尾高忠明/読売日響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/2)

c0060659_12325729.jpg【2011年4月2日(土)18:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート>
●バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
 ○エルガー:《エニグマ変奏曲》op.36~〈ニムロッド〉
⇒尾高忠明/読売日本交響楽団






この日の演奏を僕は忘れないと思う。音楽と演奏によって整理されたもの、解毒されたもの、受け取ったものがたくさんあったから。
生の音はこれほど情報が多かったか。大オーケストラはこんなに大きな音がしていたか。思い出せない。1ヶ月以上ライヴを聴いていなかったからなのか、自分の神経が過敏になっているせいなのか、とても刺激が強かったことを冒頭に記しておく。

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バーバー。終了後の拍手はご遠慮下さい、とのアナウンスがあり、照明をぐっと絞ったステージに弦楽隊と尾高氏が歩み出る。静かに音楽が始まり、静かに終わる。

10分間の休憩。お客さんの入りは4割くらい。

マーラーは振幅の大きい演奏であった。獣のように威嚇するアクセントと、佳い匂いのする果物のようなレガートがあえて隣り合わせに並べられて、マーラーの内面の不確実性、あるいはマーラーが観測した外側世界の不確実性がはっきりと照らし出されていた。
速報性の高い複数のメディアでは好意的なレヴューが少なくて意外だったが、ここで顕れた「不確実性」は演奏の不確実性ではなく、ある程度までちゃんと整理され演出された不確実性だったということを力説したい(ミスを拾う聴き方はしたくないし、だいいちTpやTb、Vaは堅固に安定していたよ)。尾高さんがこんなに彫りの深い音楽を作るとは、正直、思っていなかったです。
(第4楽章でさらに彫りを深めてメロメロ演歌調にしちゃわないのは尾高さんの見識だろう。繊維質、まではいかないくらい適度になめらかで、テンポも速くはないが、その中でもいちフレーズごとにちゃんと芯があって、響きはすっきりしている。)

僕はいま地震の後の世界に生きて、それまでの自分が(なんとなく)思っていた「生きることの確実性」みたいなものがただの錯覚でしかなかったことを知った。怒りと慈しみがごた混ぜになった第2楽章を聴いて、マーラーもきっと生きているのが怖かっただろうな、などと思う。真ん中にあるVc隊の静かなモノローグ。
でも。でもである。
絶望的な葬送行進曲から始まって、ようよう第2楽章の途中から一条、光が差し込んでくるようなこの交響曲の、その第5楽章まで来て、和らいだ響きにざぶんと浸ること暫し。生きている内面に不確実性を抱えたままでも(外側世界の不確実性に絶望していても)、そして完璧な生でなくても、ただ生きているからには、ただ生きていかなければならないと、僕はここで強く感じたのであった。

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以下、尾高さんのスピーチを思い出して。

「昨日、薔薇の騎士の上演が決まった。マノン・レスコーも、東フィル100周年のグレの歌も皆なくなってしまっててんやわんやだったが、ここまで漕ぎ着けた。」
「今すぐにでも被災地に駆けつけて瓦礫の撤去を手伝いたいが、それも叶わないなら、音楽家はとにかく、演奏しなければいけない。暗くなっていてはだめだ。なんとか音楽で明るくしていきたい。」
「バーバーのアダージョは本当に辛かったが、演奏した。天国にいる方たちに届けばと思う。」
「本来、マーラーの5番の後にアンコールをやるなどありえないが、今は特別な状況でもあるし、(コンマスの)ノーランさんの提案を受けてエルガーのエニグマ変奏曲からニムロッドを演奏する。エルガーが本当に大切な友人を描いた音楽だ。」


ニムロッド。大ホールが音楽に満たされている間、あちこちからすすり泣きが聞こえてきて、僕自身、息を吐き出すときに嗚咽が漏れてしまわないよう、自分を抑えるのがやっとでした。あの音の優しさ、気高さはまたとない体験であったと思う。
by Sonnenfleck | 2011-04-03 12:34 | 演奏会聴き語り
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