「ポリーニ・プロジェクトⅡ」:考えるために、聴きに行く?

最初に表明しておきたいのは、僕は現代音楽マニアじゃないということです。
したがって専門的な考察はほぼできない。「現代音楽は面白いことが多いから」しばしばこういった演奏会を聴きにいく、いちクラシック音楽ファンの「感覚的な感想」であることをご理解くださいまし。

それと、今日のエントリは「とても」長いです。

c0060659_17305684.jpg【2005年11月3日(木)19:00〜 東京オペラシティ】
●ブーレーズ:二つの影の対話 (1984)
→アラン・ダミアン(Cl)
●ベルク:ClとPfのための四つの小品 Op. 5 (1913)
 ○アンコール もう一度ベルクを全曲
→アラン・ダミアン(Cl)、マウリツィオ・ポリーニ(Pf)
●シュトックハウゼン:クラヴィーアシュトゥック7 (1954-55)
●同:同9 (1954-61)
●ノーノ:《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》(PfとCD、またはDATのための) (1976)
→マウリツィオ・ポリーニ(Pf)
●同:《森は若々しく生命に満ちている》(Sと3人の声、Cl、金属板、テープのための) (1965-66)
→ベアート・フラー(Dir)、バルバラ・ハンニガン(S)、
 ケルン打楽器四重奏団(Per)、
→エレーナ・ヴィチーニ、カディジア・ボーヴェ、ジョエル・トンプルー(声優)
→サウンド・プロジェクション:フライブルク南西放送局ハインリヒ・シュトローベル記念財団スタジオ
 ディレクター:アンドレ・リヒャルト
 アシスタント:ラインホルト・ブライク


1日のシンポジウムから中一日置いて初台へ。ちょっとツライ。。
1曲目はブーレーズ(Clソロ。何を勘違いしたかてっきりポリーニが第2ソナタを演奏するもんだと思ってました^^;;)。
舞台には半円の弧を描くように六つの譜面台が設置されています。しかし奏者入場の前に会場は完全に暗転し、オペラシティの天窓から夜の明かりがぼんやりと差し込む。やがてホール内各所のスピーカからClの旋律が断片的に、動きながら提示されるのを暗闇の中で聴いていますと、ようやく六つの譜面台の一つにスポットライトが当たる。聴き手はそこで初めて、奏者がすでに「影のように」入場していることに気づきます。
生の楽音→暗転・スピーカから加工された楽音→隣の譜面台にスポットライトが当たって奏者が時計回りに移動、というループで展開される曲は、奏者とスピーカがときに呼応しときに模倣し合いながら徐々に融合して、最後は再び暗転して空間に溶けて終わる。とりとめもないいたずらっぽい曲調ですが、ステージ上の「影」とホール中の「影」とが旋律を受け渡し合うつなぎ目のぼかしなんかとても新鮮でした。なるほどこりゃブーレーズのコンセプトに拍手。

2曲目はポリーニが出てきて、ベルク。
正直このベルクだけで今日は元が取れたなと思いましたよ。無調のころの作品ですが、前にブーレーズが置かれたことで、むせかえるくらいメロディアスに聞こえる。芳香のする桃色の湯気がふうっと立ちのぼるようなダミアンのCl、そこにからむポリーニの美音(本当に直線的にす...と消える)。感激して全身が薄ら寒くなりました。客席が異様に静かだったのも頷ける。さらになんとアンコール(?)にもう一度全曲を演奏してくれたんですよね。すばらしい。

3、4曲目はシュトックハウゼンのクラヴィーアシュトゥック。始め「番号未定」としていましたが、1日のシンポジウムでも弾いた第7を含む二曲に落ち着いたようです。
プログラムの解説によると、クラヴィーアシュトゥック第1〜第4までは厳しいトータルセリーによって「異常なまでに細かい弾き分け/聴き分け」が要求されたらしく、その問題の解決として第5〜第10では、統計によって「実践的な許容範囲が設定された」とのこと。(*これは《少年の歌》でやってる統計と同じでしょうかねえ。とすると「聴き分けられるかどうか」というバロメータを使って緩やかなセリーを作っているはず)
でも是正(作曲家の中で、ですけど)されたとはいえやっぱり、トータルセリーの作品は聴き手に優しくない。この作品なんてただ一つの楽器しか使っていないのに、やっぱりセリーの中身を聴き取ることは僕にはできなかったっす。でも聴き取れるか(奏者が弾き分けられるか)どうかなんて特に問題にならないのかもしれず、そうなると聴き手がいる意味は?という話になり、、、ってこれをやってるとややこしい美学の話になりそうなので、ずるいですがこのへんで切り上げておきます。ただの感想文だし。
→ということで、途中からはポリーニの美しいタッチを聴くことだけに集中していました。たとえばショパンなんかだと、知らない作品であっても無意識に「次はこう進行するべ?」みたいな予想を立てて、結果的に音色や音質もなんとなく想定しちゃいますが、この作品はまったくその種の予想がつかないので、純粋にピアニストの音だけを聴いていられるんですよね。色とりどりに煌めく有機的な音というよりは、単色を極めた無機的でストレートな美音。「美しい」連発ですが、それ以外言葉が浮かばない。

後半に入っていよいよノーノ作品が登場。まずは《…苦悩に満ちながらも晴朗な波…》です。
ライヴのパートとテープのパートがわりと明快に対話しているのですっきりした印象があります。これも曲調に関してどうこう言う作品じゃないと思いますが、プログラムの解説には「ヴェネツィアの自宅近くで頻繁に耳にした鐘の音」がイメージの根元にあると作曲家が言ったと書いてあって、こういう解説を事前に目にしちゃうとすぐに情景描写を考えてしまう。まずい(水は低きに流れる)。
ひとつ思ったのは、(過去の)自分とアンサンブルをするという行為にはどういう意味があるのかということ。テープには1976年のポリーニが保存されていて、それは不変であり、つまりライヴのパートは永遠の片思いなわけですが、それがかみ合うのを(あるいはかみ合わないのを)楽しむのが聴き手にとってのこの作品の意味なんでしょうか。あるいはポリーニ以外のピアニストが、1976年のポリーニとアンサンブルするといったいどうなるのか。概念に支えてもらうことでしか存立しえない作品なのか。ただこうやって聴き手に考えさせるだけの作品なのか。(だんだん文章が支離滅裂になってまいりました)

盛大な拍手を浴びてポリーニ退場。直後、客席中央に入場・着席。
いよいよ《森は若々しく生命に満ちている》日本初演です。
舞台には、下手から順にCl、S、声優♀、声優♂、声優♀が横一列。その奥に2-3の隊列を組んで5人の打楽器奏者(彼らの楽器は縦30横130くらいの金属板。そこへ鎖を巻き付けてジャラジャラやったり、木槌で叩いたりする)。そして彼らの前に指揮者、の計11人。
プログラムの解説によると、なんとこの作品にはもともと完全に確定されたスコアが存在しなかったらしい。再演には初演メンバーの参加が不可欠で(そしてテープには初演メンバーのパフォーマンスが使用されている)、今回のように完全に別のメンバーを集めるのには苦慮したとのこと。ノーノの死後、一応の出版譜は出ているようです(演奏ノートや初演者の録音をもとに再構成されたもの。楽譜資料の他にベトナム語の発音を学ぶ教材・98年の実況録音・Clの多重奏法の運指法の表などが付属しているんですって…)。

実際始まってみますと、、まずはその破壊的で暴力的な音響に度肝を抜かれるのです。爆撃音のように変調されたテープの音とともに、舞台上では声優たちの悲劇的な朗読(朗誦か?)、金切り声を上げるS歌手、やたら超絶技巧のCl、金属板の特殊奏法(鎖ジャラジャラ、撥・鎚で強打←5人でやるとすごい!)が同時に繰り広げられて、阿鼻叫喚の世界。テキストの内容(*)はほとんど聴き取ることができないのです。
(* カストロの演説、南ヴェトナムのパルチザンの言葉、名もなき労働者・学生の言葉…。テープの方の朗読には、ヴェトナム戦争停止を求める宣言、そしてペンタゴンの専門家による「冷戦」の分析が使われている)
正直言って、よくわからないがすごいものを聴かされたというくらいの感じです。僕は70年代をリアルタイムで知っているわけではないし、ここに込められた「特殊な」メッセージについても仮想的なイメージしか持ち得ません。したがって作品を聴く際に材料としたのは唯一「音響」だけなのですが、この作品の「音響」が単調でないと言い切ることは僕にはできない。聴き終えて帰宅したころは急激に炸裂する音塊の迫力に興奮していましたが、何日か経ってこうやって思い出してみると、予想以上に何も残っていないのです。(言い過ぎかもしれないけれど)タケミツメモリアルを縦横無尽に飛び交った爆裂音が、シネコンで観るハリウッドの娯楽超大作☆戦争映画のサラウンドと何が違うのか、ちょっと僕には説明できんのです。。
ポリーニはシンポジウムで「作品の政治性のために演奏するのではない」とさかんに強調していたけれど、60-70年代のことをよく知らない僕のようなガキが聴くと、この作品はテキスト選択の恣意性からどれほど独立した個性を持っているの?と疑問に思うのです。他の方がどう思われたか、ぜひとも聞いてみたい。

ふう。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
by Sonnenfleck | 2005-11-08 20:26 | 演奏会聴き語り
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