幸田露伴『幻談・観画談』、1990年、岩波文庫
恩師から教えてもらったワーグナーの作劇法のひとつに、登場人物が「何かを見ている」ことを観客に伝えることで「見えているもの」の存在を強く感知させるというやり方があります。「何か」そのものの描写はなくても、その気配や存在感が際立つわけですね。
それは《トリスタンとイゾルデ》で言えば、第3幕で牧童が笛を吹いて船の到着を知らせる場面であり、《神々の黄昏》で言えば、第1幕でハーゲンがジークフリートの小舟を見つける場面。
幸田露伴の『幻談』は、それと同じ系統の演出が施された上質の怪談であります。
釣り人と船頭が、水面から突き出たり没したりしている釣竿を見つける。
近づいてみると釣竿の根元には溺死者がいて、竿をしっかりと握り締めている。
しかし造作の良いその竿に心惹かれた二人は、溺死者から竿を頂戴して帰る。
翌日、その竿を使うとどんどん魚が釣れる。そのうち日が落ちかけて薄暗くなったところへ、昨日と同じ場所で細い棒がヒョイヒョイと浮んでは消えているのが二人の目に入る。
もう一度確かめてみようにも、辺りは急速に闇に包まれて何も見えない―。
ちょっと長いのですが、最後の場面を引用してみましょう。
怪を見て怪とせざる勇気で、変なものが見えても「こっちに竿があるんだからね、何でもない」という意味を言ったのであったが、船頭もちょっと身を屈めて、竿の方を除く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなって苫裏の処だから竿があるかないか殆ど分らない。かえって客は船頭のおかしな顔を見る、船頭は客のおかしな顔を見る。客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた。
この行間に垂れ込める「見えない何か」の恐ろしさは、実はすでに露伴自身の筆によって冒頭に記されているのです。「心は巧みなる画師の如し」と。