ティエリー・フィッシャー/名フィル 第403回定期演奏会@愛知県芸術劇場(6/15)

このブログが2006年から2008年の間、名フィルブログだったことを覚えていて下さるかたがどれだけいらっしゃるかわかりませんが、ともかくこの土曜日、5年ぶりに本拠地に向かったのです。
なにしろ見よ、このハイセンスなプログラムを!元親方のティエリー・フィッシャーが名フィルに客演するときの、これがスタンダードなのよ。僕が愛したハイセンス名フィルの遺産を大切に聴くのだ。

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c0060659_10341642.jpg【2013年6月15日(土) 16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
<水―波に翻弄される舟>
●ラヴェル:《海原の小舟》
●プロコフィエフ:Pf協奏曲第3番ハ長調 op.26
 ○ラフマニノフ:絵画的練習曲集(練習曲集『音の絵』)op.39~第5番変ホ長調
→イリヤ・ラシュコフスキー(Pf)
●フランツ・シュミット:交響曲第4番ハ長調
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ op.34-14
⇒ティエリー・フィッシャー/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


名古屋駅に着いた直後はそれほど感じなかったのだが、東山線に乗って栄駅に到着したあたりから雲行きが怪しくなり、人混みをかき分けて県芸に辿り着くころにはすでに滝のような汗を流していたんである。これが名古屋~ウェット名古屋~♪

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さっそくビュッフェに直行して、レイコーをごくごく飲む(レイコーという言葉は名古屋に暮らすまで一度も目にしたことがなかったのだった)。ちなみにここのカウンターからの眺望は、日本の都市系コンサートホールのなかでは屈指のものである。

で、2階のL2列に座る。ちょうど指揮台を真横から見る席です。
この日の長大なプログラムは、ハ長調の2曲を小品2曲でサンドしたアーチ構造を取っていて、たいへん意志的。小舟の登場→小舟の内燃機関→小舟と嵐、難破→小舟にもたらされたひとつのエピローグ、という4楽章構成の大きな交響曲を聴いたような満足感があったのだった。

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◆第2楽章:小舟の内燃機関
僕がこの日、心底素晴らしいなあと思ってブラヴォを飛ばしたのは、まずはプロコフィエフの第3協奏曲なんである。

あえて率直に書きますと、しばらく東京のオーケストラを中心に音楽を聴いていたために、かつてとは違った印象を「フィッシャーが振っている名フィル」にすら感じてしまうのではないかという密かな危惧を持って、この日品川からのぞみに乗ったわけです。
しかしそれはまったくの杞憂に過ぎないどころか、かえってフィッシャー+名フィルの相思相愛ぶり、その結果としての素晴らしい完成度を思い知ることになったのです。こんなに優れたプロコフィエフが生で聴けたら、N響に8,500円払う必要もなければ、ベルリン・フィルに40,000円払う必要もないのだ。いや、本当にね。

名フィルは東京のオケでいうと読響にカラーが似ていて、フィーバー状態になったときのノリの良さと「ひと」の善さ、そして通常営業時のやや大味めな空気感、これが彼らの持ち味だと思っている。
フィッシャー名誉客演親方は、常任親方のころから彼らを鼓舞してフィーバー状態にするのがものすごく上手だったし、その状態を作り上げたうえで、今度は自分のクールビューティ+機知に富んだ音楽を「徹底的に」やる。この日もやっぱりそう。

まずフィッシャー/名フィルの伴奏がギンギンに尖っているのが、好いんだよねえ。歯車やバネがキチキチキチ...と噛み合って精妙なアンサンブルが組み上がっていくのがつぶさにわかる。親方の細かくてマニアックな指示をよく理解して、可能な限り実現させようとするオケの反応が非常に良くて、聴いていて嬉しくなってくるのですよ(各楽器の一瞬のミスなどはこういうときは一切関係ない)。特に第1楽章の後半と第3楽章の終盤の叙情的機械っぷりは、どこに出したって恥ずかしくない一流のプロコフィエフ。
また第2楽章も素晴らしい。ここで伴奏は急に、東欧の古くて小さいオーケストラのような響きに変わる。フィッシャーが何かをインストールしたのは間違いなく、微かな浪漫のヴェールに包まれる心地よさにびっくりなのである。

そしてソロのラシュコフスキー。彼は第8回浜松国際ピアノコンクールの覇者で(ちなみにこのとき、当ブログで勝手に応援中の佐藤卓史が第3位に入賞している)、イルクーツク出身の28歳。
華やかな経歴やロシアの若手ということから、勝手に地対地ミサイルみたいな重火器演奏をイメージしていた僕を、第1楽章の最初のタッチでラシュコフスキーは完璧に裏切った。意表を突く「溶け込み型ソロ」で、伴奏として駆動する叙情機械にせいぜいふわっとエフェクトが掛かるくらいのさりげなさ。まことに驚愕しました。

このソロを見越しての鋭い伴奏なのか、この伴奏にゆるふわソロを中てたのか、それともこの両方なのか、正確にはわからねど、作品を根幹から見直すくらい理想的な演奏だったのです。

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◆第3楽章:小舟と嵐、難破
そして休憩を挟んで「シュミ4」。
フランツ・シュミットといえばオラトリオ《七つの封印の書》…くらいしか知らない。かつてアルミンク/新日フィルで聴いたときも、作品の良さがあまりよくわからなかったのだったが、あれはテキストがあったのがよくなかったのかもしれない。「シュミ4」は都会風の寂しいマーラーで、じんわりと理解されたのだった。

この交響曲が作曲されたのは1932年から33年にかけて。宮廷歌劇場のVc奏者としてキャリアをスタートさせたシュミットは当時、高等音楽院の院長を務めるまでになり、ウィーンのアカデミックな潮流のど真ん中にいたひとだったので、作風は保守を、大いに「気取っている」。

単一楽章の曲中、マーラー風の大きな讃歌に到達しかけるんだけれど、そこであえなく破綻→ぐずぐず→立ち消え、というのが二度ほど観測される。小さな讃歌はメロディラインが短すぎてすぐに埋没してしまう。
シュミットは若いころ謦咳に接したマーラーの浪漫に終生憧れていたんだろうけれども、彼では恥ずかしくて大きな声では浪漫を歌えなかったんだろうなあ。都会風の、アカデミックな、歪んだ自己韜晦が基調にある寂しい交響曲(ミャスコフスキーに少し似てる)。しかし美は、いじけた細部にもちゃーんと宿っていて、フィッシャーはそれを見逃さない。

たとえば第1部の小さな讃歌たち。第2部に登場する甘美なVcのソロ(ひさびさに耳にする太田首席の豊かな音、お見事でした…!)。あるいはその後の葬送行進曲。そして第4部の終盤。
第4部の終盤に訪れるのは、マーラー風讃歌と冒頭のTpソロモティーフの精神的融合ではないかと思う。作曲家のなかで破綻を讃歌に読み替えるという病的な高揚が起こり、それで静かに交響曲の幕が下りてしまうんだよねえ。プロコフィエフの第2楽章で体感されたあの蒼古とした響きを、全曲にわたってオケに要求し続けたフィッシャーの自信と、名フィルに対する信頼、それにオケが応える熱い45分。

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しかしシュミ4はラストで破綻がむりやり讃歌になってしまっているので、演奏会プログラムとしてはとても解決したとは思えぬ。そこで最後にフィッシャーは「あり得たかもしれないひとつの可能性」を設定することで、シュミットを救い、聴衆のことも救ってくれる。ラフマニノフの甘い旋律もいいだろう。
by Sonnenfleck | 2013-06-16 13:49 | 演奏会聴き語り
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