新国立劇場《ピーター・グライムズ》千秋楽(10/14)

c0060659_5562256.jpg【2012年10月14日(日) 14:00~ 新国立劇場】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》op.33
→スチュアート・スケルトン(ピーター・グライムズ)
 スーザン・グリットン(エレン・オーフォード)
 ジョナサン・サマーズ(バルストロード船長)
 キャサリン・ウィン=ロジャース(アーンティ)
 鵜木絵里(姪1)
 平井香織(姪2)
 糸賀修平(ボブ・ボウルズ)
 久保和範(スワロー)
 加納悦子(セドリー夫人)
 望月哲也(ホレース・アダムス)
 吉川健一(ネッド・キーン)
 大澤 建(ホブソン)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
⇒ウィリー・デッカー(演出)
⇒リチャード・アームストロング/東京フィルハーモニー交響楽団


翌日の15日からまとも生きてゆくためのエネルギーが、劇場の座席にいながらにして根こそぎ奪われた(…のだったが、幸いフェドセーエフ/チャイ響で充電)。海も人間も邪悪だったし、あるいはもう少し抽象的な、何かとてもたちの悪い意思が、自分にサッと触れて通り過ぎて行ったような気もした。初台から家路を急ぎながら、美味しい夕食と温かいお風呂が恋しくなったのは言うまでもない。

デッカーの演出は2008年のB. A. ツィンマーマン《軍人たち》以来だったが、このオペラの最悪の主役である「世間」の動かし方が巧みだったのが何よりも印象に残る。「世間」を使ってピーターの救われない心地を必要十分に表現し、なお有り余る邪悪さでもって聴衆の心胆も凍えさせる。

教会や、海や、司法を自身のなかに包含しているとき「世間」はピーターを断罪し、そうでないときは草食動物の群れのようにしてピーターを避け、やがて最後は、ピーターなんていう奴は初めから知らないよ、というふうに顔を隠す。

バルストロードという男は「世間」の花弁から突き出た雄蘂のようで、ピーターとの橋渡しを買って出ているだけになお邪悪だし、エレンも最後は群衆のなかに飲み込まれて消化される。こうしてキーボードをぽちぽちやっているだけで、気分の悪さがぶり返してくるよね。。

+ + +

この国が「世間」という看守が監視するパノプティコンであることを僕たちは知っている。「世間」の狡猾さと凶悪さを身をもって理解している。看守は看守側についた囚人に優しいが、看守になつかない囚人を冷酷に叩き潰すのが好きなのだ。

「世間」という看守は金の子牛の形をしているかもしれないが、いっぽうで看守自体が存在しない可能性もある。囚人はそのことにうすうす感づきつつも、誰も身動きが取れない。黙して語らない「海」こそ、真の裁定者なのかもね。。

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歌手はピーター役のスケルトンが圧倒的な存在感。誰かがTwitterで言っていたけれども、ぶっきらぼうな声質や豊かな声量だけでなく、不器用そうに巨体を揺すって舞台を歩く姿も、ピーターという人物の造形に一役買っているようでした。

三澤/新国合唱団と、アームストロング/東フィルは、本当に大健闘と言わざるを得ない。千秋楽までの上演によってしっかり練り上げられていたからかもしれないけれど、アンサンブルのすみずみまで呼吸と歌と語りが充満していて、まさにそれゆえに酷薄な、冷たく湿ったブリテンの音楽がゆらゆらと立ち上っていた。

これまで、新国ではほとんど惨劇系オペラしか観てないのだが(軍人たち、ヴォツェック、マクベス夫人、、)ピーター・グライムズは抜群にトラウマ。ブリテン、魅力的すぎる。
by Sonnenfleck | 2012-11-05 06:12 | 演奏会聴き語り
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