メッツマッハー/新日フィル 第503回定期演奏会@すみだ(1/12)

c0060659_9333315.jpg【2013年1月12日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●J. シュトラウスⅡ世:《ウィーンの森の物語》op.325
●ヤナーチェク/マッケラス:《利口な女狐の物語》組曲
●R. シュトラウス:アルプス交響曲
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


メッツマッハーを聴くのはこれが初めてではない。前にもどこかで書いたかもしれないけど、2004年に、ペーター・コンヴィチュニー演出の《モーゼとアロン》をハンブルクへ観に行ったことがあって、そのときにタクトを執って異様に鮮やかな音楽を聴かせてくれたのがインゴ・メッツマッハーでした。これまでの新日客演はタイミングが悪くて聴き逃しちゃったけど、ついに9年ぶりの再会。

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この日のプログラムはすべて、作曲家が自然を解釈して生まれたはずの作品だったのだけれど、メッツマッハーは不敵にも、何かの描写を一切行わなかった。客席が自然を想像するための補助線としての表情づけや音色効果が、ない。

その作業はまず《ウィーンの森の物語》を、ヨハン・シュトラウスの「交響詩」のようにしてシンフォニックに仕立てることから始まった。
先月、僕はハーディングのショスタコーヴィチを聴いて、マッシヴな迫力を感じさせないのが新日の個性だと書いた。でもメッツマッハーは、冒頭から全力でゴリゴリした響きを生み出そうとしている。そしてそれが上手くいっている…!驚いてしまった。いつもの新日の音と全然違うのだから。

ともすると緩やかに「和し」がちなこのオーケストラを、鮮やかに分離させることで「主張」のぶつかり合いに導いている。ゴワゴワした織物になるけど、そのゴワゴワがダイナミックに揺れ動く愉悦は、たぶんこれが19世紀音楽のひとつのあるべき姿なんだと思うんである。
メッツマッハーの指揮姿には、彼のやりたいことがストレートに表現されている。彼が考える交響的ワルツは、豪快に跳ねたり伸縮したりする。オケもちゃんとついてきてる!

利口な女狐組曲は、さらに一歩進んで構築されている。ヤナーチェクのなかに埋まっている都会性を、ヨハン・シュトラウスからのシームレスな展開でちゃんと炙り出しちゃうんである。ヤナーチェクの青春はブルノという工業都市にあったということを忘れてはならない。
まさに小股の切れ上がったヤナーチェク。組曲のあちこちに浮かび上がる器械的リズムは、ビストロウシュカを未来主義的女狐として華麗に変化させている。どんどん先に流れていくのだ。こんなヤナーチェクがあったっていいんだよね。

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そしてアルペン。これも見事のひとことでした。
あえて無理やりに登山に例えるなら、タイムアタックトレッキング。実際の所要時間はほかの数々の演奏と大して違わないんだろうけど、体感する音楽の流れの速いことといったら!流麗だ!
そして(前半のプログラムを聴いていてもよくわかったけど)メッツマッハーは各パートの統合じゃなく、分離の良さを第一に考えている。オーケストラの100人が、100通りの軌跡で横に展開していくんだよね。穏やかにまろやかに統合された響きは、別の指揮者に求めよう。これは、すべての楽器がコンチェルティーノになりうる、リヒャルト・シュトラウスのコンチェルト・グロッソだった。

過去の《モーゼとアロン》では感じ取れなかったメッツマッハーの重要な美質として、この日のアルペンは「横の流れへの鋭敏な感覚」を気づかせてくれた。

それは、こういうふうに横方向に豊麗かつ急速な流れができる指揮者、たとえばマルケヴィチやベイヌムに通じる美質。ハイパーな解像度で。僕は聴きに行かれないけど、今日のサントリーのブルックナーは必ず面白い演奏になる。
by Sonnenfleck | 2013-01-19 09:34 | 演奏会聴き語り
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