【2012年7月6日(金) 20:30~ クーセヴィツキー・ミュージック・シェッド】
<ベートーヴェン>
●《レオノーレ》序曲第3番 op.72b
●交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2012年7月7日/WGBH Classical New England生中継)
タングルウッド音楽祭2012のオープニングコンサート。75年前のこの夜、クーセヴィツキーが振った同じプログラムを、ドホナーニが振ります。ということで久々のドホ爺ネタ。
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最近しばしば考えるのは、ドホナーニがやるような様式のベートーヴェンは、われわれの多くが気づかないだけで、もうすぐライヴでは聴けなくなる可能性が相当高いということである。
モダンオーケストラの機能を全開にした《田園》の音響の美しさよ。
この美しさは、五線譜の行間が拡張されて、増強されて、加重された結果なので、まったくナチュラルではないかもしれないが、ナチュラルなものだけが美しさのすべてではないのだ。それでいて清冽な透明感をまったく喪わないドホナーニ先生の手綱捌き、これが全然衰えていないのが確認できたのは慶賀の至り。
ドホ爺のものと思われる鼻歌が随所で聴かれる。萌えである。
第1楽章再現部の貴族的な高血圧、第2楽章での自信満々な低弦の勁さ、同じ楽章のおしまいに登場する「義体化カッコウ」、きわめて観念的な第4楽章などは、この交響曲が持っている複雑な性格を浮き彫りにしている。
ベートーヴェンの作品たちを18世紀交響曲の終わりとして見るのがフツーであるのと同じくらい、これらを19世紀交響曲の始まりとして捉える視座も、僕たちは忘れてはいかんのだと思う。ほんとに思う。
燦爛と輝く第5楽章の威力に恐れをなしつつ
(omnipotent!!!)休憩。
後半の第5交響曲も、一貫して同じ哲学が底部にある。
第3楽章からまっすぐに伸びた高張力鋼のようなブリッジ、全曲における第4楽章の明確な優位性、ボストン響の高雅な音色、そしてもちろんドホナーニ好みの清冽な響き。どれをとっても第一級の20世紀中後半様式なのさ。いいね。とてもいいね。