0925カウントダウン企画◆ネタ帳覗き見(その2)

承前。
マーラーやショスタコが用いた「ユダヤ的な旋律」の元ネタらしいクレズマー音楽なんですが、さらに後者に限ってもうちょっと細かく探すと、次のような作品が挙がってきますね。

●劇音楽《南京虫》組曲 Op.19 ~インテルメッツォ
●映画音楽《黄金の丘》組曲 Op.30a ~ワルツ
●《ジャズ組曲》の中のワルツ、フォックストロット
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○ピアノ三重奏曲第2番 Op.67 ~第3・第4楽章
○歌曲集《ユダヤの民族詩より》 Op.79 ~第3曲〈子守歌〉・第15曲〈幸福〉など
○弦楽四重奏曲第8番 Op.110 ~第2楽章

二つに区切ったのは、明らかに趣向が異なるからです。
「クレズマーと似ている」という主観的な基準しか僕は持ち合わせないのですが、プラウダ批判前の●作品はすぐにそれとわかるくらい露悪的で俗悪な使用のされ方であるのに対し、交響曲第5番後に書かれた○作品ではより内向的で、クレズマー音楽の上澄みのような切なく懐かしく重苦しい旋律線だけが積極的に引用されているように感じられる。しかしそのうち、●作品がはっきりと聴き手の方を向いた機会音楽ばかりであることが面白いんですよねえ。

1930年代中盤の社会主義リアリズムの確立へ向かって収束する以前のソヴィエト・アヴァンギャルド音楽には、スクリャービンを祖と仰ぐ前衛作曲家と、あくまで労働者・大衆へ向かった作曲家の両方が混在していたんですが、この時期のショスタコーヴィチはまさに素晴らしいバランス感覚で両方の音楽を書き分けていました。
その片方、労働者・大衆へ向かった作曲家の作品は今日ほぼ残存しません。しかし社会主義リアリズムへの収束で失われた1920年代の娯楽音楽とクレズマー音楽との関係を想像する上で、残された「クレズマー風味の」ショスタコの機会音楽は重要なヒントになりそうな感じ。今考えられる以上にロシア市井の音楽にクレズマーは溶け込んでおり、ショスタコーヴィチはそれを巧みに掬い上げたのではないか…。脚注も何もないブログだから書ける全開の妄想ですけどね(笑)

一方、以下は工藤先生のサイト@祝・ショスタコ本出版!からの孫引きなのですが(ごめんなさい)、ショスタコ自身がユダヤ音楽について
「私はどうも、ユダヤ的旋律の際だった特質がどこにあるかが分かっているようです。陽気なメロディがここではもの悲しいイントネーションの上に築き上げられているのです……。民衆は人間のようです。なぜ、民衆はにぎやかな歌を歌いだすのか。なぜなら、心が悲しいからです。」
と語っているようなんですね。いくぶん皮相的な感じのする一文ですが、ここにショスタコのユダヤ旋律観が現れていると考えてみてもよさそうです。上に挙げた○作品は、心が悲しいときに作曲されたものばかりではないか?

* * *

CDのライナーノーツに素っ気なく「ショスタコーヴィチはユダヤ音楽を引用して…」とかいう記述があり、なんとなくそれを理解したような気になっているけど、僕らは近所にユダヤ人が住んでいるわけでもなし、実際にどんなものがどのように引用されたのか知る由もないのです。
それはライナーの書き手の多くも同じはずで、皆さん欧文の直訳でそう書いているだけなんじゃないかなあ。おそらく欧米の聴き手はユダヤの旋律がどんなものなのか体で何となくわかっている者が多いのだと思うのだけど、我々はそうでない。優劣とは関係なくそこは単純に峻別されるべきなんですが、こうして文化的に断絶された環境の中からでも、事実を理解するための糸口になりそうな音楽を探し出すことは可能なようです。興味のある方はぜひ。
by Sonnenfleck | 2006-09-21 00:33 | 日記
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