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天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ

c0060659_21563774.jpg【DGG/4791061】
<シューマン>
●交響曲第2番ハ長調 op.61
●劇付随音楽《マンフレッド》序曲
●歌劇《ゲノヴェーヴァ》序曲
⇒クラウディオ・アバド/モーツァルト管弦楽団

超ひさびさにCD感想文を書きましょうか。
僕が本当にアバドと出会ったのは、彼がBPOを辞めてからだと言える。まずマーラー室内管と録れた《魔笛》、これで完璧に心を捉えられて以降、モーツァルト管との一連の交響曲・協奏曲録音、ブランデンブルク協奏曲、イザベル・ファウストとのベートーヴェン、、心の底から素晴らしいと思える録音をたくさん聴いてきた。

ほとんどの場合、自分は拍節感がくっきりした演奏が好みである。それはただの速い遅いではなく、天界の数学があるか否か。クレンペラーもセルもアーノンクールもブリュッヘンも、みんな数学の音楽を聴かせてくれる。
ところがアバドは。
アバドのリズムは数学ではなくて詩ではないかと思う。若いころのアバドの録音はちゃんと聴いていないのでコメントできないが、いまのアバドの「秩序」は彼の呼吸と彼の歌に依拠して、まるで靄や霧が大気に漂うように即興的な流れを示す。これは本来は僕の好みから大きく外れるはずなのに、すべてが楽しい。そして、フレーズのあちこちが軽くすっ...と消える。

+ + +

交響曲第2番(まったく予想どおりだけど)クレイジィでもホットでもなく、ただゆるふわーっと始まる。
この交響曲は「シューマンの4曲の交響曲のなかでも地味」などと言われがちだけど、その実、含んでいるものが4曲中もっとも多い複雑な作品で、アバドがここで取り組んでいるのは第2番のなかにあるハイドンやベートーヴェンの明るい理性の音色を実現させることではないかと感じる。腹の底にガツンと来る拍節感や、焦燥に駆られた末の浪漫的自殺ではなくて。

よく聴いていると第1楽章の序奏こそゆるふわで始まっているが、第2楽章に掛けてタンタンタンタン...という軽いリズム構造が収斂していく様子がわかる。それを彩るモーツァルト管の明るい響き。こういう演奏を否定しがちな旧世代の評論家さんたちは19世紀前半の本質をいまだに見誤っている可能性があるので、われわれとしては可能なかぎり注意してゆきたい(もちろん周到な解釈の結果、演奏家がそこへ19世紀末浪漫のドレッシングをかけること自体は全然否定しませんし、僕はそっちだって大いに楽しむし、そんな使い分けは常識的にどんどんやればいいと思うのです)

この演奏の第3楽章には、ベートーヴェンの第9番のアダージョが遠くで鳴っている。なんという理性と平安の音楽だろうと思う。
シューマンの心の和平は保たれるのが難しいくらい微細なものだったかもしれないが、だからといってそれが無視されていいはずがないのだ。アバドの歌いかたは抑制が効いていて、たいへん品が良い。そしてリズムは「ゆるふわ」に戻っているが、それが古典性と両立するという奇跡のような演奏なのだ!

第4楽章は再びかっちりとまとまり、推進する音楽としてアバドのなかで設計されている。強すぎたり無理のあるアクセントが皆無なので、たいへん理知的で明晰な印象を受けます。シューマンがなぜこの交響曲にハ長調を選んだか、多くの指揮者は忘れているのかもしれない。大切なディスクが持ちものに加わった。

+ + +

もしこの1枚を皮切りにシューマンの交響曲全集が立ち上がるのであれば、エポックメイキングなできごとだと考える。他のひとがそう思わなくても僕はそう思う。
by Sonnenfleck | 2013-07-07 21:59 | パンケーキ(19)
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