シナイスキー/東響 第603回定期演奏会<大衆系タコ4の勝利>@サントリーホール(9/15)

c0060659_5471721.jpg【2012年9月15日(土) 18:00~ サントリーホール】
●モーツァルト:Pf協奏曲第27番変ロ長調 K595
 ○同:Pfソナタ第16番ハ長調 K545~第3楽章
→デジュー・ラーンキ(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒ヴァシリー・シナイスキー/東京交響楽団


インバル/都響からのタブルヘッダで、シナイスキー/東響を聴くため池袋から溜池山王へ。土曜の18時開演ってもっと増えないかなあといつも思ってます(都響の感想文は後ほど)。

シナイスキーは少し前に読響?でタコ5を振ったときの評判が微妙だったのが印象に残っているくらいで、これまであまり意識したことがない指揮者だったんだけど、この日はまさしくもその認識が改まることになった。

+ + +

まず先にショスタコーヴィチから。
僕はこの日、シロフォン・グロッケン・銅鑼の後方1メートルという、P席の変な場所で聴いていたので、シナイスキーの姿をよく観察することができたのは大きい。
彼は指揮棒を持たないスタイルで、一見するとかなり大雑把なオーラが出てるのだが、それは世を忍ぶ仮の姿。本当のシナイスキーはバランス感覚に優れた、非常に身軽な指揮者ではないかというのが今回の印象である(ラザレフと似ているようで正反対、という指摘をTwitterで見かけたが、まさにそのとおりと思う)

この交響曲はたぶん、現代のたいていのオケならスコアどおりにニュートラルに構築することができ、事実その方向でひとつの到達点を示す演奏も出ている(サロネン/LAPh)。
でも、そうしたとき、シナイスキーのやり方が示唆に富んでいることに僕たちは気づくべきだ。

シナイスキーは、同じように中立性を放棄する故ロストロポーヴィチ氏的な立場とは逆から、中立的な構築を止めている。それはすなわち、この交響曲を軽快で直截で混乱した組曲として捉えるということで、実はコンドラシンの第4演奏ととてもよく似たやり口なんである。

例えば第1楽章の巨大な音量やエグいパッセージを、シナイスキーは身軽で鋭角的な表現で塗り固める。音価を短く取って凝縮させた冒頭の下行音型や、再現部の軽薄で喜遊的な表現などその最たるものだし、カッコー動機の潰れて掠れたような描写も面白い。この交響曲は「デジタルでハイパーでスマートな、ディストピア的超絶技巧フルオーケストラ」によるのでなければ、このようにまったく逆の、大衆演芸的可笑しさと濡れた刃物のような鋭さでもって表現されるのが好みだ。

第2楽章こそ、マーラーを基礎に置いた最近の若い指揮者がやりがちな毒々しい装飾から自由だったものの、第3楽章では再び、この作曲家の映画音楽と《鼻》をブレンドしたような、グロテスクの一大マーケットが開かれていく。お師匠コンドラシンが初演した交響曲をこうして東京で振る、弟子シナイスキーの胸中やいかに。

第3楽章以外にも、全曲にわたって東響のプチ重厚な音色が活きる場面のほうがずっと多かったが、シナイスキーの「もっと!もっとやれёёёёё!」みたいな指示に対しては、大谷コンミス以下、ちょっと行儀が良すぎるナアというところもごく僅かながら見受けられたのはちょい心残りなポイント。東響の小体な魅力は全能ではない。17日のみなとみらい公演ではどうなっていただろうか。

+ + +

さてさてこの日は、前半のモーツァルトもたいへん素敵であった。

録音で聴くバルシャイやソンデツキスのモーツァルトとまさしくも同様の、ちょいとオフホワイトめの可憐な音楽づくりに、しぶとく生き残っているソヴィエト楽派の鉱脈を聴き当てる思いがする。編成はショスタコの4分の1以下だけど、ピリオド風のアプローチは一顧だにしない潔さ。ラーンキの澄んだ詩趣と最高度に合致して、呆然とするような名演に。
こういうモーツァルトもきっと、あと20年くらいしたらライヴでは聴けなくなってしまうのだろう。
by Sonnenfleck | 2012-09-18 05:55 | 演奏会聴き語り
<< コバケン・ザ・ワールド vol... ペトルンカムイ43度(後編) >>