イーヴォ・ポゴレリチ リサイタル@サントリーホール(5/9)

みな人は、今のポゴレリチをオカルト→宗教→信者乙と捉えるが、本当にそうか?現状を真摯に聴いてなおそのように思うなら、もう何も言えないが、誰かの批評を読んで聴いたつもりになるのはもったいない。それこそオカルトではないか。

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c0060659_626124.jpg【2012年5月9日(水) 19:00~ サントリーホール】
●ショパン:Pfソナタ第2番変ロ短調 op.35《葬送》
●リスト:《メフィスト・ワルツ》第1番
●ショパン:ノクターン ハ短調 op.48-1
●リスト:Pfソナタ ロ短調

⇒イーヴォ・ポゴレリチ(Pf)


2010年のリサイタルがどうも忘れがたい印象を残しているので、また聴きに行った。今度はP席1列目という栄誉に浴したが、ステージは暗い。

僕にはやはり、この人のやっていることが真っ当な藝術行為に思えてならない。

ピアノ弾き系クラヲタからすると、おそらく彼の演奏実践は禁忌と違反だらけで、とてもじゃないが藝術とは認めがたいのだろうと思う。それはなんとなくわかる。でも非ピアノ系クラヲタである僕の耳には、彼の音楽はピアノであることを放棄する代わり、オーケストラや合唱のような「交響」を強く志向しているように感じられたんだよね(今回は特に)
僕たちは、瞬間々々に鳴る音の質そのものや、彼自身の審美に基づいてコントロールされた音価そのものを、シンプルに聴き味わうべきなんじゃないかな。自分の知っている、あるいは弾いたことのある曲が、自分の知らないやり方で実践されていたから厭だ変だ嫌いだ、と反応するのはもったいない。みんなももったいないおばけが出んようにしとるかの。

そのように考えることができるのも、2010年来日時に比べるとある程度は、彼の音楽における「交響の公共性」みたいなものが安定していたからなんだけど、何よりも彼自身が、彼の内面との整合性を取ることに配慮が届くようになったのが大きいように思う。前回の究極の自閉的独り言から、今回は客席にカボチャが並んでいることを認識するくらいまでは、発展があったようだ。開場も開演も遅れなかったしね。

ショパンの《葬送》は予想よりずっとフツー。
覚悟していた第3楽章は、軽々とした主題の歩みにトリオが多少しっとり絡みつく程度である。むしろ今回のポゴレリチにおいては、第1楽章のほうに重心が掛かっているのがありありとわかり、興味深い。この世への憎しみを打鍵によって表現するような大仰なタッチは、別に、この作品のフォルムを壊したりしないみたいだった。案外ショパンという男の本質を抉っているのかもしれない。

リスト《メフィスト・ワルツ》第1番。これは前回も聴いた曲。
中間部(un poco meno mosso)に差し掛かってからの、アスファルトに滲んだのような美しさは今回も味わえた。ガソリンで拙ければ、永遠に終わらないトリスタンとイゾルデの愛の夜とでも言い換えようか。どちらも(相似通っていると僕は思うが)そこに美を観測するかどうかは聴き手次第だろう。トリスタンとイゾルデだけが藝術だと思い込むのは(繰り返すが)もったいない。

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ただし、上記が、前半だけを聴いて帰った聴衆の感想文だということに触れないのはフェアじゃないので、書いときます。
GW明けから風邪を引き、前日に熱を出していたのを抗生物質で無理やり鎮めて出勤、一日フラフラしながら仕事をした後だったので、メフィスト・ワルツを聴いている途中から頭痛が酷くなり、休憩時間に離脱したのだった。

各所のレヴューを読むと、プログラム最後のリストのロ短調ソナタが「とんでもなくひどく」「悪趣味」だったということだけど、前半の2曲のような「交響の公共性」は保たれていたのだろうか。こればかりは想像すべくもない。

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開演間際に、ホール入り口の主催者窓口に向かって「俺あさって六ヶ所村行きますよ(るん♪)」とおしゃべりされてる許先生を見た。とても趣深い光景である。彼の著作活動の一次資料というか、幻の歌枕というか…。
by Sonnenfleck | 2012-05-16 06:26 | 演奏会聴き語り
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