エルヴェ・ニケ/オーケストラアンサンブル金沢:編曲とは何か

c0060659_19371535.jpg【2005年11月13日(日)14:00〜 横浜みなとみらいホール】
●モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》序曲
●同:交響曲第31番ニ長調 K. 297《パリ》
●マーラー/シェーンベルク&リーン:交響曲《大地の歌》(室内楽版)
→クリストフ・プレガルディエン(T)、白井光子(MS)


今年7月、手兵コンセール・スピリチュエルとの来日公演が、金銭的な理由(フランス政府からの助成金カット?)で中止になってしまったかわいそうなニケ。NAXOSに録れたリュリのグラン・モテ、GLOSSAのシャルパンティエなど空虚かつきらびやかで実に美しく、この指揮者には注目していたのですが、今回は単身来日してオーケストラアンサンブル金沢を振るのであります。

前半のモーツァルトは、左から右へ向かってVn1st×8/Cb×2/Va×4/Vc×4/Vn2nd×6の対抗配置。また右かなり奥に離れてTp×2とバロックティンパニ。
《フィガロ》冒頭からノンビブラートでアタックをきつくして小気味よく「古楽」味を出しますが、どぎつくはないので驚きはない。想定内です。
ところが次の《パリ》がおもしろい。まず第1楽章冒頭のユニゾンで主音を4回繰り返す印象的な主題で、突然4音目にものすごいクレッシェンドをかけてこちらを仰け反らせる。今回の曲作りでニケが重視したのはこの「下から上へ」持ち上げる細かなクレッシェンドであるようで、曲中のそこかしこにぅうわんっっ...という表情がついております。僕はこういう「小手先の」装飾過多が大好きでありますから(笑)盛大に拍手。偶然にも同じ作品を2月にブリュッヘン/新日フィルで聴いてますが、大きめの編成でバタバタしつつダイナミックなドライブ感を巧く出した彼らの演奏とは正反対の、チョロチョロと機敏に動き回るせわしい演奏でした。オケの響きも鋭くやや荒れぎみで◎。

後半はいよいよ室内楽版《大地の歌》。
(*昨日のエントリは正確ではありませんでした。プログラムの解説文によりますと、もともと《大地の歌》を編曲しようとしたのはウェーベルンであって、シェーンベルクは楽器の指定と「編曲しなさいよ」という指示を出しただけだったらしい→実際にウェーベルンが手を入れることはなく、シェーンベルクによる「指示」の状態で楽譜はお蔵入りしたようです)
さてひとつ失望したのは「指揮者の希望により」弦楽器が各パート1人のオリジナル編成から、Vn1st×4/Vn2nd×4/Va×3/Vc×2/Cb×1という編成へ変更された点。今日でかけたのはこの編曲版が(CD録音の偽の音響バランスではなく)実演でどう響くのかを確かめるためであったので、これにはがっくりです。みなとみらい大ホールの大きさに合わせたからか、はたまたオケのツアーで極小編成は割に合わぬからか…。

部分の感想を細かく書くことはしません。白井光子のディクションにはちょっとがっかりしましたが、オケは十分に高密度のアンサンブルができていたように思います。ここのオケはやはり巧い。

ただ、大きなホールで聴いていて募るのはむしろ「曲の物足りなさ」なんですよね。それはシェーンベルク&リーン(ていうか上に書いたような事情が(*)確かだとすればむしろ「リーンの」)の編曲が、ほぼ原曲をそのまま縮小コピーしただけであるせいだと思われる。実演で聴くと改めてそこに思い至ります。同じ旋律を同じ楽器が弾いているので、結果的にどうも単純にパワーダウンしてるだけのように聞こえる。
リーンは自分で「作曲する」ことを避けたのでしょうが、たとえばウェーベルン「編曲」の《6声のリチェルカーレ》やヨハン・シュトラウス、シェーンベルク「編曲」のブラームスを思い出すまでもなく、新ウィーン楽派の作曲家による「編曲」と名のるものへの聴き手の期待(ここでは「編曲」≒「作曲」だろう)は、この《大地の歌》では決定的に裏切られているということです。
(→しかし「大地の歌 シェーンベルク編曲」でググってみると、日本国内のあちこちで演奏された形跡が大量に見つかる。極小編成のおかげでしょうか…「私的演奏協会」の考えたことはうまいこといっているわけです。皮肉な話だ。)
by Sonnenfleck | 2005-11-13 19:43 | 演奏会聴き語り
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