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今日は朝からストラヴィンスキー(19)

今日は朝からストラヴィンスキー(19)_c0060659_915539.jpg【DISC20…SACRED WORKS VOL.1】
●JSバッハ《高き天よりわれは来れり》によるコラール変奏曲(1956) ※
●カンタータ《星の王》(1912/1939) ※
●《アヴェ・マリア》(1934)
→エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
●《クレド》(1932/49/64)
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●《パーテル・ノステル》(1926/49)
→エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
●《古いイギリスの歌詞によるカンタータ》(1952) +
→アドリエンヌ・アルベール(MS)
  アレクサンダー・ヤング(T)
  グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●《ミサ曲》(1948) #
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●カンタータ《バベル》(1944) ※
→ジョン・カリコス(語り手)
  エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/
  CBC交響楽団(※)、コロンビア室内Ens(+)、
  コロンビア・シンフォニー・ウィンズ&ブラス(#)

ラストスパート?

まずバッハの編曲であるコラール変奏曲
たぶん元になってるのはクリスマスにちなんだコラールなので、季節的にはぴったりですね。管楽器偏重のつぶつぶした響きはシェーンベルクのバッハ編曲よりずっと軽いテクスチュアで、これがストラヴィンスキーの最良の特徴のひとつだよなあと改めて思う。そこへ何の前触れもなく合唱が乱入しちゃうのがいかにも節操レスで融通無碍でして(笑) CBC響はコロンビア響よりもっとサバサバした音なので素敵です。

続いて初期のごく短いカンタータ《星の王》
これはバリモントのロシア語詩に基づいているようですが、歌詞なしにつき内容はまったく不明です。順番的には《春の祭典》の直前の作曲かと思われ、そのように意識すれば、確かにここから声を抜いたらハルサイの静かな部分に似ているかなあというところ。 ただしハルサイよりはふくよか、静謐で不穏。

またもロシア語訳による、今度は無伴奏合唱の《アヴェ・マリア》《クレド》《パーテル・ノステル》がそこへ続く。どれもせいぜい3分ほどで終わってしまうんだけど、ストラヴィンスキーがうっかり素を出してしまったかのような素朴な甘さが充満していて…ギャップ萌えと言えますでしょうか。おなじみトロント祝祭、及びグレッグ・スミスの皆さんも決して超絶技巧ではないので、その方向に拍車がかかるようです。

《古いイギリスの歌詞によるカンタータ》は、古雅で浮遊感のある室内アンサンブルが(あるかなきかの)土台になって、これまで聴いてきたストラヴィンスキー作品群の中でもちょっと独特の肌ざわりかなあ。ここから《シェイクスピアの3つの歌曲》へまっすぐ道が伸びている気がします。ソロのアルベールが少年みたいに恍惚とした歌い方をしていてドキドキする。

で、このディスクの白眉は次の《ミサ曲》でしょうね。
ネットで検索してもほとんど引っかからないし、並み居るス氏作品の中にあってはいかにも身も蓋もないタイトルなので見過ごされてるのかもしれないけど…作品の格というか訴求力が他とかなり違う。
ミサ通常文に添えられた音符は、心に染み入る静かな訴えと都会的なスマートさを兼ね備えていて実に素敵。伴奏は管楽器のみで、いかに弦楽器が悪魔的な響きをしているか、如実にわかってしまうシステムに戦慄。そして旋律の線はここに至っても溶け合うことのない束感を醸し出しており、しかも厳しく並列的で、ここでは特に演奏者ストラヴィンスキーと作曲者ストラヴィンスキーの幸福な一致をみているようです。名演だと思う。

最後に、ナレーション付きで《大洪水》の先駆けのような《バベル》。こちらはたった5分のために語り手と合唱とオケが必要なので実演は絶望的か。ストラヴィンスキーの宗教作品だけ集中的に集めたコンサートは、面白いだろうなあ。でも人は集まらないだろうなあ。
by Sonnenfleck | 2007-12-24 09:06 | パンケーキ(20) | Comments(9)
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-25 00:17
ご無沙汰です、かなり進んでいるマラソンは草葉の陰から応援しておりました、一連のオペラ劇作品のレビューは下手な音盤評は右に出ることを許せない素晴らしさです、個別のコメントは後日で、今回はミサ曲については、昔の記事をTBします・・・・なにせ年末のワーキングプアな円海山な状態に拍車をかける上に風邪が胃腸を犯し、発熱にて前日までの3-4日マトモな食事が取れない状態でありました・・・。

つづく
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-25 00:34
さて話を戻して。
>続いて初期のごく短いカンタータ《星の王》。
これはドビュッシーへ献呈された知る人ぞ知る秘曲ですね。
>順番的には《春の祭典》の直前の作曲かと思われ、そのように意識すれば、確かにここから声を抜いたらハルサイの静かな部分に

 じつに春の祭典は作曲者とドビュッシーで四手ピアノ初演がなされています。まさにひそやかな予言なのかもしれません。
ドビュッシーは星の王について・・その荒唐無稽な手段で実現される「難解の意味深さ」を感じとったのか?
「これはプラトンの永遠の天球でしょう」と慎重な言葉で喩え、そして
さらに「私は当曲がシリウスとアルデバラン以外で演奏されうるのか思案にあぐねます・・・なぜなら我らのモデストなる地球での演奏は、演奏される機会は奈落の底へ行く失われるでしょう」と実現不可能を示唆しています。
 言葉と音楽の実現の荒唐無稽に新しいものには寛容な、ドビュツシーも尊敬の念を示しながらも。引いた不思議な例でもあります。
 むしろハルサイの時も、アンセルメに非音楽的手段で音楽を作ろうとしている書簡を出していますが・・・これと符合し先駆しているとも言えそうです。
つづく
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-25 00:58
 その荒唐無稽のギミックは高次に累積された三度による和音がにポリトナールを志向するあたりでの縦の関係と、狭い音程による朗唱のような歌唱と絶叫は、バリモントの詩を際立たせており、例えば冒頭の彼の顔つきは輝く太陽に様だったから始まり、目は星衣装は虹で、いま復活しようとしている様が描かれるあたりでの、荒唐無稽な掴みを、楽音は短三度の音程を含むテトラコルドなフレーズの絶叫的合唱から始め、そしてオケの静寂の弦楽羽二重のような分奏に三度累積でズレる木管とともに上昇を幾分繰り返し表現するあたりで見事に想起させていますね。

 歌詞については・・・・この後、星の王は「雷を従え我々に忠誠を誓わせ・・・最後は「統治るする」といい雷を使い空を赤く割き、その空で煌く星の七つの光輪が砂漠の果てまで我々を導くという・・・・荒唐無稽なものです、丁度中間部で無伴奏で特徴的音程にシュプレヒテン風になるあたりが忠誠を誓うところで、後半の官能的な木管でるあたりが砂漠の果てのくだりです。
つづく
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-25 01:07
さらにこの曲の受容について、円海山も含め多くの自演リリース空白期の者達は、マイケルティルソントーマスのボストンとのハルサイ名演奏のカップリングで知った口です、これは流石にアメリカ時代友好があった一人ゆえに名演奏です・・・。幸いにもいま廉価版でDG時代のデュトワのペトルーシュカと件のハルサイのカップリングに弾かれずに残っておりますゆえ、これを是非お聞きくだされば、すこし補完できます。なお個人的にはドビュツシーの聖セバスチャンの第二幕あたりはこれに近似な音楽世界だと思っていますがこの辺どうお考えでしょうか。
Commented by Sonnenfleck at 2007-12-25 23:57
>ドクター円海山さん
いつもフォローいただいてホントにありがとうございます。
胃腸風邪ですね…去年私も罹ってひどい目に遭いました。お大事に。。
さて《星の王》ですが、これまでに聴いたストラヴィンスキー作品にはない、テキストに頼らないで聴くのが難しい曲であることよと思いました。自分としては。被献呈者がドビュッシーというのは面白い糸口ですね。荒々しくも象徴的な詩を想像しながら(助かりました!)、もう一度聴きなおそうと思います(年末進行中にて激忙です)。なるほどMTT。
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-26 00:39
どうも恐れ入ります・・・・。
前のコメントを・・・自己補正「統治るする」は「統治する」でしたね(汗)失礼しました、なんかウメズカズオのまことちゃんみたいな星の王に・・・・・グワシでした。
さて
>ストラヴィンスキー作品にはない、テキストに頼らないで聴くのが難しい曲であることよと思いました。
同感です・・しかしストラヴィンスキーはこの星の王では「必用なのは意味ではなく言葉である」と論じており、その言語のフェティシュな拘りでの響を、楽音の属性として管理統制の範疇対象と考え、それを未分化創作プロセスから、ある種の成果を切り取る篩として意味合いがテクストにあったのかもしれません。これはミサ曲も詩篇交響曲にも共通していえ、興行的なものが契機の結婚や鶯では、多少薄らいでいますから、声楽作品にも本気モードとそれ以外があったかもしれませんね、なんか想像すると楽しいですね・・(笑)
つづく
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-26 00:54
>なるほどMTT
つげ義春の名作漫画「ねじ式」の台詞 なるほどホッキン金太郎 を思い出してしまいました(爆)あなたは私のおっかさんではと返すと世代おいてけぼりですので、話題を戻して、MTTのストラヴィンスキーの三番目にあたるのですが、その前は順不同ながら、四手ハルサイと小澤のペトルーシュカのピアノパートで、その後・・ソニーに謎の改訂のある1947ぺトルーシュカで・・・・RCA時代になってアメリカ時代の作品や三大バレーの録音などがあります、星の王を含むファーストハルサイは1967年版の初録音でストラヴィンスキーの晩年に近い位置にいたとされる立場がブーレーズを承前にさらに熱くスポーティーにした演奏が聴け、そして星の王というハイライト的添え物は、でスィーツに添えられた小さなペパーミントのような面持ちですので、是非新年はこれでお過ごしください(強引)。
つづく
Commented by dr-enkaizan at 2007-12-26 00:54
国内での星の王の受容その後ですが、このあとリッカルドシャイのベルリン放送SO合唱団が初のデジタル録音がでて・・・ディスクモンターニュでのブレーズのステレオライヴなども出現、どの演奏も様々なる壮絶を呈してなり響いていますが、ともかくやはり稀少なレパートリといわざるえないですね。
 さて次回はブリテンとストラヴィンスキーのアブラハムとイサークの対決が観れるのでしょうか・・・楽しみにいたしております。
Commented by Sonnenfleck at 2007-12-26 23:30
>ドクター円海山さん
「言語のフェティシュな拘りでの響を、楽音の属性として管理」というのは、まさに先週《ペルセフォーヌ》で体験したばかりの現象でしたので、ははあなるほどなあとガッテンのボタンを押したところです。そういう角度から捉えると、ストラヴィンスキーにとっての「声」はいくつかの異なる意味合いを持つものだったのかもしれませんね。おっしゃるとおり鶯と星の王では、作曲時期の接近にも関わらず音楽作品としての質がかなり異なっていると思われます。
MTTのストラヴィンスキーはまったくノーマークでした。冬休みの宿題かなあ。。
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