広上淳一/都響:春の午後

c0060659_2153545.gif【2006年3月21日(火・祝)14:00~ 第317回プロムナードコンサート/サントリーホール】
●モーツァルト:交響曲第31番ニ長調 K. 297《パリ》
●同:レチタティーヴォ《どうしてあなたが忘れられましょう》/ロンド《心配しないで、愛する人よ》 K. 505
→林美智子(MS)、広上淳一(FP)
●マーラー:交響曲第4番ト長調
→林美智子(MS)


もう一週間経ってしまいましたが、東京でのラストコンサートの感想文を。
広上淳一という人の鋭敏な感性については、もはや僕なんかがつらつらと書く必要がないほど広く知られていると思います。細かな表情をありったけ煩いほどにつけまくる+その対極としてなだらかな局面を清らかに歌い上げる、という広上節はこの日の演奏でも見事に炸裂でありました。(この人ほど指揮姿と音楽作りが一致している指揮者はいないと思う。)

《パリ》はこの一年で二回、ブリュッヘン/新日フィルとニケ/OEKの演奏を聴いたのですが、両者ともに明白な「古楽系モダンモーツァルト」であり、それを偏愛する人間にとってはいずれも最高の体験でした。しかしこの日サントリーのステージを埋めるのは巨大な編成のオケ、、コンサバのモダン演奏だったら寝ようかなと不遜な態度でいたのです。でも…うーん…古楽系のそれっぽい味付けに手を出さなくてもあんなに生き生きとして悪戯っぽいモーツァルトが提示できるんですね。最初から最後まで山あり谷あり、極度に集中したアクセントとユーモラスな脱力とが交互に現われ、ごく短い一つの音符の内部でスッと表情を変える様子には度胆を抜かれます。恐れ入りました。(僕はこういうクルクル回る演奏を外連だと思わない人とオチカヅキになりたい。)

二曲目のレチタティーヴォとロンドは歌手に寄り添ってオブリガートのピアノが活躍する作品。指揮台のところに(なんと)フォルテピアノが運ばれて広上氏の弾き振りとなりました。
しかしここでは歌手・ピアノ・オケが噛み合わない。客席から眺めていて見えてくるのは、どうも指揮に問題があるのではないかという疑問であります。ピアノのタッチは彼の指揮と同じで天衣無縫な様子なんだけれど、焦りのせいなのか、ピアノのパートに突入する箇所/そこから抜ける箇所でタクトに混乱が生じるような感じなんですよ。我々は普段、弾き振りに対して何気ない態度でいるけど、実は相当に習熟したピアニストじゃないとあの技は使えないのかも?という初歩的なところに辿り着いたようでした。そのうえ林さんは高音域が辛そう。

後半はマーラー第4。
ひとりのカリスマが与えた影響は、いったいいつまでそのオケに残るのか
都響を聴くとき、無意識のうちにベルティーニのことに思い至ります。彼が(特にマーラーで)目指したのはあくまで均整のとれたクールな美音でしたが、この日の都響はその美しい響きを保ったまま(Obの広田氏に、大ブラヴォ!)、でも広上節の忠実な僕としてベルティーニとは正反対の要求に対して巧く応えていました。
金や銀の装飾をじゃらじゃらとぶら下げたマーラーは、思いつき・悪趣味と紙一重であります。しかしこの日の演奏では楽員がその方向性に疑念を抱いている様子が微塵もない。第1・2楽章では広上氏の棒の下、全員が自信を持ってシニカルに細かい(そしてしつこい)表情づけに従事してます。集中と脱力の合間に予期せぬエアポケットが突然現れるというのはやはり素直に楽しい。
曲中何度も登場するコンマスのソロ。矢部氏のふざけっぷりはベルティーニ時代とはかけ離れていましたが、あんまり楽しそうに弾いてるんでこっちもグイグイ引き込まれますね。
第3・4楽章の清らかな美しさは、前述のとおり広上節のもう一つの側面。そして都響の弦がいまも間違いなく在京オケのトップに君臨していることにここで改めて気づかされます。すげえ。林さんも調子が上がり、安心して聴けました。

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演奏終了後の楽員の和やかさも、このオケの特徴。
舞台上で誰一人ニコリともしないどこかの放送局オケとは雲泥の差ですね。謙虚な仕草で歓声に応える広上氏の姿とともに、非常に後味のよい演奏会でありました。
とりあえず、しばしさよならサントリーホール。
by Sonnenfleck | 2006-03-28 21:53 | 演奏会聴き語り
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