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晴読雨読:梨木香歩『家守綺譚』

晴読雨読:梨木香歩『家守綺譚』_c0060659_7344612.jpg梨木香歩『家守綺譚』、2004年、新潮社

久しぶりの当カテゴリ。
このまえ実家に帰ったときに親が薦めてきたので暇つぶしに読んでみたのですが、なかなか悪くないのでした。
たぶん舞台は明治30年くらいの京都。売れない文士の綿貫は、死んだ親友の親が屋敷から離れることになり、住み込みの管理人、家守として職を与えられる。その屋敷には琵琶湖の疏水を引き込んだ池があり、それをとりまく鬱蒼とした木々があり、そして―怪異がいる。

一話完結型で、家守・綿貫の日常と、日常に入り込んでくる怪異が季節ごとに描写されていきます。でもその実、庭の百日紅に惚れられたり、疎水から池に迷い込んだ河童を助けたり、作者が描くのは背筋が寒くなるような非日常の怪異ではなく、怪異が怪異でない世界(時代)の日常なんですね。それがこの小説のミソでして、世界が怪異を怪異として捉えないと、怪異は怪でも異でもなくなる、という当たり前の構造を、衒いなく、カッコつけることなく、本当に淡い色彩でもって描いている。
この世界では百日紅がその枝葉でもって感情を表現することについて、誰も何も言わない。怪異じゃないわけですから当然ですよね。百日紅が化けて出ても、主人公はせいぜい「ああ花が咲いたな」程度の反応なのです。

しかしちょっとでも作者の筆が滑って、読者に違和感を与えてしまったが最後、この世界は簡単に崩壊してしまう。作者に与えられた課題は以下の二点になるのでしょうか。

(1)現実世界での怪異を、怪異でなく当然のものとする虚構世界を描写すること
(2)その虚構世界における怪異を描写しないこと

(1)は比較的簡単かもしれませんが、(2)を実行するのは本当に難しいと思うのです。この作品ではこの二点が両方完璧にクリアーされているがために、独特の冷静な現実味を帯びた虚構が生まれている。と言っても堅苦しさゼロの淡い幻想空間です。こういったフィクションが好きな人は多いでしょうね。僕もそのうちの一人だけど。

夏が過ぎて、ちょうど散り始めた街角の百日紅に目が行くようになって困ります。
by Sonnenfleck | 2007-09-13 07:35 | 晴読雨読 | Comments(0)
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