メータ/N響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/10)

c0060659_17501469.jpg【2011年4月10日(日) 16:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティーコンサート>
●バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068~エール
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付き》
→並河寿美(S)、藤村実穂子(MS)
 福井敬(T)、アッティラ・ユン(Br)
→東京オペラシンガーズ
→ズービン・メータ/NHK交響楽団


感想文を書くのを止そうかどうか、かなり迷った。
けど、ここは僕のブログで、僕が思ったことをメモしておく場所なのだから、踏ん切りを付けて書くことにした。今夜、N響アワーで取り上げられて、公演の様子をご覧になった方も多いと思う。見た人聴いた人の数だけ、感想があっていいだろう。

1. メータが来てくれたこと
無条件に手放しで嬉しい。彼の心遣いと行動に、僕は心から感謝したいと思う。どなたかがtwitterで「メータはアジア人だった」とつぶいていたのが印象的。

2. まるごとハウマッチ
今日までネット上のレヴューを読んできて、メータ来日と演奏内容を分けて考えるべきではないという考え方が(自覚的にせよ無自覚的にせよ)圧倒的多数であること、そしてこの公演のレヴューがほぼ絶賛一色であることがわかっている。なんとなれば、メータが来日してくれたことを批判する人などいようはずもないから。

今月初めの尾高/読響のマーラーを、僕は演奏行為と演奏内容を分割せずに受け取った。受け取ってぼろぼろ泣いた。したがって、事象をまるごと受容する聴き方を批判することなんてできるはずがないし、だいたい批判しようと思わない。

だから、今回たまたま、行為の意味と演奏の内容を分割して受け止めてしまった者の感想メモの存在を、どうか赦してほしい。
聴かれた方の感動を否定するなんてことは絶対にしたくないし、この感想文によって、感動された方の気持ちを損ねてしまうのが僕の本意ではないということは、厚かましいかもしれないけど、ご理解いただきたい。以下、圧倒的少数派の意見。

3. 遙かなる高みより
傲然として烈しく、揺るがず強靱で楽天的な「第九」。僕の心はここについていくことができなかった。
「いつもの第九」としては文句の付けようがない、日本にいて生で聴くことができうるものとしては最強の完成度であったと思うけれども、N響のパフォーマンスは常の比ではなかったけれども、ただ、そこについていけなかった。ぐじゅぐじゅと卑怯な前置きを書いたが、言いたいことはそれだけなんだ。

弱さ、しなやかさ、懊悩、繊細さ、柔軟さといった属性は、音楽そのものに初めからインストールされていることもあるし、パフォーマンスによって追加的に生まれることも多い。「第九」は、一般的に思われているよりは、指揮者の操縦次第でいろいろな属性を発揮することができると思うのだけど、メータの指揮は一点の揺るぎもない前世紀スタイルで、高いところから高らかに人類愛を叫ぶことを第一に考えていたみたいだった。陰も不安もない第1楽章と第4楽章に、時刻表のように楽天的なリズムを刻む第2楽章と、希望を謳う明るい大演説のような第3楽章と。

地震のあと、弱さや柔らかさのない音楽や演奏が苦痛に感じられる瞬間が、僕の脳みそに何度も訪れている。1ヶ月が経過して、もう元に戻ったかなと思っていたけど、今回の「第九」で気がついたのは、こうした感覚の変化が僕の心根に致命的に刻みつけられているということだった。
「ひとりじゃない」「ひとつになろう」の連呼が僕を変な気持ちにさせるのと同じように、高みから呼びかける演奏は、奥底まで届かずに消えるようだった。永遠にこの感覚を持ちながら生きていくんだろうか。今の僕にはわからない。

+ + +

物凄いオヴェーション。こんなときに日本に来てくれたメータと、それを実現したN響と東京オペラシンガーズの、行為の意味に対して僕は心から拍手した。石造りの巨大なモニュメントの建立式を、遠くのほうから、眺めた。
by Sonnenfleck | 2011-04-17 23:10 | 演奏会聴き語り
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