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フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

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【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

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老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

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僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り | Comments(2)
Commented by 通りすがり at 2013-05-26 12:21 x
同じ公演を聴きました。
昨秋のチャイ響サントリー公演に3夜皆勤した者としては、ショスタコ1番に関しては全く異論ありません。が、弦セレでは号泣したことをこっそり白状します。もちろん、涙量はだいぶ少なかったけれども(チャイ響時比)。

N響さんには指揮者かソリスト目当ての時しか伺っていないので、かばい立てする義理も思い入れもありません。が、この日1階前方右端壁際から眺めた限り、たとえ生まれながらのサラリーマンでも、フェドにあんなふうに指揮されたら熱を帯びて応えざるを得ない(通常時比)のであるなあと、しみじみ感じ入った次第。

N響のハズレ率(激怒罵倒落胆レベル)は個人的には減少傾向。最近の例ではド・ビリーが大当たり、アクセルロッドとヴァイグレ(上野春祭)が当たり。

ただ、本拠地ホール環境を除いては国内最高待遇を誇る恵まれたオケである以上、見る目が激辛になってしまうのは仕方のないことではありますね・・・。
Commented by Sonnenfleck at 2013-05-28 23:12
>通りすがりさん
コメントありがとうございます!
自分は、仮にチャイ響の悲愴や弦セレを聴いていなかったら、今回のN響客演も心から楽しめたかなと思ったクチでした(ご気分を害されたらすみません…)。弦の厚みはチャイ響のポテンシャルが凄すぎて、あれを思い出さずにはいられませんでした。

N響はブロムシュテットやデュトワのときと、そうでないときの差が激しすぎて、基本的に聴くのが辛いです。あ、でもド・ビリーは私も聴きましたが、これは本当に大当たりでしたね!心から同意です。もっといつもこちらの心を躍らせてくれよ、というのは、かつてN響の放送で生の音楽を知った人間の屈折した愛情なのかもしれません。。
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