とあるショスタコーヴィチ指揮者への追悼文

2012年1月25日、シベリウスのオーソリティとして名高いフィンランド人指揮者、パーヴォ・ベルグルンドが亡くなった。82歳。ベルグルンドは左手にタクトを持つ数少ない指揮者のひとりとしても有名だった。

新聞記事風に書くと、以上。おしまい。

でもさあ。僕は実はベルグルンドのシベリウスを聴いたことがない(なにしろシベリウスが自分にとって大切な作曲家だと気がついたのがごく最近だ)。タワレコから再発売された3回目のシベリウス全集を慌てて買ったんだけど、僕にとってのベルグルンドはショスタコーヴィチを巧妙に振る20世紀の重要な指揮者、というイメージなので、せっかくならショスタコ指揮者としての切り口から追悼文を書こうと思う。

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c0060659_23195592.jpg【HMV CLASSICS(EMI)/HMV5738582】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第9番変ホ長調 op.70
⇒マリス・ヤンソンス/
 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒パーヴォ・ベルグルンド/
 ボーンマス交響楽団

本当は、2001年5月にベルグルンドがベルリン・フィルに客演した際の第8交響曲が物凄いライヴなのだが、NHK-FMを録音したMDがいまは手元にないので、代わりにCDの第10交響曲について書きましょう。
(※ジャケ絵は小さくて見にくいですが、セルゲイ・プリセキンの "All power to the Soviets"(1988)という作品>ソヴィエトに勇気を!か。くすくす。ラファエロ《アテネの学堂》の完璧なパロディだが、プラトン+アリストテレスとは異なり、中央のレーニンとスターリンは全然対話してない。)

ベルグルンドが振るショスタコーヴィチは実に冷たく醒めきっていて、そのうえで、楽器バランスの取り方がどことなく変だ。
親しみ深いコンドラシンやロジェストヴェンスキーのようなソヴィエト流でも、ハイティンクやプレヴィンのようにシンフォニックなアプローチでもない、どうにも聴き慣れない清涼なバランスでトゥッティが鳴る。

この「変な」バランスは、大きく盛り上がる局面より、静謐な瞬間をこそ聴かせようというベルグルンドの考えに立脚しているような気がしている。

第1楽章の静かな場面なんか弦楽器のコントロールが本当に精緻だし、管楽器もオルガンみたいに鳴って、ショスタコーヴィチがまるでカンチェリのように聴こえるという逆流が発生してるんだよね。
しかもその後、響きが爆発してもコントロールが失われないのが巧妙です。客観的な緊張感が全体を覆うことになるので、この楽章終盤の静かで空虚なワルツもすっかり性格性を喪って、風がびょうびょうと吹きすさぶ夕方の荒野のような雰囲気。

第2楽章の清浄な緊張感はまったく不思議。第3楽章はモーツァルトみたい。

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この交響曲は、21世紀に入ってからますます若手指揮者の興味を強く喚起し続けているが、彼らの演奏からは、俺を刻印したい、という欲求が強く臭いすぎて辛いときもある。無為無策の「ふいんき」重視タコは最悪だが、一方で、ベルグルンドの遺した「静かな」録音から彼らが学ぶべきことはあまりにも多い。

R.I.P.
by Sonnenfleck | 2012-02-15 23:26 | パンケーキ(20)
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