フェドセーエフ/チャイコフスキー響のチャイコフスキーナイト@サントリーホール(10/15)

c0060659_6193432.jpg【2012年10月15日(月) 19:00~ サントリーホール】
<チャイコフスキー>
●《エフゲニー・オネーギン》から3つの交響的断章
●弦楽セレナード ハ長調 op.48
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
 ○《眠りの森の美女》から〈パノラマ〉
 ○《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団



フェドセーエフウィークの第一夜。何度か聴くチャンスがあってこれまでに体験してきたフェドの、彼のオケとの共同作業を聴くのは実はこれが初めてなのであった。

この夜がはけて感じたのは、まず、自分はこれまでチャイコフスキーの何を聴いていたのか…ということ。それから次に、仮にこれがフェドを聴く最後の機会だったとしても後悔はないだろう…という思い。

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目算でせいぜい4割程度の寒い客席を前に、フェドセーエフとチャイコフスキー響の面々はまず、オネーギンのパラフレーズを聴かせる。
チャイコフスキー響は録音で聴く彼らの昔、モスクワ放送響とあんまり印象が変わらなかった。弦は上質な麻のようにざっくりしながらも豊かであり、音色は暗い。その上へ明るめの木管と沈着な金管、ノーブルな打楽器が加わりアンサンブルをしている。縦線にそれほど拘らないのはフェドを全力で信頼しているからだろうか?
とまれ、トゥッティの鳴りの深さは在京オケ定期公演と比べるまでもなく、力任せのぎらぎら、ぐいぐい、ではないゆえに断絶は深い。

ぐったりしているうちに始まった弦楽セレナードも実に美しかったが、なかんづく第3楽章は群を抜いていた。絶品の一言。功成り名遂げた威丈夫の、老いて穏やかな終末を追体験するような感覚。平穏にして雄渾。

以前の体験を基準にすれば、フェドセーエフはやや老いた感がある。鋭いアクセントによる強音方向へのダイナミクスいじりに対する興味がかなり薄れたかわりに、緩徐楽章や弱音部において志向するメレンゲのようなふあふあの総体が印象深い。激しくブラヴォが飛び交う。

言葉も出ず、ホワイエに出て熱い紅茶をすする。お客さんは少ないが、そのぶんこの音楽会のための意志が確りしているものと思われた。連れ立ってきている人びとも含めて皆どこか黙しがちで、眼差しが熱く光っている。

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悲愴は、悲愴というものがたりの頁岩に染み込んだオイルをよく燃焼させた演奏だった。悲愴以外の何ものでもなかったと断言できる。

第1楽章、クラリネット首席の天才的な弱音に導かれて訪れる展開部に、強引さは見当たらない。懊悩の深さは決してトロンボーン隊の攻撃力だけが理由なのではなく、まるで上代の読み物のように、高貴で様式的な絶望感を伴ったフレージングに因るところが大きい。
砂糖さらさらメレンゲふあふあの第2楽章から、くるみのワンシーンみたいに飛び跳ねる、威圧や自己陶酔からかなり遠い嬉遊的な第3楽章。

第4楽章に満ちていた大気は悲嘆や哀哭と表現できるものにたいへん近かったが、まったき御涙頂戴かと言えばそんなことはなく、本質はもう少し高次の、ギリシャ彫刻のような様式化された硬質な悲劇であった。最後にコントラバスのピツィカートを、葬送の空砲のようにボンッ…ボンッ…と強い輪郭で鳴らし切る独特の風味を残して。

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チャイコフスキー尽くしのアンコール、そして熱狂的な一般参賀のあとも思いのほかしっとりとした情感が残ったのは、自分でも意外だった。時間の経過とともに、自分のなかの杯が美酒で充たされたような感覚が生じていることに気がつく。これが藝術の力だ。
by Sonnenfleck | 2012-10-18 06:20 | 演奏会聴き語り
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