ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

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c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

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2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

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こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り
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