コバケン・ザ・ワールド vol.2@東京芸術劇場(9/9)そして時は動き出す…

c0060659_5381035.jpg【2012年9月9日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
 ○新井満/編曲者不詳:《千の風になって》*
→遠藤真理(Vc)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒小林研一郎(Pf*)/日本フィルハーモニー交響楽団


予想どおり、誠実で真っ当な第5の演奏だった。
第2楽章ですら、下品なフレージングやアーティキュレーションが注意深く避けられているのが興味深い。第3楽章の歌い込みは予想に反して抑制的だったし(それゆえに等身大の真実味のようなものが漂っていた)、第4楽章の躊躇しない快速テンポは小気味よい。これ、誠実で真っ当と表現して何がいけないだろうか。

味つけの局所的なコバケン化は、現在、本家以外の指揮者やオケでむしろ如実に進んでいて(これはなかなかショッキングな事実ではありませんか皆さん?)、本家はいつのまにか安心して聴けるような存在になったようだ。僕たちはこの事実にしっかりと気がつくべき。べきですか?

改めてどこかで書くかもしれないが、ショスタコーヴィチの5番や12番に疑わしげな表情をたくさんぶら下げるのは、かえって無粋な行為じゃないかという気がしてきている。あるいは、そうした懐疑精神には自分は疲労感を覚えるようになったと言えばいいかな。パーヴォ何とかのチャラチャラしたショスタコより、この日のコバケンのほうがより今の僕の好みに近い。

ところで残念なことに、日フィルはラザレフ親分が振るときのような注意深さを忘れて、何年か前の「奔放な」合奏に戻っていたが、これはいただけない。コバケンがアンサンブルの練磨にそれほど興味を持たないことをいちばんよく知るのは日フィル自身なのでは。彼の監督下から離れた今、オケが取り組むべきは「彼と一緒になったときでも昔に戻らない」アンサンブルの自己陶冶かもしれない。

前半のチャイコフスキーについてはあんまり語るべき言葉を持たない。ロココ的気分以外の何かを乗せられるくらい、懐の広い作品とは思われないのです。
アンコールはVcソナタ版《千の風になって》。見渡すホールのオチコチで、おっちゃんおばちゃんが泣いてたよ。みんな洟すすってたのよ。10年前の自分ならこの選曲は許せなかったが、今はこれもありだなあと感じる。

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時が動き出した新しい芸劇については、また別のエントリで。
by Sonnenfleck | 2012-09-21 05:43 | 演奏会聴き語り
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