[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その四 能「草子洗小町」@国立能楽堂(3/20)

c0060659_23113881.jpg【2013年3月20日(水) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂3月特別公演>
●仕舞「蝉丸」(宝生流)
→三川泉(シテ)
●狂言「花盗人」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/男)
 野村万作(アド/何某)
●能「草子洗小町」(観世流)
→観世清和(シテ/小野小町)
 藤波重光(子方/帝)
 坂口貴信(ツレ/壬生忠岑)
 坂井音晴(ツレ/官女)
 角幸二郎(ツレ/凡河内躬恒)
 武田宗典(ツレ/官女)
 観世芳伸(ツレ/紀貫之)
 福王茂十郎(ワキ/大伴黒主)
 石田幸雄(アイ/黒主の下人)
→藤田六郎兵衛(笛)
 観世新九郎(小鼓)
 安福光雄(大鼓)ほか


1 スーパー爺タイム~蝉丸
「仕舞」っていうのは、能の一部分を抜粋して面や装束を着けずに演じる略式形態です。序破急の美学は損なわれるけれど、シテの技の骨格をより濃密に楽しむにはよいものかもしれない(2台Pf編曲版の交響曲みたいなものか)。特に能を学習している人たちにとっては。

で。この日の最初の演目は91歳の人間国宝による狂女なのでした。
これがまた足取りもおぼつかないのに打ち震えるほど凄艶で、ほんの10分ほどの舞と地謡に、能の真髄のひとつの姿を見たように思う。専門用語を使って感想文を書くことはいまの僕にはできないけれど、
我ながら浅ましや、髪はおどろを戴き、
黛も乱れ黒みて、げに逆髪の影映る、
水を鏡といふ波のうつつなの我が姿や。
というコロスの淀んだ響きに乗り、扇を頭上に揚げて一瞬、正気に戻るかのような羞恥心を老翁が見せたのは驚愕であった。よぼよぼ乙女。

2 万作×萬斎の繚乱ユニバース~花盗人
この作品では可笑しみは隠し味にすぎないわけです。淫らなくらい爛漫に咲く桜花の幻影を感じさせるので、仮に「この台本はもともとは能なんだよ」なんて説明されたとしてもまったく違和感を持たない。

(1)おはなし
庭に咲く満開の桜の枝を折られて怒った何某は、今宵も花盗人が現れると踏んで張り込む。折しも花盗人が現れ、折り取る枝を吟味しているところを、何某は桜の幹に縛り付ける。
花のために斬られる身の不幸を悲しみ、花盗人が古歌を引きながら独りごちているのを耳にした何某は、花盗人が教養のある人物と知り、この桜を歌に詠めば許そうと提案。花盗人は見事に即興で歌をつくり、何某は大いに喜んで彼を解放する。
興が乗った何某、満開の花の下で花盗人に酒を勧め、花盗人は朗々と歌い上げて返礼する。何某は自ら桜の枝を折り取って、花盗人に呉れてやる―。

(2)アリアとレチタティーヴォとダンス
「花盗人」は野村万作・萬斎父子の共演だったわけです。正三角形と表現すべき万作氏のどっしりとした演技に比べ、萬斎氏は逆三角形的なエキセントリックな演技も多く用いているのがたいへん興味深かった(しかもそれがきれいにハマっている!)。これは彼の不変の個性なのか、やがてこれを捨てて万作氏(81歳人間国宝)のように重厚な存在に変わっていくのか。

今回、幸運なことに野村萬斎氏から3mくらいの席で彼に接したのですが、これまで見たどの媒体に比べても彼の全身に力がみなぎっていて、ああこれがこのひとの真実の姿なのだと感じ入ってしまった(狂言師の狂言が凄いのは当たり前なんだけど)

後半、桜の主と花見の宴になって、萬斎氏が長大なアリアを堂内に響き渡らせたのは本当に見事のひと言。これだけ巨大なアリアのある狂言は未体験だったこともあるし、萬斎氏の美声には頭がくらくら。ふと見渡すと会場の老若女性陣がうっとりとしているのが、やっぱり最後に可笑しいのであった。

3 二十六世観世宗家~草子洗小町
これまで3回、能を見た。そのいずれも、神様か怨霊が登場する超現実ストーリーの演目だったのですが、4回目の今回は「鬘物」と呼ばれる、女性を主人公に持つ(比較的)現実的な分類の作品。ライバルの奸計で窮地に陥った小野小町が、機転を利かせて真実を暴くという2時間サスペンス仕立てのストーリーです(プログラムでは「法廷劇」と表現されてた)

(1)おはなし
帝の御前での歌合戦。小町と当たる大伴黒主は勝ち目がないと考え、前夜、小町の邸宅に忍び込む。黒主は小町が詠む予定の歌を盗み聞きしたうえそれを万葉集のページに書き込んで、古歌を引用したと断罪する計略を立てる。

場面転じて歌合戦。予定どおりの歌を詠んだ小町に黒主は異議を唱え、帝に万葉集(書き込み済み)を見せて小町を陥れる。小町は筆跡や行の乱れを怪しみ反論するが、ふてぶてしく応じる黒主に圧され、大ピンチ。

そこへ、同席していた紀貫之が助け舟を出し、小町は万葉集(書き込み済み)を水で洗ってみせる。するとたちどころに黒主の書き込みが消え、企みは露見、黒主は恥辱に感じ自害しようとする。しかし小町と帝は「歌道に励む気持ちから出たもの」と彼を許し、最後は小町が天下泰平を寿ぐ舞いを披露して幕。

(2)オーケストラ
神様登場や闘いシーンで使われる太鼓を欠くほかは、笛+小鼓+大鼓のいつもの編成。僕は当初、笛奏者の音が苛烈すぎ、また大鼓奏者があまりにも巨大な破裂音を出し続けていたため、なんだかアンサンブルが破綻しているなあという感想を持ったんだよね。
でも百戦錬磨の彼らがそんな失態を犯すはずはなく、場面の転換とともにこの理由が明らかになる。

この作品、後半の歌合戦の場で、8人もの人物が同時に舞台に上がるんです。彼らがユニゾンで謡うこともあるし、その他にコロスである地謡がいつもどおり8人座ってるので、舞台上はまるで《アルプス交響曲》のような巨大編成になる。オーケストラに聴かれた強いアクセントは、まずこの巨大編成に十分に対抗するためのものだったんだろうなあ。
笛氏はObとTp、大鼓氏はVnからTb、Percまでの外声的なパートを体現し、小鼓氏はVa、Vc、Fg、Hrあたりを内声的にカバー。小町が装束を替えている間の間奏曲で、大鼓氏はシテの動きを横目で睨みつつ、どうやら他の2名に伸縮の指示を送っていた。囃子方アンサンブルの神髄というものかもしれない。

(3)ダンス
そしてさらに(これが本当に重要なのだけど)小町を演じる観世清和氏の圧倒的なダンスに、オーケストラはわずか3名でのバランス取りを要求されてたんである。オーケストラが強くなくてなんとする。

観世宗家の舞いを言葉でうまく表現するのは難しい。ぽうっと見蕩れてしまったから。の烏帽子を被り、短冊と色紙が装飾的に描かれた紫紺の装束を着けて舞う、結末の流麗な美しさは何だったか?円やかな袖の捌きかた、扇を操る指先の確かな自信、あれは才長けた艶美な女性である真実の小野小町だったぜ。

慣れ親しんだ分野の知識や経験を援用するならば、観世清和氏のシテはベルリン・フィルが演奏するベートーヴェンやブラームスのように、誰にも何も言わせない全能の空気を静かにまとっていたのだった。あれが「事も無げにできることではない」ということがわかるような視点を早く身につけたい。。もうそれだけだ。

上述のように、小町は窮地から歓喜を経由して寛恕に至る感情の流れをシテに要求するわけです。もちろん表情を変化させるギミックを能面が持っているはずもなく、すべてはシテの首の角度や指先の処理に委ねられている。

そして(大阪で見た「砧」もそうだったけれど)この日も面は雄弁に表情を変えた。恐ろしい。扇で草子に水をかけ、黒主の書き込みが洗い落とされた瞬間、確かに小町は安堵の微笑を浮かべていた。能はできるかぎり前の席で見るのがいい。「能面のように無表情」という表現が決定的に間違っていることは、能を至近でご覧になればすぐにわかるはず。。
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上村松園《草紙洗小町》(1937)

(4)アリア
最後に、小町が扇を使って水をさらさらと掛け流すシーンの美しい詞章(歌詞)を転記しておく。水と時間・水と空間の変遷を流麗に表現した一節。ヴォルフの静謐な歌曲みたいな美しさを感じたのだった。
地謡 旧苔の鬚を洗ひしは、
シテ 川原に解くる薄氷、
地謡 春の歌を洗ひては霞の袖を解かうよ、
シテ 冬の歌を洗へば、冬の歌を洗へば、
地謡 袂も寒き水鳥の、上毛の霜に洗はん、恋の文字なれば忍び草の墨消え、
シテ 涙は袖に降りくれて、忍ぶ草も乱るる、忘れ草も乱るる、
地謡 釈教の歌の数々は、
シテ 蓮の糸ぞ乱るる、
地謡 神祇の歌は榊葉の、
シテ 庭燎に袖ぞ乾ける、
地謡 時雨に濡れて洗ひしは、
シテ 紅葉の錦なり、―

4 クラ者の雑感
・うーん観世流ベルリン・フィル。日本で見る能はクラヲタ大好き本場ものだし、すぐそばで世界最高級のパフォーマンスが見られることをもっと多くのひとに知ってほしい。クラヲタが日本のクラシックを体験しないでどうする!!由緒正しい宮廷劇だよ!!
・「草子洗小町」のシュトラウス感がすごい。虚構と浪漫のバランス。
by Sonnenfleck | 2013-03-24 23:13 | 演奏会聴き語り
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