東京芸術劇場リニューアル記念公演|ロジェストヴェンスキー/読売日響の悲愴(10/8)

c0060659_841015.jpg【2012年10月8日(月) 15:00~ 東京芸術劇場】
●Vn協奏曲ニ長調 op.35
 ○シュニトケ:ポルカ
→サーシャ・ロジェストヴェンスキー(Vn)
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
 読売日本交響楽団


ロジェストヴェンスキーが振るライヴは、実のところ(流麗な指揮姿や凝った選曲ではなく)その内容において決定的印象を残すものに出会えていなかったというのが本音である。でもやっと、このマチネーで強い印象を得ることができた。

+ + +

前半のサーシャ氏は微妙。とても微妙。…

…話は変わって、この日の《悲愴》から得られたものをひとことで言えば、それはハーモニーの美しさなんである。ロジェヴェンの代名詞である軽快で怪しげなリズムやぬらぬらした音色ではなく、和声感。これが圧倒的に素晴らしかった。
(※いくつかのレヴューでは「第4と第5がよくて悲愴は落ちた」という分析があったが、あれで「落ちた」なら前2日はどれだけ凄かったのだろう…。)

第1楽章最初のコントラバス+ファゴットから「おお…」と思わせるカラフルな和音。何かとても核心的なバランス操作、または土台の音色から作り替える操作があったとおぼしき、アンナチュラルでケミカルな和音である。スヴェトラーノフやムラヴィンスキーが重機械工業部門なら、ロジェストヴェンスキーはちょっとソヴィエト化学部門の重鎮科学者みたいな感じがあるよね。

第2楽章の優美さは自発的な浪漫の発露とは思えないくらい「優美すぎ」る。相変わらず震えるくらい和音が綺麗なんだなあ。僕は和音を聴くのがあまり得意じゃないんだけど、それでもあんなに伝わってくるとすれば、ロジェヴェン化学による何らかの秘密の増強策があったとしか思われない。何だろう?フレージングも一般的だったし、アーティキュレーションもおかしくない。僕は人工甘味料をなぜ甘く感じるのか説明できないが、それと同じような現象が起こってる。

あるいはカンブルランにメチャメチャに鍛えられ尽くした、僕の知らないうちにスマートな楽団ににジョブチェンジした読響の底力が働いているのか?いつもの「読響らしさ」みたいなもの、あんまり今回は感じなかったなあ…。

第3楽章から第4楽章への移行は実に決然としたアタッカで行われる。そしていよいよ現れるリアリスト・ロジェストヴェンスキーの矜持。
この交響曲は浪漫に殉じて茫洋と閉じる作品ではなく、あくまでも19世紀のモニュメンタルな構造物なのである。それまで忠実すぎるくらい「悲愴」の世界を実現させてきた精妙な彩りや繊細な弱音は鳴りを潜め、急にぶっとい構造が露出したので驚いてしまった。こういう捉えどころのない脚本を書くのは以前と変わらないね。。それでも和音の美しさは最後まで続く。。

+ + +

終演後は一般参賀あり。歩みは昔に比べてゆっくりになったし、指揮棒の動きもだんだん華麗ではなくなってきたが、源名爺が実現させるべきと考える音楽像はすっかり明確になっているんではないかと思われた。
by Sonnenfleck | 2012-10-21 08:41 | 演奏会聴き語り
<< こめのことを、想う。 フェドセーエフ/チャイコフスキ... >>