ハーゲン四重奏団 岐阜公演

c0060659_05505.jpg【2006年9月30日(土)15:00~ 岐阜・サラマンカホール】
<モーツァルト生誕250年記念>
●弦楽四重奏曲第18番イ長調 K.464
●同第19番ハ長調 K.465 《不協和音》
●同第23番へ長調 K.590 《プロシャ王第3番》
  ○アンコール 同第15番二短調 K.421~第3楽章
⇒ハーゲン四重奏団


ひんがしの田舎者にとっては意外なのですが、名古屋と岐阜はずいぶん近いようでしたし、今を時めくハーゲンQを初めて生で聴けるチャンスが到来とあれば…駆け付けにゃならんです。

前半はしかし、昨夜遅くまでアルコールに浸っていたせいか実に眠くて、世界のハーゲンQをBGMに爆睡。贅沢の極みですわ。。あーあ。
絶対に寝れん…と休憩中にコーヒーでセルフ気合い注入、臨んだ後半の《プロシャ王第3番》は、やはり恐ろしい完成度でした。

俳句を例に取って考えてみましょう。
俳句に季語を織り込む際には、
◆1、季語そのものを描写する
◆2、季語に無関係な言葉を置いて対比と意外性を作る
という二つのアプローチがあるんですが、素人が句を詠むときに1の方法を取るとずいぶん簡単にできてしまうので、2のほうが高度な技巧だと思いがちです。でも実は2のようにシュルレアリスティックなずれを作るよりも、1のように素材の味だけで勝負するほうがはるかに難しいらしい。2は比較的新しい方法であり、極論すれば自動筆記的な意味合いすらあるわけですが、そうではなく、「ありきたり」に接近することを恐れずに季語自体を詠む1の方法を使うには一方ならないプレッシャーがあるようです。

さてもう皆さまお察しのとおり、ハーゲンQのアプローチは1の直球ド真ん中なのですね。
ゲッと思うような吃驚バランスとか、効果的で嫌らしいアゴーギクとか、(彼らの演奏の中にそれがまったく存在しないというわけではないけど…)そういう類のものに頼っているのではない。音符そのものから汲み取れる情報だけを生真面目に再生するとどうなるのか、という問いへの答えがここにあったように思います。(ただし1stVnのルーカスだけは...比較的ちょっとアレかと...)

第3楽章で旋律が1st+2nd→2nd+Va→Va+Vc、と受け渡されていく様子も非常に鮮やかでしたが、今回はとにかく第4楽章でモーツァルトの深淵を覗いたような気がする。
この楽章は妙にラプソディックというか、熱い浪漫が異常に複雑なテクスチュアから滲み出していて、そのくせ声部間の絡みは意外に少なくstandalone、合奏として内部から破綻しそうな危うさがあるようなんです。
しかしハーゲンQはそれをも完璧に再生しようとする。モーツァルトもハーゲンQも、両者ともに巧まざる危うさではなく巧みな危うさでしょうか。またひとつ蒙を啓かれた感じです。
by Sonnenfleck | 2006-10-01 00:55 | 演奏会聴き語り
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