大野和士/ウィーン響のウィーン・プログラム@オペラシティ(5/18)

c0060659_1118977.jpg【2013年5月18日(土) 18:30~ 東京オペラシティ】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
○シュトラウス:ワルツ《春の声》op.410
○同:ポルカ《トリッチ・トラッチ・ポルカ》op.214
○同:ポルカ《雷鳴と電光》op.324
⇒大野和士/ウィーン交響楽団


1月に水戸で聴いた大野さんのシューベルトがたいへん好くて、その勢いで買ってしまった本公演のチケット。しかしこの週に開かれた大野/ウィーン響のほかのプログラムの出来に対して、ネット上で続々とあがる非難の声たち。果たしてどうなってしまうのか。かえってすごく楽しみになってしまった音楽会。

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オペラシティっていまだにどこに座ったらいいかよくわからないんですが、この日は3階R1列目、舞台の真上の席をゲット。Rからだと指揮者とコンマスのやり取りが明確にわかるんだけど、他の公演で言われていたような、オケ側の著しい不服従は、少なくともこの日は観測できなかったのだった。そりゃー1stVnの後ろのプルトとか全然やる気ないテキトーなボウイングだったけれど。

ウィーン響のアンサンブル能力はすごく低いというわけでもない。汚く濁っているわけではないが独特の曇った響き、ごく甘いピッチ、奇妙な音の木管隊。そして(これがもっとも強烈なんだが)あの謎の自信、あの発音の強気さ!俺たちがクラシック!(ドヤァ)という振舞い。いやー味わい深いよね。しかしあれに10,000円以上払うのは癪だ。

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アクとクセと澱みと自信過剰に満ちたウィーン響を前にして、大野さんはどんな音楽をやる?可笑しいことに大野さんのマーラーは、これがまた、オーケストラに負けないくらい自信たっぷりで、そして圧倒的に「変」だった。

大野さんのマーラーは「うた」しかないキメラなのだ。その瞬間瞬間の主旋律を(あるいはメロディではない経過句ですらメロディとして)どんどん選びとり、べろべろと舐め回し、むしゃむしゃ噛み砕いて自分と同化させてゆく。
これはヴェルディとマーラーのハイブリッドみたいなものかとも一瞬思ったけど、そんな生やさしいものではない。こんなにメロディしかないマラ5を、僕は全然聴いたことがなかった。

この「メロディしかない戦法」は、マーラーの5番目の交響曲では本当にぎりぎりのところで成立するかしないか、というやり方と思われた。
あるメロディnを、それ自体を流麗にしつこく細やかに猛々しく歌うことについて、オケに対する大野さんの指示は実に明瞭で、解釈者としての自分はこうやりたい!という音楽が客席にもはっきりと伝達されてきた(ちなみに大野さんの歌の感覚は「ベタ」で、そしてその「ベタ」は自分にとっても気持ちよくなじみ深いもので、これはユダヤじゃなく演歌だなと思わされることたびたび)

ところが、メロディnの大集合として成立すべき交響曲Nを、俯瞰で引いた視点から観察すると、メロディn内部の歌心はあれほど細やかであったにもかかわらず(またメロディnの内部では、「前進」が味付けの一種として働いていたにもかかわらず)、交響曲Nのフェーズではある種の停滞さえ感じられた。つまり、メロディn同士の連関はそれほど重視されていなかったんではないかという考えがもやもやと浮かんでくるんである。「キメラ」は前に進むことについてあまり関心がない…!

かくして前も後もなく、その瞬間のメロディに淫する袋小路的なマラ5が現れる。結果として第2楽章や第5楽章で描かれた豊饒の宇宙は実に見事だったと言えるし、逆に第3楽章の異様な退屈さ、前進しない絶望感は無類だった。重いながらも物理法則のように粛々と前進するクレンペラーのマーラーの、かっきり正反対に位置するのがこのやり方なのではないでしょうか。

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シューベルトは深淵とか闇とか、そうしたものと無縁の一本気で剛直な演奏。この勢いなら「未完成」じゃなく「完成」になっていたかもしれぬ。
交響曲第7番ロ短調 D759《完成》←くくく。あたりまえ。
しかし振り返れば、マーラーと同じ絵の具、同じ筆、同じキャンバスで作ってあったのが少し気になった。そんなものかなあ。20世紀っぽい。
by Sonnenfleck | 2013-05-25 11:19 | 演奏会聴き語り
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