テツラフ+児玉桃+スダーン/東響 第589回定期演奏会@サントリーホール(5/14)

c0060659_222419.jpg【2011年5月14日(土) 18:00~ サントリーホール】
●シェーンベルク:室内交響曲第2番変ホ短調 op.38
●メンデルスゾーン:VnとPfのための協奏曲ニ短調
→クリスティアン・テツラフ(Vn)+児玉桃(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 op.55《英雄》
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


充実した一夜。聴きに行ってよかった。

何を隠そう、在京オケの中でもユベール・スダーンだけは生で聴いたことのないシェフで、10年くらい前はしばしばNHK-FMで流れていたモーツァルテウム管とのライヴ(ザルツブルク音楽祭)のほうが、東響よりもなじみ深いくらい。

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◆片付けないシェーンベルク。
第2楽章がとてもよかった。シェーンベルクによるマーラーへのオマージュとでも言うべきこの楽章を、あえてとっちらかったままばらばらばらっと開帳したのは、これはひとつの見識だと思う。楽器があちこちでぶつかり合う小爆発が連続して、テンションも上がる(もちろん、爆発を避けて太い縄で縛り上げるのもやり方)



◆「メンコン」タイトルに史上最強の挑戦者
ただの忘れ去られた秘曲だと思ってました。第二次大戦後にソロ+弦楽オケのみのパート譜が発見。この日の演奏で使われた、管楽器とティンパニ入りの完成稿が見つかったのは80年代に入ってから。その完成稿の蘇演はなんと1999年ということで、バリバリの秘曲だよね。
ところが聴いてみたらね。この曲のクールなことといったらない。こんな名曲がいまだに市民権を持たず、10年以上もほったらかしなのは理解に苦しむ。ソリスト複数ってのが鬼門なのかな。

ニ短調の疾走で幕が開く第1楽章の第1主題は、古風な気配。まるでバッハがアリアを導くようにして二人のソロの登場を促している。この曲を作曲した14歳のメンデルスゾーンは、wikipedeiaによれば、クリスマスプレゼントにマタイ受難曲のスコアをもらっているようで、何か意義深いものを感じずにはおれない。
オケがメン様らしい爽快な第2主題を仄めかして消えると、ソロの二人が電撃のように降り立つ。テツラフの鋼のような音と(すげーうめーまじでー)、桃さんの円やかな音が融け合って、えも言われぬ快空間。なおオケは軽めのギアに完全に切り替えられて、ひたすら薄くて軽い刻み隊に徹している。

擬バッハの硬質な第1楽章を引き継ぐ第2楽章は一転して緊張がほぐれ、特有の麗しい浪漫がふあふあと漂う。テツラフは相変わらず鬼神のような弓捌きだけども、時おり垣間見える優しい歌心にギャップ萌え。
そこへ桃さんの綺麗なアタッカで第3楽章。リズミカルでちょっぴりセンチメンタルなロンド形式はこれぞメンデルスゾーン!の貫禄。それにしてもテツラフがあまりにも巧くて言葉を失うのだった。なんだありゃあ。



◆凍れるエロイカ
この夜のエロイカには、ネット上ですでに多くの賛辞が集まっている。同意しないわけじゃない、が、僕はここでのスダーンの造型に物凄いフェティシズムを感じざるを得なかった。なるほどこういう音楽ができあがってくるのか。面白いなあ。

第1楽章の進まなさは果てしなかった。リピートなしに思わずホッとしてしまったくらいには。そこにあるのは、推進力をほぼすべて犠牲にするかわりに、発音にとことん拘って高い解像度を獲る、という哲学だった。録音を聴く限り、あの「遅さ」の中でもチェリビダッケは推進力を保持しているので、スダーン+東響の面白さはチェリとも異なる。勝れて絵画藝術的と言ったらいいのか。

つまり、進まぬ進まぬと思うかわりに、瞬間を輪切りにして聴くように努める。そうすることでその一瞬の鮮やかさに気づくことができる、というわけで。
あたうかぎり生硬で岩石のような1stVnと、春霞のようなFlがしっかり重ねられ、Vaがふっくらとした芝生を描けば、Obが鋭い光線を投げ掛ける。けっして油彩絵の具ではなく、水彩絵の具を品良く(しかし偏執的に)重ねたような美しさ。モローの水彩画を一度だけ見たことがあるのだが、たとえるならばそんな感じだ。

僕は弦の体験しかないから弓づかいの細やかなアーティキュレーションに注目したけれども、管プレイヤーの方の見方も気になる。とまれ、発音にこれだけ拘ると、さすがにクリーヴランドやベルリンフィルじゃない東響は推進力が落ちてしまうようで(各パートで次の音符を拾うのが若干遅れて、それが縦に積み上がる)、そのためにあの前に進まない独特の風貌が出現していると思われた。
でも、それが面白い。このやり方だと長いフレーズは勢いを無くすけど、短いフレーズはむしろ活き活きと輝く。変奏曲である第4楽章、そしてシェーンベルクがとても佳かったことの説明もつこう。

ただ、瞬間は鮮烈でも全体はのっぺらぼう、な葬送行進曲を聴いてしまうと、この楽章に代表されるような息の長いフレーズで構成される音楽に対して、スダーン+東響がどう向き合っているのか、ちょっと気にならないではない。スダーンそのものというより、スダーンがこのオケで採っている施策がそうさせているのかもしれない。

少なくともオケの献身的姿勢は素敵だ。これまで何度か聴いた東響の演奏の中では最も自発的で、俺らが監督の音楽を作るんだ、といった良好な雰囲気が確かにある。
by Sonnenfleck | 2011-05-24 22:04 | 演奏会聴き語り
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