ブリュッヘン/新日フィル 《ロ短調ミサ》@すみだ(2/27)

c0060659_2246244.jpg【2011年2月27日(日)15:00~ すみだトリフォニーホール】
●バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
→リーサ・ラーション(S)
  ヨハネッテ・ゾマー(S)
  パトリック・ヴァン・グーテム(A)
  ヤン・コボウ(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


LvBにおいては、特に新しい知見を僕はブリュッヘンに期待して、ほぼすべての交響曲でそれは与えられた。
一方JSBにあって、何か極端に新しい発見はあっただろうか。いや、極端なものはなかった。2009年のワルシャワでのロ短ライヴをポーランド放送で聴いていたから、これは想像の通りであった。

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ベートーヴェンではその精神に忠実であろうとして、時には物議を醸すような仕掛けを乗せたわけだけど、ブリュッヘンのバッハはパッと聴きでは拍子抜けするくらいオーソドックスなことが多い。古楽器アンサンブルがさらに機敏に、フットワークを軽くしていく流れの中に彼のバッハはなくって、最近の流行のような分かりやすい表現を搭載することもほとんどない(もちろん全部がそうとは言えないけど>たとえば管組!)

ブリュッヘンのバッハの「響きの肉厚ジューシー路線」みたいなものは、単にコントラバスを太く弾かせているとか、その程度の細工で実現されてるんじゃないというのが今回のでよーーーくわかった。生で聴いてみないとわからないことってたくさんあるのだ。
管楽器たちを(古楽の方法から逸脱しない範囲で)最大限に厚く盛り合わせ、通奏低音のテクスチュアを(楽器の組み合わせを入念に考慮することで)細かく変化させる。特に通奏低音部隊への要求はまことに特徴的で、このアリアではVc2+Kb1、ここではVc3+Kb2、Vcはお休みでKbソロ、とか、なるほどと思わせる局面が多かったなあ。
楽譜のリズムを牽引するのが普通のコンティヌオなら、その瞬間の主役を邪魔しないように絶えずその質をチューニングしつつ、楽譜の輪郭をくっきり及びもっちりさせるのが「響きのコンティヌオ」。みたいな。

新日フィル。もうちょっとだけ精度を上げてくれ!というところも確かにチラホラあったが、どちらかと言えばそれは個々のプレイヤーの技量や疲労の問題であって、アンサンブルとして荒れているとか志向性が違うとかではないため、あげつらう意味はないだろう(これが一部のLvB曲との違いだった)。一ヶ月間の共同作業の結実として、トゥッティには極めて好い瞬間がたくさんあった。Vc小隊4名の完璧なメッサ・ディ・ヴォーチェを僕は忘れない。

ブリュッヘンのバッハの入口に、日曜日の新日フィルは確かに立っていた。(普段は定期で弾いたりしない古楽風バッハへの緊張感も大いにプラスに働いたんだろうとは思うが)18世紀オケの在東京代理店としてではなく、彼らそのものとして立っていた。これはたいへんな収穫だよねきっと。

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栗友会。第九のときはオヤッと思わせる綺麗な不自然ぶりを実現してたが、逆に今回はオヤッと思わせる「自然な」合唱に仕立て上げられていた。がなるところは強くがなり、神経質にならず、開放的な発声で、嬉しいときは嬉しそうに、辛いときは辛そうに。
アーノンクールの意を汲んだシェーンベルク合唱団と比べてどうこう言うのは容易いけど、ブリュッヘンはバッハにそういう硬い緊張・凝縮感を求めてないのね。それは別の人がやればいい。〈Dona nobis pacem〉の現世ご利益的な暖かみにくるまれて、そう思うのだった。

ソロ。見事にでこぼこしてて、気まま。それゆえにこちらも、奇妙に地上的現世的なのだったよ(就中あの不気味な声質のアルト歌手は、ロビン・ブレイズ以上の、今どき珍しいくらいのオカマっぽさで僕らの度肝を抜いた)

お客さんの反応も誇張がなくて素直であった。涙涙の大ブラヴォ合戦ではなかったし、一般参賀も起こらなかったが、みんななんとなく満ち足りていたようであった。だんだんブリュッヘンのコンセプトに乗せられちまったような気もしてくるのだぜ。ちょいガサガサでオーガニックなロ短。これもアリだろう。
by Sonnenfleck | 2011-03-01 23:15 | 演奏会聴き語り
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