バッハ・コレギウム・ジャパン《ヨハネ受難曲》@名古屋

c0060659_2129438.jpg【2007年4月1日(日)17:00~ 愛知県芸術劇場】
●バッハ:《ヨハネ受難曲》 BWV 245 (第4稿)
→野々下由香里(S)、ダニエル・テイラー(A)
  ユリウス・プファイファー(T、福音史家)、水越啓(T)
  ドミニク・ヴェルナー(Bs、イエス)
  浦野智行(Bs、ペテロ、ピラト)、他
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


一年ぶりのBCJ。昨年はマタイ、今年はヨハネであります。

しかし、、生ヨハネはやはり刺激が強い。受難曲をバッハのオペラとして聴いた場合、マタイとヨハネのどちらが面白いかというと、僕はヨハネのほうに軍配を上げたいのです。繊細な内面描写の代わりに音による残虐な描写を。心に残る名アリアの代わりに醜い合唱の圧倒的な力を―。それを改めて見せ付けられる公演でした。

■うた
今回のソロ歌手は、僕が勝手にイメージしている90年代末から00年代初めくらいのBCJファミリーとは趣きが違う。はっきり言えば、アルトのテイラーを始めいかにも今時の個性的なソロたちが、理性的で静的なBCJの地にどうやって溶け込むのか、そこがポイントでした。
結果的にテイラーは耽美的な美声を抑えることはしなかったし(ただし愛知県芸の広すぎる空間ではその持ち味を十分に発揮し切れなかったか)、福音史家のプファイファーはただただ生真面目、いっぽうイエスのヴェルナーは非人間的(!)な極太の威厳を湛えていて、BCJとしては例外的なほど表現主義的な亀裂が表面に浮き出た(というかそれを目指した)スリリングな演奏であったと思うのです。

特にバスのヴェルナーは抜きん出た存在感があった。
レチタティーヴォのイエスや第19曲のコントラファゴット付きアリオーソでは憎たらしいほどの神々しさを備え、いっぽう第24曲の性急なアリアは”nach Golgatha!”を陳腐すれすれまで引きずって情念を込める。自ら亀裂を体現するかのようでした。

合唱。ユダヤ人たちがてんでばらばらに喚き立てる場面の響きは信じられないくらい濁っていたし、逆に彼らが律法や皇帝の権力を持ち出して迫るところでは響きの混濁にもかかわらず縦の線が美しく揃うというグロテスクな状態をよく描写しています。それでいて例の第24曲のバスのアリアへ入れる”Wohin?”という合いの手がまた限りなく透明なので、背筋が寒くなりました。ヨハネ受難曲の反ユダヤ性、なんていう怪しい話にも思わず同意。。

■オケとBC
今回はこの亀裂が合奏の中にも存在していたので驚いたわけです。
ダ・カーポのとき、雅明氏はオーボエやトラヴェルソに常ならぬ濃厚な表情づけを要求していたりしましたが(弦部隊とのテンションのギャップが鮮やか…)、最も目立ったのが、鈴木優人氏のチェンバロ。お父上の曲づくり、あるいは叔父上のチェロとはちょっと違う、劇的な通奏低音だったなあと。イエスが平手打ちを受けたときのパンッという痛烈な打鍵、第20曲のテノールのアリアで盛んに前へ進もうとする推進力(今回はいささか拙速すぎる気もしましたが)など、動的で派手な面白みがあったのは間違いありません。一昨年のジューリオ・チェーザレのときも似たようなことを思ったなあ。BCの主導権が秀美氏から優人氏に移ったかのような変化が…。

しかしそれに関して(かな)、東京公演では直っていてほしい箇所が一点。
第18曲のレチタティーヴォ、福音史家の見せ場である「ピラトはイエスの身を引き取り、鞭打たせた」というメリスマと、鞭打ちを描写する通奏低音とがまったく噛み合わなかったんですね。通奏が走ったか、プファイファーが息切れしたか、単なる事故なのか、犯人探しではないけど、意図的な亀裂には聴こえなかったです。。

■お客
演奏中は名古屋らしからぬ静謐な空間が維持されました。素晴らしかった。
演奏後は名古屋らしいフライング拍手のせいですべてがぶち壊しでした。マジでブラヴォだ。
by Sonnenfleck | 2007-04-02 23:34 | 演奏会聴き語り
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