきたひとでないと発想できない事柄だろうし、第九から最後の最後で「第九性」みたいなものを剥ぎ取って、指揮者が考えている、或る文脈の中に再び位置づける行為だった。ちゃんと思想の用意された回答であることよ。
(2008年のスタヴァンゲル響とのベートーヴェン・ツィクルスは、8&9の回のみ録音できておらず、この試みが新日フィルで初めて行なわれたものなのかどうか、ノイズなどから検証することはできない。ブリュッヘン月間終了後にでも、事務局サイドからの種明かしがあると嬉しい。)

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最後のロ短、どうなる。
by Sonnenfleck | 2011-02-20 14:55 | 演奏会聴き語り
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