サントリーサマーフェスティバル2011|映像と音楽 - グラス・ハーモニカと砂漠(8/22)

【2011年8月22日(月) 19:00~ サントリーホール】
●シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽 (1929-30)
●フルジャノフスキー監督へのインタビュー
●フルジャノフスキー×シュニトケ:《グラス・ハーモニカ》(1968)
 (35mmフィルム、カラー、21分)生演奏付映像 世界初公開
●「ビル・ヴィオラ《砂漠》を語る」
●ヴィオラ×ヴァレーズ《砂漠》(1994制作/1949-54作曲)
 (35mmフィルム、カラー、29分)生演奏付映像 日本初公開
→有馬純寿(エレクトロニクス)
⇒秋山和慶/東京交響楽団


ソヴィエト文化に興味を持つ者としてはやはり、フルジャノフスキー×シュニトケの短編アニメ《グラス・ハーモニカ》に強いインパクトを受けた。こんなお話。
金権支配の激しいある都に一人の音楽師がやって来る。人心を惑わせる者として彼は逮捕され、楽器も破壊される。が、その音はひとりの少年の心を捕らえて離さなかった。その少年が大人になったとき・・・黒帽警察とその黄色い魔力に落ち、果てしない欲望、孤独、残酷、野蛮にかられた人々はひたすら、シュール、グロテスクに描かれる。グラスハーモニカの静かで澄み切った美しい音色はその魔力を解き、人々に徳が宿り、善行をせしめ、マリアのいる天井の世界へと誘う。ボス、デューラー、アルチンボルドグラスの肖像やルネッサンスを思わせる均整のとれた美しい典雅な世界が広がる。(サントリー芸術財団HPより)
以下、フルジャノフスキー監督の言葉をかいつまんで。

◆《グラス・ハーモニカ》は完成当初、当局の検閲を通り抜けられなかった。
◆そのためソヴィエト指導者のカリカチュアライズをやめた改訂稿を制作し直したが、それでも結局、公開できなかった。
◆改訂稿には「これは資本主義の国のお話です」というテロップを入れざるを得なかったが、民衆がそれを見たら笑っただろう。本当はどこの国のことか、すぐにわかるからだ。
◆現在のロシアに残るフィルムコピーは4本のみで、上映はいまだ困難。そのため今日この東京公演が、公開のかたちでの世界初演である。
◆私の大切な友人アルフレート・シュニトケの音楽もまた、当時は公開演奏されるようなことはほとんどなかった。
◆「アルフレート、君はやがて世界でもっとも著名な音楽家の仲間入りをすることになるよ」と言ったら、彼は笑っただろう。
◆世界はこのアニメの内容のように、金こそがすべて、という状況になってしまった。今こそ、この作品が上映されるべき時だ。
◆ドストエフスキーは「美は世界を救う」と書いている。
◆美に対して鋭敏な感覚を持つ日本でこの作品が上映され、また自分がその場に立ち会うことが出来、たいへん嬉しい。ありがとう。

という感じ。
YouTubeにあった断片を貼っておく。僕がごちゃごちゃと描写するより、実際にこれをご覧いただくのがずっといいよね↓


シュニトケの音楽はすでに、後年と同様の厳しさを備えている。
すなわちスラップスティックと激しいクレッシェンド、打楽器の透明感、バンドネオン、怪物たちの乱痴気騒ぎの躍動感。グラス・ハーモニカの優しいBACH主題から展開する典雅な擬バロック、そしてそれを台無しにする強烈な不協和音…。秋山/東響のプチ重厚な響きが美しい。シュニトケの純音楽的作品はあまりにも苛烈で個人的には敬遠気味だったが、ちょっと考えが改まったのだった。

「金貨の悪魔」によって二度も破壊されたグラスハーモニカが、最後は薔薇の姿で人々を救済し、悪魔は滅びる。理知の時計塔が再建され、画面は静かに暗転する。再びBACH主題が流れるエンドロール。幕。大喝采。
客席のフルジャノフスキー監督は何度もステージに呼ばれ、歓声と拍手を浴びる。隣に座る奥さまは感に堪えない様子で、ずっと泣いておられた。そりゃそうだよね。

監督が最後にとった行動は、この公演のモニュメント性を示していた。秋山さんからシュニトケのスコアを受け取り、僕たちに向かって高々と掲げたのである。

+ + +

後半はビル・ヴィオラ×エドガー・ヴァレーズ。

さて、僕には、ヴィオラの映像が美しすぎて、少なくとも音楽との共同ではなくなっていたように思えた。これはヴィオラの映像を貶しているわけではないし、ヴァレーズの音楽に力がないと言っているのでもない。ただ「どちらがカンヴァスか」という順序構造ができてしまっただけだと思うのだ。
したがって僕にとっては、生演奏付きの、とびっきり贅沢なヴィデオインスタレーションだった。もし生演奏でなければ、都現美の暗い部屋に座って眺めるインスタレーションとそれほど変わらなかった。

もちろん、ここで想起されるのはパリ国立オペラ《トリスタンとイゾルデ》でのセラーズ+ヴィオラ+ワーグナー、というコラボだが、思い返しても、あのときは今回のようなインスタレーション風味を感じなかったのはなぜか。それは何よりも、ワーグナーが生み出したのが「音楽」というより「オペラ」であり、それ自体が強大な重力を持つ「ものがたり」だったからである。

ヴィオラは奇しくも、総合藝術としてワーグナーを引き合いに出していた。そして「いずれもわれわれの脳みそを走る電子の表象であるなら、音楽と映像の間に(そして絵画や彫刻との間にも)差はない」と語っていた。
「差」の定義は抽象的な段階にあるようだが、ここではもっと卑近なところまで段階を落としましょう。それらが共同するとなれば、「ものがたり」があるためにより理解が容易いほう、より官能を満足させるほうが、受容する側にとってのカンヴァスになってしまうのは仕方がないことだと思うのよね。

カンヴァスなしの公平な受容は僕には難しい。差はないかもしれないが、差はある、ということだ。
僕はあのときワーグナーの官能的なスコアをカンヴァスだと判断したし、今回はヴィオラのぞっとするような美しい映像をカンヴァスとして捉えた(それは、ヴァレーズの音楽をBGM以上のものとは認識できなかったということでもある)。それぞれに逆の感想を持った方が大勢おられると思うし、あるいは、ヴィオラとワーグナー、ヴィオラとヴァレーズを等距離で観察できた方だっておられたはず。

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その文脈では、フルジャノフスキーの映像とシュニトケの音楽は、どちらかがカンヴァスになるというわけではない、正真正銘の共同だったと思われる。互いに話し合い、改良し合うことのできた幸福な作品だ。
そしてヴィオラ×ヴァレーズは、共同ではなかったかもしれないが、ヴィオラの映像作品として第一級の価値があるというわけだ。それでいいんじゃね?

(追記1)フルジャノフスキー監督からサインを頂くことができた。かわいい↓
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(追記2)《グラス・ハーモニカ》とまったく同時期に作曲されたシュニトケのヴァイオリン・ソナタ第2番。BACH主題が執拗に登場している。


by Sonnenfleck | 2011-08-28 09:40 | 演奏会聴き語り
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