アーノンクール/CMWの《メサイア》@京都―その1

c0060659_2314532.jpg【2006年11月18日(土)17:00~ 京都コンサートホール】
●ヘンデル:オラトリオ《メサイア》
→ユリア・クライター(S)、ベルナルダ・フィンク(A)
  ウェルナー・ギューラ(T)、ルーベン・ドローレ(Bs)
→エルヴィン・オルトナー/アルノルト・シェーンベルク合唱団
⇒ニコラウス・アーノンクール/コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン


あれほどまでの音楽を聴かされて、この後どんな言葉を継げばよいのだろうか。
すでに小一時間、PCの前に座り込んでいるのですが、何も書けずにいます。文章が組み立てられないし、だいいち単語が出てこない。
わかっているのは、この演奏がこれまでのクラヲタ人生の中で最も衝撃的な体験であるということと、この先何年・何十年に亘ってこの演奏の呪縛を受け続けるだろうということ。以下の文章は感想文ではなく、自分のための覚え書です。

ここに最高の果物があったとしましょう。
その果物は最高と言われながら皮に近い部分は刺激がきわめて強いことで有名であり、世人は皆その果物を味わう際、皮に近いその部分の刺激を感じることに意味があるとしている。あるいは刺激こそが「最高」たる理由だと考えている。その果物の刺激の要素を強調したガムが広く流布したことで、その傾向はいっそう強まり、刺激を嫌う人は果物そのものを手に取ることすら厭うようになる。
しかし刺激に覆い隠された果物そのものの味、果物の核に近い部分の味には、誰も注意を払わない。刺激のほうがよく目立ち、よりわかりやすく、果物評論家はすぐにそれを言葉にできるからです。―「最高」の理由はその果物の中心部の甘みだというのに。

アーノンクールの音楽はエキセントリックでもクレイジーでもない
極端なテンポの変化や、粗野で表現主義的なそぶりは、ただ全体を構成する一要素でしかないんです。前述のようにそうでない部分にこそ耳を傾けなければならないし、また「刺激」も、単なる思いつきや装飾要素なのではないのだということを認知しなければならない。作品そのものの形を丁寧になぞったが故の、流れの中での自然な起伏なんです。
刺激主義・快楽主義とは異なる本物の「真摯な古楽」が、どれほど心に迫るものなのか、ようやくわかったような気がする。

演奏については明日書きます。
by Sonnenfleck | 2006-11-19 22:51 | 演奏会聴き語り
<< アーノンクール/CMWの《メサ... 片道36分(1泊2日) >>