沼尻竜典/日フィル:ロマン派ってなに?

【2005年9月8日(木)19:00〜 第573回定期演奏会/サントリーホール】
●ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品 Op. 6 [1928年版]
●R.シュトラウス:Ob協奏曲ニ長調
 ○アンコール ブリテン:6つのメタモルフォーゼ〜第1曲〈パン〉
→広田智之(Ob)
●ツェムリンスキー:《叙情交響曲》 Op. 18
→浜田理恵(S)、ラルフ・ルーカス(Br)


この曲並び。N響の急激なコンサバ化(あんなにモーツァルトやブラームスばっかり並べられてもねえ…)を尻目に、他の在京オケはプログラミングにますます磨きをかけてきてます。
沼尻竜典の指揮を聴くのは一昨年(?)東フィルのマラ7以来でしょうか。あの作品のドライな面を強調した、低体温のいい演奏でした。日フィルの正指揮者になってからも、音楽監督のコバケン大明神様と巧く棲みわけてインテリっぽく活躍してるみたいです。

さて一曲目。ここにウェーベルンの作品6を持ってきたのは慧眼ですよねー。隠しきれない…っていうより、この作品では別にウェーベルンは浪漫を隠そうとはしてないということを、今日改めて感じた次第。確か作品6は「母親の死」を標題的に扱った作品で(プログラムにはなーんにも書いてませんでしたが)、第4曲〈ゆっくりと・葬送行進曲〉における慟哭はもっと知られてよいはずだと思うのです。「標題性」がロマン主義を形成する一要素だとするならば、この選曲は的を射ている。ダイナミックレンジの広大さや芯の太い金管(日フィルの特長だと思います)などオケは健闘していましたが、欲を言えば弦楽にさらなる精妙さがほしいところ。なお第2曲〈生き生きと〉の最後、2ndVnの3プルト目あたりで断弦アクシデントがありました。

後期のロマン派は「ロマン派の相対化」まで体験している。今さらワーグナーの真似でもなし、熱い心情吐露でもなし、となって老境のシュトラウスが辿り着いたのは「簡潔」の世界だったんでしょう。《メタモルフォーゼン》で苦しみと感傷を全部はき出してしまって、Ob協奏曲は明るく現実感のない作品となりました。
ソロの広田氏は日フィルの元首席とのこと。印象的な低弦の導入に続いて吹き始めますが、、数小節で突然演奏を中断。なんだか楽器の調子が悪いようで、筒の中を一生懸命かき出し、指揮者と目配せして再開…と見えました。情けないことに当方はそのあとうとうとしてしまいましたので、感想は書けません●●
広田氏は低音よりも高音が伸びやかで、アンコールの洒落たブリテンはまさにぴったり。

後半は《叙情交響曲》。いやあ…生で聴くとこんなに《大地の歌》に似てるんですね(^_^;)
沼尻のテンポ設定はかなり速めで、重い音の日フィル大編成をうねらせて冒頭の付点主題(これが全曲にわたって循環主題っぽく使われる)からぐんぐん攻めてきます。Br独唱のルーカスは艶っぽい声ではありませんが、明瞭でノーブルな発音が心地よい。逆にS独唱の浜田はオケに埋もれがちかなあ。といってもサントリーは相変わらず響きすぎだし、この作品はオケが常時分厚く鳴っているので(ここが《大地の歌》との決定的な違い)仕方ないと言えばそれまでですが。。
調性の臨界点と、その先(…「先」じゃなく「周り」か「隣り」のほうが妥当か)のシェーンベルク的な無調とを巧みに織り交ぜつつ(あるいは無調に誘引されて)、官能的な世界を構築するツェムリンスキー。魅力的です。実に。実に毒だ。アルブレヒト/読響の《夢見るゲルゲ》、聴きに行こうかなあ。
by Sonnenfleck | 2005-09-08 23:37 | 演奏会聴き語り
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