ABQ Farewell Tour 名古屋公演

【2008年5月30日(金)18:45~ 愛知県芸術劇場】
●ハイドン:《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》 Hob.Ⅲ:50-56~〈序奏〉
●ベルク:《抒情組曲》
●シューベルト:弦楽四重奏曲第15番ト長調 D887
  ○アンコール ハイドン:同第78番変ロ長調 Hob.Ⅲ:78 《日の出》~第2楽章
⇒アルバン・ベルク四重奏団


3年前のツアーで彼らのライヴを聴く機会を得、あのときは演奏中に2回も地震が起きて変な空気になったのが懐かしく思い出されます。Vaの逝去と交替を経て、しかし、ある一定のレベルを維持したまま解散することを選択したのか。
ABQを批判すればクラ玄人、みたいな風潮がレコ芸的価値観の裏返しとして蔓延しているような気がするんですよ。材料もなくそんなことをする自信は僕にはないし、世界的なカルテットを現認できる最後のチャンスだけに、チケットを買い求めました。

お客さんの入りはよくて5割5分というところでしょう。興行的には大失敗かもしれない。
ただ、こりゃ本当に聴きたい人しか来てないなあというのは、異常に張りつめた客席の空気から容易に想像されます。衣擦れすら憚られる質の高い緊張感、名古屋でもちゃんと形成されるじゃないか!いつもはどうなんだよ!

本来的な意味での「世界的カルテット」の「名演」は、《抒情組曲》でありましょう。
溶け合った最初のハイドンから打って変わって、4人が4人ともハイレベルなスタンドアローン状態。そのうえ4人ともあのベルクの言語に通暁しているわけだから、ぽつぽつ...ぶつぶつ...ぺちゃぺちゃ...とめいめいが呟くことをこそ好しとする。それでいて、たまたま各人の呟きが揃う小節はうねるような熱気をはらむ。第6楽章のトリスタン引用があんなにはっきりと聴き取れるとは思いもしませんでした。
さても黒い漆の上に金銀砂子がパッと散らされたような、実際的に役に立つことのない、まったく現実味のない美しさがホールに出現したのであった。あの生成過程を椅子の上から眺めることができたのは、確かな収穫だったと言えます。
これで後半のシューベルトがなければ、僕の中でABQの名前は《抒情組曲》とともに記憶されるはずでした。シューベルトがなければ。

ベルクの終わりくらいから、1stVnのピヒラーの音程がぼやけ、発音にはノイズが混入するようになっていました。僕はちょうど彼の背後のあたりの席に座っていたのに、その変調が伝わってくる。
もちろんピヒラーひとりのせいとは思われないけど、1stがリードすべき部分が多いシューベルトの第15番は、はっきり言ってズタズタだった部分が多くあったような気がする。ベルクの完璧なフォルムとは対照的に錬り込みが甘い部分が散見され(「あ、ここ拘らなくていいの?」っていうのが多い)、響きもももやもやして焦点が定まらない。あるいは「計算された放心」を最近のシューベルト演奏に聴いてきて、彼らのスタイルを少し古臭く感じたのかもしれない。
先駆者は追い越されてこそ?
しかし、この先駆者たちが、いつ果てるともない第4楽章のロンド主題をズタズタにしながらも物凄い気迫で繰り返す様子に、この夜は心を奪われたのです。鉄壁とか伝説とかそういう美辞麗句はこのシューベルトによって還元されていき、最後に残った、演奏行為に関する彼らの裸のプライドを聴くことができてよかった。忘れられない体験であります。

さよならABQ。

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by Sonnenfleck | 2008-06-02 06:36 | 演奏会聴き語り
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