フォアマン×シェーファー『アマデウス』:サリエリをちょっと擁護してみる

c0060659_20594683.jpg【2011年9月18日(日) 18:00~ TOHOシネマズみゆき座】
<第二回 午前十時の映画祭~赤の50本>
●『アマデウス ディレクターズ・カット版』
 (1985年、カラー、181分)
→ピーター・シェーファー(脚本)
 ミロシュ・フォアマン(監督)

oyamadaさんのtwitterで上演を知り、出かける。これを初めて観たのは中学の音楽の授業、二度目は高校生のときに市販のビデオテープを買って、そして今回で三度目。
連休中日といえども日曜夜の回に観客が押し寄せるわけがない。お互いそれを狙って集まってきてるから、静かなものだ。誰かのポップコーンの香りが漂っている。

ああ。スクリーンで観る《アマデウス》がこれほどのショックを与えるとは。

レオポルドのウィーン訪問のあたりから急激に画面の色調が昏くなり、それは予想通り、1791年12月5日の朝のシーンでクライマックスを迎える(映画館というのはあんな暗闇を表現できるのか)。しかれども画面は最後に一転、画面に凡人の光が満ち、破顔しては赦しを与えていくサリエリの表情。呆然としてしまった。

+ + +

●自分は普段、こばんざめのような二次表現者として一次表現者との間に絶対的な壁を感じながら藝術を眺めているが、一次表現者同士にもこうした壁があるんだろうか。あるんだろうな。二次表現者は一次表現者に対して深い愛情を感じていればそれで済むが、一次表現者が上位の一次表現者に感じる愛情は、嫉妬の形をしなければならないんだろうな。そりゃあ苦しいよな。

●コンスタンツェがなぜあんなにサリエリを嫌うか、これまでいまいちピンと来てなかったんだが、ディレクターズ・カット版でその理由が判明した。そりゃーあの大事なシーンをカットしてたら、サリエリの悪行だけが目立つのは当然じゃん。まあつまり何が言いたいかというとコンスタンツェはおバカかわいいということだ。
●あそこでコンスタンツェをモノにできない、据え膳下げて寝る人間味。

+ + +

●音楽の使い方はやはり非常に巧みだった。《グラン・パルティータ》は言わずもがなだけども、何より今回、シカネーダーの芝居小屋で流れるモーツァルトのパロディ劇のシーンに強い衝撃を受けた(お馬さんからソーセージや鳩が出てくるやつね)。下品なジングシュピールに乗っかる旋律の親密な美しさが、直前に登場するサリエリのオペラセリアとの著しい対照をなしているんだよねえ。

●でも正当なセリアとして聴くと、むしろグルックの後継者としてのサリエリの「確かさ」を感じないわけにはいかない。バッハ以後ハイドン以前の音楽を無視する19世紀的音楽史観が、『アマデウス』を作劇させたということか。


↑グルック《オーリードのイフィジェニー》(1774年)から。2009年、ヴェロニク・ジャンスのイフィジェニー、ルセ/モネ劇場。


↑サリエリの《見出されたエウローパ》(1778年)から。2004年、ディアナ・ダムラウがムーティ/スカラ座をバックにエウローパの超絶技巧アリアを披露している。ぜひ聴いてみてください。名曲の名演奏だと思うよ。

●いっぽう、モーツァルトの《ポントの王ミトリダーテ》(1770年)は「セリアとしては」まったく失格だったかもしれない。


↑何しろシリアスじゃない。これはたぶん2005年のザルツブルク、ベジュン・メータがミンコフスキ/ルーヴル宮と一緒にファルナーチェのアリアを歌う場面。

●とりあえず、バルトリ姐さんのサリエリ・アルバムを買ってみようと思った。
by Sonnenfleck | 2011-10-01 21:22 | 日記
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