庭は夏の日ざかり
2023-07-02T07:11:30+09:00
Sonnenfleck
クラシック音楽系雑談ブログ。http://twitter.com/sn_fleck
Excite Blog
支店を畳む日、そしてさらばレコ芸
http://dsch1906.exblog.jp/33020323/
2023-07-02T06:08:00+09:00
2023-07-02T07:11:30+09:00
2023-07-02T07:11:30+09:00
Sonnenfleck
日記
支店を出して10年となるこの7月、大家は大規模改修のためついに店子の活動を著しく制限するに及び、店子が1日あたり見ることができる他の店子各位のツイート件数に上限を設けることとなったのである。
かくして支店は昨夜半から突如としてスタンドアローン状態に陥りました。ちなみに家賃を多めに払うとちょっと他と繋がせてもらえるらしいよ!いやらしい。
店子同士のライトな情報交換の機会が消失したら、もはやそれは支店を開いておく意味がない。本店集約の時が来たのかもしれない。
* * *
ここ最近で時の流れを見ることになった出来事といえば、『レコード芸術』誌の休刊(廃刊)に尽きる。
レコ芸を最初に買ったのは、プーランク生誕100周年記念の特集が組まれた1999年4月号と思われます。メルカリやヤフオクで99年度のレコ芸を検索してみると、どの月の号も表紙や特集を完璧に記憶していて、当時どれほど熱心に読み込んでいたかがわかります。
僕はニフティのクラシック音楽サークルを熱心にやられていた世代より下で、したがってそれらを直接目にしたことはありません。以前もどこかで書いているだろうけれど、当時の僕にとってのインターネット上の情報源はBBS群「クラシック招き猫」が主体でありました。東北の県庁所在地住まいであれば、街の本屋で買うレコ芸をメインとし、そこへ招き猫の情報をサブ的に用いれば、なんとか街のCDショップで目星をつけて小遣いの投入先を知ることができたわけです。
初めて買うブラームスの交響曲全集をヴァントにするかチェリビダッケにするかひたすら悩んだカワイ楽器のCD売り場、新品の輸入盤を初めて見たタワーレコード、家に帰れば『FM fan』の番組表片手にMDにエアチェックしながらレコ芸を読み耽る。これが北東北の田舎の高校生の暗く充実した青春の一コマだったわけですよ。Alas!
それから四半世紀後にレコ芸の命脈が尽きるのは不可避だったのかもしれないが、紙媒体の形を保てないことと、そこにある情報の確からしさを混同するような論調がこの度たくさん見られたのは、なんだかおかしーなーと思う。
とある古参論客がTwitterで書いておられたことに心から同意なので、無断で恐縮だが「RT」させてもらう。おお、そう言えば支店では無断RTが当たり前なのであったが。
《休刊によって経済学で言うところの「サーチコスト」にこれから多くのクラシック愛好家が苦しめられる…》
ここですよね。
(本当はこの下のツリーも読みたかったが障害のせいで読み込めない。)
実はレコ芸の休刊(廃刊)によって、僕たちは母艦を失って漂流する小舟になった。特集が大時代的だ!とか、些末なミスが!とかいう意見は、母艦がプロの編集者・プロの音楽評論家の手で誠実に運営されており、いつでも困ったことがあったら母艦を参照しにいっていいという甘い環境にいればこそ発しうるのであった。
かくして小舟は海原に投げ出され、これからは玉石混交の商的サイトとフリマアプリとサブスクとたくさんの小舟たちの間を右往左往するしかない。そのコストを思うだけで目の前が暗くなる。
小舟は相互扶助的な船団を組むだろうか?それとも母艦の乗組員だったプロの評論家の下に再度結集して新たな母艦を称揚するだろうか?いずれにせよそこに至る道のりはよくわからない。
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本店虫干し
http://dsch1906.exblog.jp/32646383/
2022-07-01T06:54:00+09:00
2022-07-01T07:41:51+09:00
2022-07-01T07:41:51+09:00
Sonnenfleck
日記
Twitter支店(今はこれが本店になってしまったけれど)が障害で見られないので、こっそり本店に戻ってきて雨戸を開けて風を通すことにしましょう。
まず、何度か書いたことだが、Twitterのいち投稿あたりの字数制限というのは実に厄介である。たくさん書きたいときには情報量を優先させざるを得ないため、文字を繰る楽しみみたいなものを犠牲にして新聞の小見出しのような情報の[顔]しかないお化け文が生まれ出る。情報には手足もあれば腹も尻もあるはずだがそれらを切り落とさないとハマらないのだから、宿命的に仕方がない。
しかし文句をさまざま思い浮かべながらも、あれは手頃気軽な媒体として「ビジネス文章以外も書きたいよぅ欲」を満たしてくれるのだから、結局あそこに集うてしまう。
これに加えて書くならば、私生活では、自分は元々コンサートゴアー系のクラオタだったような気がしつつ、音楽会通いと子育てと本業とブログ執筆は絶対に並立しないというのがこの5、6年しみじみと味わってきた事実です。
ただ、このブログを精力的に更新していた00年代後半のように週3日も4日も音楽会に出かけることは引き続き難しいものの、ごく最近はひと月に1、2回はコンサートホールに行かれないこともない様相を呈してきている。
曇天続きだった自分の内的世界にも若干の薄日が差してきたかなあ、と感じるところ。
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on the air:小泉和裕/名フィル 第481回定期演奏会@愛知県芸術劇場
http://dsch1906.exblog.jp/31469022/
2020-07-12T12:43:00+09:00
2020-07-12T15:16:44+09:00
2020-07-12T12:43:14+09:00
Sonnenfleck
on the air
【2020年7月10日 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
⇒小泉和裕/名古屋フィルハーモニー交響楽団
(2020年7月10日/カーテンコール)
名古屋を離れてちょうど2年が経った。
新しい「おらが街」には湖水のほとりに立派なオペラハウスがあるが、肝心の座付きオーケストラがいない。お隣の京都に出れば京響がいるけれど、おらの所有にできるほど京響をまだ聴き込んでいない。
楽団員さんの顔を見分けることができて、お名前も存じ上げていて、こんなところのアンサンブルが素晴らしくて、こんなところはやっぱりヒヤッとするな、という感覚で親しく接することができるオーケストラは、自分にとってはやはり名フィルなんだよね。おらが「旧」街のオケ。復活おめでとう。
+ + +
さて小泉カントク/名フィルのベートーヴェンを振り返ってみると、これまでに1、6、8番を現地で、7番をNHKFM「ブラボー!オーケストラ」でそれぞれ聴いてきました。いずれもダークな低弦をがっちりと配した重厚なフォルムでもってビタミンカラーの美しい主旋律をしっかり盛り立てる、ミッドセンチュリーモダンのベートーヴェンとでも言ったらいいかなと思います。
小泉カントクはその来歴(カラヤン国際指揮者コンクール第1位)から「和製カラヤン」みたいな感じで言われることがひじょうに多いですよね。
しかしこれまでの1、6、7、8番の演奏から、発音は折り目正しいながらも、HIPをものともせずに「一様にブリリアントな」音の塊をぐんぐん前に動かして推進力で束ねていくような印象を受けたため、カラヤンというよりどちらかと言えばセルやライナーのベートーヴェンが眼前に再現されるような感興を覚えていました。
今回はどうだったか?
ぐんぐん前に流れていく感じは、上述のように低弦ががっちりしている(=もし何もしなければトゥッティのなかで発音が遅れるように聞こえる低弦が、発音するときの子音をちゃんと明確にしてむしろトゥッティのリズムを形成している)という名フィルの特長と、小泉カントクのセンスとの幸福なマリアージュと考えています。これは前回同様。今回もしっかり流れていく。
流れていくが、流れの上に乗っている音そのものの愛らしさ、音の造形の円やかさは、とても前回の比ではない!
第1楽章こそ複数回、Vnにアンサンブルの乱れがあってヒヤッとしたのだけど、第2楽章になると立ち直ってくる。待ちに待った楽団員さんひとりひとりのアウトプット欲が、音符の品質を段違いに引き上げているのだろうなあ。唸らされました。第2楽章の始まりの合奏の美しさ、びっくりしましたよ。特に太田首席と佐藤次席のふたりのソロVcは《ラインの黄金》最初の原始霧を聴いているみたいで、ため息が出てしまう。いま配信元のアーカイヴで何度か繰り返し聴いても、クオリティの高さにびびる。美しいです。すごく。
Fl富久田氏と、まさかの客演・都響Ob広田氏の掛け合いも充実のひと言。
トゥッティが調子づくと少し歯止めが利かなくなって豪放磊落に鳴るのが名フィルの良いところであり、また愛すべきクセと考えていますが、お客という吸音体が減ったためか第3楽章・第4楽章はちょっと「鳴りすぎ」だったかなあ。愛知県芸のコンサートホールはおそろしくワンワン鳴るホールなので、現地で聴いていたら飽和した大音響だったのではないかと勝手に予想します。
しかしClボルショス氏、Hr安土氏など、いつもの面々の渾身のソロがそこへ差し込まれて、それもまた”楽しい集い”だったかもしれないね。
「この交響曲ってパルティータですのよ?ご存じ?」という体で、コレッリ風にパストラーレを柔らかく模倣するHIP演奏が牧場の向こうに吹き飛ばされるような、第5楽章の豪快な開放感。モダンオケのビューティが極まる。HIPもいいし非HIPもいい。どちらもいい。
+ + +
最後に小泉カントクがスピーチ。飾らない人柄と、オケとの良好な関係を感じる。
事務局さん、年イチなんて贅沢は言いませんから、たまに関西公演してもらえませんかねえ。待っとるでね。
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飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪 第44回定期演奏会「天使と神々の幻想」@いずみホール(7/4)
http://dsch1906.exblog.jp/31440829/
2020-07-05T12:55:00+09:00
2020-07-05T13:16:17+09:00
2020-07-05T12:55:55+09:00
Sonnenfleck
演奏会聴き語り
長い文章を、字数制限がない文章を書くことをしていなかったので、このまま書き続けられるか心配ですが、やってみよう。
+ + +
【2020年7月5日(土)16:00~ いずみホール】
●川島素晴:尺八協奏曲《春の藤/夏の原/秋の道/冬の山》(2014)
→藤原道山(尺八)
●ベルク/ファラデシュ・カラーエフ:Vn協奏曲《ある天使の思い出に》(1935/2009)
→郷古廉(Vn)
●西村朗:12奏者と弦楽のための《ヴィカラーラ》(2020委嘱新作)
⇒飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪
「演奏会聴き語り」を書くときの自分なりの入力規則みたいなものも忘れてしまっていてひと苦労である。
さて、このひとつ前のエントリが同じいずみホールのポッペアだったのはまったくの偶然ですが、そのときはつゆほどにも思わなかった、新しいウイルスのパンデミックという新しい要素が私たちの生活に重くのしかかっています。
僕が最後に出かけた「フツーの」音楽会は2020年2月16日、滋賀の守山市民ホールで行なわれた日本センチュリー響首席Cl・持丸氏の小さなリサイタルであり、バルトークやブラームスを楽しんだその後、世界は変わってしまった。いままでのフツーはここで死に絶えたのだった。
6月、7月、世界は新しい形でゆっくりと復活し始めたものの、いずみホールのフツーも壊れてしまっていました。
ホールに入場するとき、非接触式体温計をあてがわれてOKをもらう。
チラシの束を配るひとはいない。
チケットを自分でもぎる。
レセプショニストさんたちはみんな白いマスクをし、フェイスガードも装着している。
手指をジェルで消毒してから自分でパンフレットを取る。
バーコーナーは暗く、営業されていない。
グッズコーナーは閉鎖。
ホワイエの人影はまばら。談笑するひとはいない。
みんな緊張した面持ち。
座席はひとつひとつ間隔を空けて座る。
これが、われわれ愛好家に課せられた暫定「新しいフツー」である。苦しい。
それでも、1曲目のチューニングが始まると、何かわけのわからない温かい感情がこみ上げてきて涙ぐんでしまった。
ひと足先にホールで合奏体と再開した方たちが、Twitterで口々に「チューニングで泣いた」と書いているのを見ていて「ホンマかいな」と疑っていた自分が恥ずかしい。ホンマに涙が出てくるのです。いまPCに向かってこの文章を書いていても、昨日の最初のAの音を思い出すとグッときます。あの音が僕にとっては大切なイメージだったということがよくわかるのであった。
+ + +
1曲目は川島素晴氏の尺八協奏曲(2014年新作の再演とのこと)。藝大の同窓である藤原道山氏の名前を4楽章にばらして読み込んだ、ヴィヴァルディライクな愉しい作品でした。ヴィヴァルディがあれくらい鳥とか犬とか祭りを描写して許されているのなら、川島センセのこのどぎつい描写も全然オッケーというか、アーノンクール的には「これくらい激しく描写しないと現代人にはわからない」というところでしょう。
武満がずっと日本のオケの海外公演の定番になり続けるのは自分はどうかなと思う反面、外山ラプソディは、演奏する側の日本人がすでにあのどっこいしょ、どっこいしょというリズムに関する実感を失いつつあるので、この川島氏の尺八協奏曲は貴重な正統派ジャポニスムレパートリーとしてがんがん演奏されていったらいいと思います。
第1楽章「春の藤」は、藤の花を示すシャラシャラとした下行音型がずっと鳴り続ける美しい楽章。
第2楽章「夏の原」は、まず川島センセの解説を引用します。
最も長い二尺三寸管を用い、オーケストラの「原」を漂うように経巡る。「草いきれ」「生命の気配」「生命の囁き」「熱微風」という具合に、熱帯かが進行している日本の夏のイメージが4種提示され、更に夏の風物詩「蝉」「蛙」「雷」「花火」「風」が模写される。
―いいですよね。愉しかった。
藤原氏は物理的に、ステージを歩きながら「経巡る」。そして飯森マエストロとは別に、手の合図でオケに指示を出していく。その合図を見ると解説にあるように4種類の音楽パーツがあるみたいで、オケはそのパーツを偶然性に従って組み合わせて奏でていく模様。飯森氏は指揮台から降りて文字どおりの蛙跳びの形態模写で合図を送ったりするが、飯森氏に従うグループもいれば藤原氏に従うグループもいて、ナチュラル、カオスが眼前に拡がる(というのがきっと狙いなのでしょう)。「花火」と「雷」は思いのほか「花火」と「雷」だったので笑ってしまった。最後はオケ全員が楽器を置いて、代わりに手持ちの風鈴をフォルテで鳴らす。
第3楽章「秋の道」は、僕にはものすごくメシアンへのオマージュのように聞こえまして、これまた楽しかったです。鳥の鳴き声のような特徴的な旋律がいくつも、重層的に、またそれぞれ若干の繰り返しを伴って出現する。
第4楽章「冬の山」は、それまでステージを歩いていた藤原氏がオルガン脇のバルコニーに立って静かで厳しいソロを聴かせ、最後も暗転して終わる、という演劇的な要素が強い楽章でした。ヴィヴァルディと一緒で、冬で終わる寂しさに趣きを感ずる。
+ + +
2曲目はベルク/カラーエフ編曲版のVn協奏曲。
この演奏の前、川島センセ(と終盤に飯森マエストロが加わって)が解説プレトークしてくださったのですが、わたしたちのような愛好家にもすごくわかりやすくて、良い内容でした。
そのときに川島さんが舞台に置いてあったチェレスタを使って、この曲の音列とバッハのコラール主題を弾いていただきましてですね。音列とVnの開放弦との関係やバッハのコラール主題とどう関係しているかがよくわかったのですが、音楽に対する欲望がギンギンに高まっているなかで、チェレスタの静かな音色で、豪奢ないずみホールの席に座って、バッハのあのコラールが奏でられるのを聴くというのは、実は本番の演奏よりもずっとずっとエモーショナルな体験だったということをこっそり書いておきたい。
それと、僕は寡聞にしてこの曲にケルンテン地方の民謡が引用されているという話を知らなかったのですが、川島さんにそれを教えていただいたのと、飯森マエストロからの示唆がよい気づきになった。すなわちケルンテン地方にはヴェルター湖があり、ヴェルター湖畔にはマーラーの作曲小屋があり、グスタフ→アルマ→グロピウス→マノンというこの曲へのもう一本の道があるかもしれないわけです。これは面白い。まだまだ知らないことばかり。
ファラジュ・カラーエフ Фарадж Караев(※カラ・カラーエフの息子ではないですか!)の編曲は特別に変わったことをしているわけではなく、響きを巧みに梳き鋏で軽くしていく。特に「おおっ!」と思ったのは、第2楽章の冒頭の激しいパッセージが涼やか~な響きに変貌していたところです。原曲だとマッシヴな音が襲いかかってくるような部分だけど、室内オケ編曲により木管楽器の動きがよくわかるようになり、ソロとの落差があまり大きくなくなって、新しい佳さが発見されました。
郷古氏、いろんなメディアで聴いてきたけどライヴはお初のように思います。いいねえ巧いねえ。
ベルクの控えめなところとエロなところを往還して破綻せず、基本的にエッジが立ったハードな音(ロックミュージシャンみたいに!)がベースにありながら情緒的なふくらみが両立するところが、若い世代のトップクラスのヴァイオリニストという感じ。Twitterのフォロワーさんオススメのバルトークをぜひ聴いてみたい。
+ + +
そして3曲目は、音楽監督・西村朗氏の2020年新作《ヴィカラーラ》である。
少し長くなりますが、西村センセの解説を引用しましょう。
この作品は、12名の奏者、すなわちフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、2名の打楽器奏者、ピアノ(チェレスタ)、ハープと弦楽合奏のために作曲されている。12名の奏者にはそれぞれに個性的な働きをする独奏的な箇所が設定されている。したがって全体としては一種の”管弦楽のための協奏曲”である。
奈良の新薬師寺(8世紀半ばに建立)には、有名な国宝「十二神将像」がある。薄暗い堂内中央の大きな円形台座の中央にふくよかな薬師如来(本尊・国宝)が座し、それを外敵から保護する等身大の十二神将が、円周上で外側を睨み威嚇するようなポーズで立ち並んでいる。見るものを釘づけにする超現実的で凄絶な光景である。十数年前、偶然にも人の気配がなく、ただ一人初めてこの堂内に立ち入った時、まさに心身は震え、凍りついた時間の中での幻聴を体験。何かおそろしいほどに激しく骨身に響くものを感じた。
との由。さらに解説プレトークでは
・作曲はコロナ前から始めていたが、書いていくうちにどんどんコロナとの戦いの音楽になっていった
・薬師如来と十二神将は邪気・邪鬼を踏みつけるが、ラストシーンは邪気・邪鬼を根絶しきれない様子も描いた
という話も飛び出してきて、薬師如来をモチーフとした俄然タイムリーな作品になってしまったことが判明。うむー。
音楽としてはなじみ深い西村節、いつものように安定した密教版メシアンですが、中間部で弦楽合奏により神秘的に柔らかく描写される薬師如来と、その後に各ソロが加わったトゥッティで構築される十二神将のダンス、短いながらも壮絶な印象を残す。川島センセがYouTubeに上げておられるこの定演の解説動画によると、この部分は西村朗一流の「ケチャ構造」が奏功しているようでした。
【参考:川島氏によるケチャ講座】
聴いていて面白かった点をもうひとつ記録しておくと、薬師如来を柔らかく描写した弦楽合奏が、同じ音色の細かなトレモロ(※川島解説によると「蠕動運動」)で邪気・邪鬼を描写しているところなのよね。
プレトークの通り、曲の最後はこのトレモロがホラー映画の最後のように蠢いて終わる。「薬師如来が衆生の衣食を満足せしむ」の「衆生」にはウイルスという生きものも当然包含されていて、ウイルスの衣食の結実であるところの疾病も、概念として包み込まざるを得ないのかな、などと思うことしばし。これはマクニール『疫病と世界史』とも繋がっている。
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西にいずみシンフォニエッタありと名高いこのアンサンブル、聴くのは今回が初めてであった。泉屋博古館の本館にいったりいずみシンフォニエッタを聴いたりすると、関西に生活の拠点が移ったことを実感するよね。住友すごいよ。
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学生のころの話と、いずみホール古楽最前線!- 2018|躍動するバロックVol.5《ポッペアの戴冠》(1/19)
http://dsch1906.exblog.jp/30095132/
2019-02-10T21:59:00+09:00
2019-02-10T21:59:45+09:00
2019-02-10T21:59:45+09:00
Sonnenfleck
演奏会聴き語り
かくして僕の「バロアン」時代が始まる。
(だいたい)1680年〜1760年くらいに書かれた小さめの編成の曲を定期演奏会にかけては1年をまったりと過ごすこのサークルで、ふるさとの訛りを隠すすべを身につけるのと並行して、僕は通奏低音見習いとしてこの狭い時代の音楽に親しんでいったのだ。
+ + +
大学で東京に出る前から満遍なくいろんな時代の音楽を聴いてきたけれども、しかしこのころ獲得した「狭いバロック音楽」の呪いが、結果としてずいぶん自分を苦しめることになりました。
「狭いバロック音楽」に浸った学生時代の自分には、たいていのひとがそうであるのと同じように切って売るほど時間があった。ヘンデルらしい進行やテレマンらしい進行、ときどきはコレッリらしい進行を浴びるように聴いて、その狭い時代に完璧に適応する代償として、時代の少し前や少し後の「逸脱」を許容し味わう能力を僕は失った。
さてクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)は、1642年に《ポッペアの戴冠》を生み出して世を去った作曲家です。
モンテヴェルディの音楽は、たとえばヘンデル(1685-1759)に深く親しんで一体化してしまった耳からすればきわめて異質で、心地よくない。この「心地よくなさ」というのが曲者で、音楽史的にいくら重要だと理解していても心は拒絶が先に立つ。卒業してサークルを追い出されてからも、モンテヴェルディやカヴァッリやシュッツと自分の心の間にある深い溝を感じながら、あっという間に15年以上の時が流れたのだったが…。
そうして2019年は、モンテヴェルディとの和解から始まる!
+ + +
【2019年1月19日(土)14:00〜 いずみホール】
●モンテヴェルディ:《ポッペアの戴冠》
石橋栄実(フォルトゥーナ/ダミジェッラ)
鈴木美登里(ヴィルトゥ)
守谷由香(アモーレ)
望月哲也(ネローネ)
阿部雅子(ポッペア)
加納悦子(オッターヴィア)
藤木大地(オットーネ)
岩森美里(アルナルタ)
櫻田亮(ヌトリーチェ)
山口清子(ドゥルジッラ)
斉木健詞(セネカ)
小堀勇介(ルカーノ)
田中純(リクトール/護民官)
向野由美子(ヴァレット)
村松稔之(セネカの友人)
福島康晴(兵士/リベルト/執政官)
中嶋克彦(兵士/セネカの友人/執政官)
小笠原美敬(セネカの友人/護民官)
―――
リコーダー:太田光子、江崎浩司
コルネット:上野訓子、笠原雅仁
ヴァイオリン:伊左治道生、渡邊慶子、宮崎容子、丸山韶
ヴィオラ:宮崎桃子
ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート、テオルボ:坂本龍右、金子浩
指揮・チェンバロ:渡邊順生
緑に覆われた巨大な孤峰に登る和解の道は、どうやらオペラ、ということだった。
この登山道に至るまで、狭いバロック音楽の、しかも器楽に慣れ親しんだ心を徐々に溶かしてくれていたのが、レオナルド・ヴィンチ(1690-1730)が生み出した奇跡のオペラ《アルタセルセ》なんですけど(この出会いに関してはまたいずれちゃんとブログに書いて残したい)、生理的な快感としての声の力を十分に味わうすべをこのオペラで身につけて、それがモンテヴェルディへのアプローチにつながったのは、まさしく縁というか運というか。
つまり、別に後期バロックの和声進行であろうがなかろうが、声は深い溝を越えてこちらに届く。何の難しいこともなく、甘い重唱のハルモニア・ムンディが脳みそを覆い尽くす。そんなシンプルな力が電撃的にモンテヴェルディへの道を開いたのだ。
少し話がずれるけど、たぶんこの先の音楽オタク人生において、いずれロッシーニやドニゼッティ、またはパレストリーナやビクトリアへの道が開かれると思う。ヴェルディやプッチーニにはワーグナーを経由しないとたどり着けないかもしれないけれど、とにかくそこにも行けそうなんだよ。かように声の力はすべての障害を取り払う。
+ + +
いずみホールに初めて出かけていって、この日は当日券で前から2列目の右寄りを買い求めた。小編成の古楽アンサンブルはなるべく実音に近いところで聴くのが自分の流儀だからなんですけど、この選択は予想もせず吉と出る。
ホールに入ると舞台前方に渡邊順生氏が弾きながら指揮するためのチェンバロが縦に置かれて、その周囲を小さいオケが取り囲んでいる。
演技のスペースはその後方、オルガン台へのアプローチを使ってとても上手に設営されていて、また、自分の席の真ん前に、オルガン台との高低差を演出する小舞台が設えてある。これは佳いね。演出は髙岸未朝氏。
◆1.演出について
照明が暗転すると、この公演のために一度限り集められた超絶豪華な「オケ」が荘重なシンフォニアを奏でる。
やがて「アモーレ」(守谷由香氏)が戯けた身振りで舞台袖から出てきます。髙岸氏はこの後、ワキと道化と萌えキャラのキメラとしてアモーレを上手に使って、ものがたりを回していく。
神々の短い戯れが終わると、弱々しいコキュ・オットーネがふらつきながら入場。彼が懐かしく見上げるオルガン台の下の閨にはネローネとポッペアがいて、やがて後朝の別れを迎える。
ここでシュトラウスの音楽や、オクタヴィアンと元帥夫人を思い浮かべないわけにはゆかぬ!初代皇帝と同じ名前の小僧と第5代皇帝ネローネが同期するためには、ネローネが女声であればなおよかったんだけど、まあいいんだ。くどくどしい別れの台本に甘い音楽が纏わりつくのを陶然として聴いているうちに、この想念も消えていく。
やがてネローネはセネカと口喧嘩を始めるが、形成は見事に不利である。しこも愛するポッペアが邪魔立てするセネカを貶めるので、自尊心の鬼になったネローネによってセネカは自死に追い込まれます。
髙岸氏冴えてるなあと思ったのは、オルガン台の陰で手首を切ったセネカの腕から赤い血が滴る前で、ネローネとその部下ルカーノが男色に耽るシーンをしっかり描写したところねえ。ここはさっきの「女声ネローネ」と逆の「男声ネローネ」だからこそ強烈な印象を与えるのよ。視覚のインモラルが甘い音楽によっていやが上にも引き立つ。ところで、髙岸氏の見解ではネローネは受けである。
これとほぼ連続して、石女オッターヴィア(…捩れたオクタヴィアン!)の小姓・ヴァレット(ソプラノ)と侍女・ダミジェッラ(ソプラノ)がこの世の春のごとく絡むシーン。ここ、聴覚的には男声ネローネの男色シーンと鏡写しになるので、面白いくらい奥行きが出るんだなあ。視覚的にもルカーノ×ネローネと対比をつけて自由に舞台を走り回らせ、華々しいエロスで飾ってました。上手。
その後の筋書きはなんとも面白くないけれど、ドラマを維持するためにポッペアの乳母・アルナルタとオッターヴィアの乳母・ヌトリーチェが道化合戦を繰り広げる。ここでアモーレが最前面から前面に後退するのは少しもったいなかったが、乳母合戦にあんまり絡ませすぎても煩いし、バランスが難しいよね。。
敗残のオッターヴィアを流刑に処して、見よ、悪徳はどこまでも栄える。
この日の舞台ではネローネとポッペアのラストシーンはすごくシンプルなヘテロの絡みとして描かれていたけど、それはこのとき後ろで鳴っている音楽を踏まえれば当然だな、と納得。何しろ音楽がここでぶっとい浪漫を描写してるもんなあ。最後にアモーレに恍惚とした表情をさせたのもさらに好ましかった。
これはとにもかくにもエロスの成就だもんね。
◆2.演奏実践について
まずネローネの望月哲也氏は、男の脆さと虚飾を実に巧みに歌い込んでたと思われる。堂々とした体躯もそれを後押し。ポッペアの阿部雅子氏は天真爛漫7・邪悪3くらいの織り合わせで演じてまして、虚飾のないポッペアの実像という感じ。ただネローネに好かれただけで、このひと別にそんなに悪いことしてない。
オッターヴィアの加納悦子氏はさすがの貫禄で、絶望が服を着て歌っているような冷たい声質に背筋が寒い。
オットーネの藤木大地氏は、作中最もしょぼいこの男性をなよやかに描いて吉。藤木氏、最近よくメディアでお見かけするとおり叙情的な歌い口が味わい深く、次はヘンデルの世俗カンタータいかがっすかねえー。いずみホールよりもっと小さな箱でしんみり聴きたい。
セネカの斉木健詞氏も好かったなあ。強靭で滑らかなバスで完全にネローネに競り勝ち、これは自害でも仕方ない。
乳母コンビは前述のようにひたすら美味しい役どころですが、アルナルタの岩森美里氏は「怪演」のひとこと。夢に出そう。そしてヌトリーチェの櫻田亮氏は、いつも真面目にバッハを歌ってるひととは思えないコミカル演技ににっこりさせられました。
それから自分はやっぱり、「オケ」の魅力について書かずにはいられない。
ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート・テオルボ:坂本龍右、金子浩
指揮・チェンバロ:渡邊順生
という超豪華な通奏低音隊に、痺れるような快感を感じながら4時間を過ごす。これ以上の贅沢があるかなあ?
指揮というかプロデューサーを務めた渡邊順生氏は要所要所のリズムを引き締めながら、アンサンブルの主軸に渡邊孝氏をかっちり据えて、そのまま自由にやらせていた印象。10年前にヘンデルの《タメルラーノ》を聴いて以来、渡邊孝氏の鍵盤をやーーっと聴けましたよ。濃密なルバートも爽快な走句も自在。
そこへ懸田貴嗣氏、山本徹氏という古楽二大看板チェロ奏者が加わり、坂本龍右氏と金子浩氏の優しいつまびきが乗っかり、西澤誠治氏のヴィオローネが全部を受け止めて低く鳴る。繰り返しになって恐縮ですが、本当にこれは本当に耳福のきわみ。蠢く通奏低音隊、モンテヴェルディのようにキアロスクーロがきつい音楽ではさらに輝く。
+ + +
カーテンコールでポッペアが泣いてた。
悪徳なのに善い舞台だったんですよ、礒山先生。
おしまい。]]>
フィラデルフィアに雪が降る。
http://dsch1906.exblog.jp/30048090/
2019-01-13T22:18:00+09:00
2019-01-13T22:18:50+09:00
2019-01-13T22:18:50+09:00
Sonnenfleck
パンケーキ(19)
最後にここの庭木を刈り込んだのは2年半以上前のことですが、今日、箱庭が狭いな、周りのひとたちが速く歩きすぎているな、と感じて、久しぶりに鍵を開けに戻ってきました。鍵の開け方も鋏の場所も忘れかけていたよ。
* * *
↑ "In memory of Wolfgang Sawallisch, 1923-2013"
フィラデルフィア管弦楽団公式サイトより。
【WINTERSTÜRME ! The Wagner Winter Storm Concert】
●ワーグナー:楽劇《タンホイザー》第2幕~
○〈崇高な殿堂よ〉
○〈おお、公女様!〉
○大行進曲
●ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》第1幕
→デボラ・ヴォイト Deborah Voigt (Elisabeth/Sieglinde)
ハイッキ・シウコラ Heikki Siukola (Tnnhauser/Siegmund)
ルネ・パーペ Rene Pape (Landgraf/Hunding)
ブライアン・フィップス? Brian Phipps? (Wolfram von Eschenbach)
⇒ヴォルフガング・サヴァリッシュ (Pf)
今日、さる方のご厚意で、サヴァリッシュ/フィラデルフィア管の1994年2月の "UNUSUAL concert" を聴かせてもらいました。
この日、フィラデルフィアは記録的な猛吹雪に見舞われ、オケメンバーは出勤できず、定期演奏会の開催が危ぶまれたそうです。しかし音楽監督のサヴァリッシュは近くのホテルに滞在していた数人の歌手と、急ごしらえの合唱団を呼び集め、なんと自らすべてピアノ伴奏でワーグナーをやるということを思いつき、実行しました(フィラデルフィア管のサヴァリッシュ追悼記事にもこのときの成功が書かれている)。
この晩、演奏されたのはタンホイザー第2幕の抜粋と、ワルキューレ第1幕。
サヴァリッシュはどうやらヴォーカルスコアではなくて、フルスコアからその場で音を拾っているようです(後でわかりますが、いくつかの楽器はピアノに置き換えにくいので少しだけカットする、とスピーチしてます)。もちろん僕はこれらの作品のピアノ伴奏用スコアを知っているわけではないけれど、分厚い和音とライトモティーフのさりげない/または非常に烈しい強調、なにより「ヴォーカルがない」部分のピアノパートの巨大な響きが、サヴァリッシュがその場で即興的に音を作っていることを物語っていると思います。
ここで聴かれる「ピアノ≒オーケストラ」のテクスチュアはなかなか文章に表現しきれないのですが、まるで指揮者の頭のなかをそのまま聴くような稀有の体験であるのは間違いない。ワルキューレの第1幕前奏曲の黒々とした嵐をサヴァリッシュはこういう和音の集合で考えている、「嵐の動機」の音型を引っ張りながら、上の声部をこう認識している、また〈君こそは春〉をこういう音の織物として捉えている、というのが如実にわかります。「ヴェルズングの愛の動機」の慈しむような演奏実践!彼が何十年もドイツのオペラハウスのカペルマイスターとしてやってきた蓄積と、ピアニストとしての高い技倆がまるでこの一晩に結晶している。
ヴォイトとパーペはこの状況でも超人的な安定感があって笑えてきます。シウコラというテノールは存じ上げないですが、甘い声でちょっと危ない雰囲気のあるジークムント。素敵ね。
さらに、聞き物なのは演奏実践だけではなく、ワルキューレを始める前の4分半にわたるサヴァリッシュの解説。わざとドイツ語を使ってくすぐってみたり、皆さんもジークムントとおんなじように猛烈な嵐に巻き込まれてますな…、とか言って笑わせてみたり、わかりやすい英語で機知に富んだスピーチをなさる。そして〈君こそは春〉のメロディはワーグナーが書いた最も素晴らしい旋律のひとつだよ、と。
大オーケストラのダイナミクスで轟々と、また甘く、また精妙にピアノがものがたりを紡いでいく。双子が駆けだしていく幕切れ、たくさんの楽器が鳴り響いて、彼の指揮したバイエルン国立歌劇場の幻覚が見えるようだぞよ。
大トラブルに巻き込まれて定期演奏会が開催できない夜に、いったい何人の指揮者がこんな離れ業をやってのけるだろうか?地味でつまらない職人肌?田舎の堅実な校長先生?なんという無知蒙昧!バイロイトの天才サヴァリッシュ!
ちょうどここ1年くらい、サヴァリッシュの「やばさ」をいろいろな録音から感じていたところではあったんだけれど、この特殊なライヴ録音を聴いてわたしは完全に惚れました。遺されたマエストロの録音をしっかり聴いていかねばならぬ。
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造園11周年/錠を開けよう、窓を開けよう。
http://dsch1906.exblog.jp/25697228/
2016-06-12T22:30:55+09:00
2016-06-12T22:30:26+09:00
2016-06-12T22:30:26+09:00
Sonnenfleck
日記
放っておいても残っている秘密の花園が、しかしやっぱり自分には必要なんである。毎日丹念に手入れしていたころを懐かしみ、そのまま錠前を掛けたままにするのは実に甘美な行為だが、それではクレイヴン伯父さんと同じだ。自分だけの場所だから、自分がときどき錠を開けに戻らなくっちゃ。ね。
* * *
このブログを始めた日、フェニーチェ歌劇場の名シェフとして将来を嘱望されていたマルチェロ・ヴィオッティが、リハーサル中に脳卒中で倒れ、そのまま天に召されるという出来事があった。
11年後のいま、僕はロレンツォ・ヴィオッティの名前を東響名曲シリーズのプログラムのなかに見つける。1990年にマルチェロの息子として生を受けた男の子が、今年の9月に東響を振るために来日するんだ。
東京オペラシティシリーズ 第93回
2016年09月03日(土)14:00 開演
ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス
2014年にウルバンスキの代役として共演し絶賛されたヴィオッティ。今回はオペラ指揮者の父(故マルチェロ・ヴィオッティ)とフランス人の母の元に生まれ、ウィーンで学んだという彼の人生そのもののプログラムで再登場。東響HPより父親と同じ道を選んだロレンツォ君は指揮者コンクールで結果を重ね、やがて檜舞台に立った。ウィーンのはっぱさんがつい2週間ほど前のウィーン響客演を大絶賛されているので、可能なら聴きに行ってみたいな。
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精神と時のお買い物XXXIV(Twitterが落ちているその2分間)
http://dsch1906.exblog.jp/24633179/
2015-09-02T22:56:58+09:00
2015-09-02T22:56:50+09:00
2015-09-02T22:56:50+09:00
Sonnenfleck
精神と時のお買い物
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【BOOKOFF某店】
1 "Songs of Desire"(PHILIPS) *オルガ・ボロディナ+ラリッサ・ゲルギエヴァ
2 星野道夫『旅をする木』(文春文庫)
3 上原善広『異邦人 世界の辺境を旅する』(文春文庫)
4 武田龍夫『宮中物語 元式部官の回想』(中公文庫)
【サウンドベイ金山店】
5 "LANG LANG Live in Vienna"(Sony) *ラン・ラン
1は、オルガ・ボロディナのロシア歌曲集。バラキレフやキュイの歌曲は秋の情緒を呼び込むはず。名古屋はまだ夏の出口を行ったり来たりしているわけだが。PHILIPSの地味なアルバム探索は今やBOOKOFFを巡る楽しみのひとつで、イ・ムジチとホリガーとマリナーの木立から何か不思議なものを見つけ出す嗅覚が必要とされている。
ところでPHILIPSのジャケットは、DECCAの強い赤青を念頭に置かない渋い色調が多いですよね。DECCAのロゴが付いたPHILIPS原盤のアルバムはだいぶ悲惨なアートワークになっていると思うんであります。
2。カムチャツカで熊に食べられて亡くなった写真家・探検家の星野道夫氏。これまでに読んできたいくつかのノンフィクションが星野氏の著作の上で交差し始めており、彼の紀行文に正面から向き合うときが来ていると判断。『のだめカンタービレ』全25巻が1冊5円で引き取られていったその代金がアラスカの詩作に化ける。
3。『日本の路地を旅する』が猛烈に面白かった上原氏による、世界の被差別部落を旅するルポ。目前の事象と自分の過去を同化しながら、ルポであり私小説でもある「路地」を描く手段が海外ルポで通用するのか、またまったく異なるアプローチをしているのか。
4。武田氏は外務官僚ながら宮内庁に勤務した経験を持つ御仁。完全に内側の人物ではなく少し外側の人物によって描かれた宮廷の様子が知りたい。夏休みに読んだ半藤一利『日本のいちばん長い日』以降、出光美術館のソファから近くて遠い桜田門と宮内庁を眺め、2015年のいまでも不可侵の森について興味が湧いているんである。
5。ラン・ランが好きな自分は、ユジャ・ワンにない「計算を感じさせないくらい極めて巧妙に計算された」天真爛漫さを彼に求めている。
モーツァルトアルバムでラン・ランが達している異様な軽さとドライな空気はシュタイアーよりもベザイデンホウトよりも「ピリオド的」だと感じるので、ピリオド界隈専門の皆さんはモーツァルトアルバムを進んで買ってみるべきと思います。アーノンクールとのコンチェルトも2枚目についているしね~(そちらはもしかすると両者にとって挑戦だったかもしれないけれど)。
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スラヴァ×セイジのモダン・タイムス
http://dsch1906.exblog.jp/24206123/
2015-06-03T23:21:01+09:00
2015-06-03T23:20:55+09:00
2015-06-03T23:20:55+09:00
Sonnenfleck
パンケーキ(20)
+ + +
【Erato/WPCS22184】
●プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
●ショスタコーヴィチ:Vc協奏曲第1番変ホ長調 op.107
→ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)
⇒小澤征爾/ロンドン交響楽団
HMVのセールで756円くらいになっていた。安いね。
小澤とロストロポーヴィチ、という組み合わせがいかにも昔風に見えるのはどうしてだろう。ところが組み合わせから受ける印象に比べて、ここに録音された演奏実践は意外にもスマートで聴きやすい。ひょっとすると「モダン」かもしれない。
まずロストロポーヴィチが、一般的にイメージされるような鈍重さをあまり感じさせない(僕の脳みそに残っている指揮者としてのロストロポーヴィチがテキストの前面に出てしまっているのだろうなあ)。
80年代後半にチェロを持ったときのロストロポーヴィチが敏捷ですらあった(!)ことを、この録音が証拠として伝えている。少し強引な歌い回しと鋭敏さがミックスされたマチエール、これがモダニズムの薫りをそのまま宿しているわけですが、たぶん今世紀の若いチェリストが同じことをやろうとすれば、そればメタな視点からしか獲得できないはずなのであります。
それから小澤だけれども。
なめらかに整えようとする圧力と、ガサガサに掘り下げようとする圧力の両方から常に引っ張られて、その強い張力や緩んだときの対処にいつも悩まされているような気がするのです。このひとは。
ところでショスタコーヴィチの楽譜は、実は小澤の(僕が勝手に想像している)悩みに対して意外によく合致するのではないかと思われて仕方がない。
とある両側の圧力に「悪意のある器用さ」で対応したのがショスタコーヴィチとすれば、小澤征爾は悪意なんて考えることもなくどこまでも真摯に楽譜をなぞる。それによって、髭のグルジア人とその後継者を横目にしていたショスタコーヴィチの悪意が打ち消されてしまい、ただ器用なスコアがイコールの向こう側に浮かび上がるではないですか。ロンドン響のつるっとした音響はここで完璧にプラスに働いています。
小澤は結局、ショスタコーヴィチを彼のキャリアのなかに置かなかったことが少なくともレコード史的にはわかっているけれど、このようにニュートラルな器用さがばっちり表面に出てくるショスタコーヴィチ演奏というのは実はあまり思いつかないんである。皆さんはどうでしょうか?アシュケナージ?ハイティンク?いやいや、少し違う。何でもない何か、である。
2010年代は、ショスタコーヴィチの悪意に指揮者の悪意を掛け合わせた悪意2乗のゲテモノ演奏がはびこっている。そんなときに僕たちは小澤の器用で真摯な運転に乗った、ナイーヴで力強いロストロポーヴィチの歌を懐かしく思い出すのかもしれません。これがモダンのひとつの正体。
+ + +
プロコフィエフについて書く時間がありませんでした。追記できるかな?
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造園10周年/近況報告
http://dsch1906.exblog.jp/23522749/
2015-02-17T22:44:52+09:00
2015-02-17T22:44:51+09:00
2015-02-17T22:44:51+09:00
Sonnenfleck
日記
東京圏の藝術シーンの最先端を追うことをやめてしまうと、気持ちはずいぶん楽になった。気が向いたときに奥さんの了解をもらって名フィルの定期演奏会に足を運び、たまに愛知県美術館でゆっくりしていると、20代のころとは違うスピードで時間が流れ始めているような気がする。しかし時間はごっごごご…と音を立てて動いている。
10年前の今日、就職活動に臨む大学3年生の僕は、友人Nの勧めに従ってブログを書き始めた。あれから10年、30代になってもこの営みを続けているとは思っていなかったが、そもそもあのころは10年先を思い浮かべるような時間の定規を持っていなかったのだった。いま、定規の種類は増えたが、使いこなせているか?
+ + +
10年前の明日、フランス・ブリュッヘンが初めて日本のオーケストラに客演する。プログラムはこうだ。
【2005年2月18日(金)19:15〜 第381回定期演奏会/すみだトリフォニーホール】
●ラモー:歌劇《ナイス》から序曲、シャコンヌ
●モーツァルト:交響曲第31番ニ長調《パリ》K297
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op. 61
フランス・ブリュッヘンはこの9年後、2014年の8月に天に召された。時間は動いている。僕も動いている。当分立ち止まることはなさそうだ。
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円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)
http://dsch1906.exblog.jp/22940256/
2014-11-01T11:10:59+09:00
2014-11-01T11:10:56+09:00
2014-11-01T11:10:56+09:00
Sonnenfleck
演奏会聴き語り
【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
名古屋フィルハーモニー交響楽団
半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。
2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)
+ + +
この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。
ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。
ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。
ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆
この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
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「かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ」「ファジョーリにや」
http://dsch1906.exblog.jp/22357597/
2014-07-13T09:34:00+09:00
2014-07-13T09:50:44+09:00
2014-07-13T09:34:38+09:00
Sonnenfleck
パンケーキ(18)
【Naive/V5333】
●ハッセ:《シロエ》より〈嵐の恐怖の中で〉
●ハッセ:《シロエ》より〈私はあなたの人生でなければならなかった〉
●ヴィンチ:《許されたセミラーミデ》より〈千の怒りに抱かれて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈可哀そうな子供〉
●ポルポラ:《許されたセミラーミデ》より〈Passaggier che sulla sponda〉
●ペルゴレージ:《シリアのアドリアーノ》より〈だから、時々嬉しくて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈海岸近くで願い信じていたのに〉
●カファロ:《イペルメストラ》より〈私をもっと落ち着かせて〉
●サッロ:《ヴァルデモロ》より〈よく愛する心〉
●マンナ:《ルキウス・ウェルス、またの名をヴォロジェーソ》より〈お前を残して行く、愛する人よ、さようなら〉
●マンナ:《独裁者ルキウス・パピルス》より〈戦場のトランペットの音を聴き〉
→フランコ・ファジョーリ(C-T)
⇒リッカルド・ミナージ/イル・ポモ・ドーロ
そのうち、そのうち、と思いながら感想文は書けていないのだが、レオナルド・ヴィンチ Leonardo Vinci(1690-1730)のオペラ《アルタセルセ》を1年以上ずっと聴き続けている。
《アルタセルセ》はカウンターテナーが5人必要なものすごいオペラで、しかもナポリ楽派の大天才であるヴィンチが花園のようにメロディを書きまくったおかげで凄まじい作品になっているのですが、そこで重要な役を務めているのが、アルゼンチン出身の若きカウンターテナー、フランコ・ファジョーリです。
+ + +
カウンターテナーの人気者たち。デラー、コヴァルスキー、ヤーコプス、レーヌ、ヴィス、ショル、、煌びやかな先人たちが種をまいた畑がいよいよ実りの時期を迎え、ついに2010年代がカウンターテナーの百花繚乱となっていることを、たとえばレコ芸のおじいさんたちは知っているのでしょうか?知らないだろうなあ。知らないままでえーわ。
そのなかでも特に、フィリップ・ジャルスキー、マックス・エマヌエル・ツェンチッチ、そしてフランコ・ファジョーリ。この3名が抜きん出た活躍をし始め、しかも賢明に声質を住み分けて、おのがじし大輪の花を咲かせ始めています。ドラクエ3的な語彙でたとえると、ジャルスキーは妖しい魔法使いLv.65、ツェンチッチは僧侶から武闘家への転職組(+黄金の爪)、そしてファジョーリはベホマズンとギガデインを操るロトの勇者、というのが僕の見立てである。
なぜファジョーリが勇者枠なのかということだ。
このひと、C-Tの教科書のような歌唱を平気でやってしまう。曰く、滑らかな中高音をテノール歌手の豊かな声量で、というのが辞典的な記述だが、僕はこれまでヴィスやヤーコプスの歌唱からそれを感じ取ったことはなかった。でもショルあたりから格段に技術が進歩してきて、いよいよファジョーリがそれを「本当に」やってのけた。C-T2.0である。
たとえばトラック6、ペルゴレージ《シリアのアドリアーノ》のアリアを聴いてみよう。11分を超す長大なアリアだが、ペルゴレージらしく甘やかでたおやかな、言ってしまえばかなり起伏のつけにくいナンバーなんですよ。これをファジョーリはそのまま、肉厚で豊かな音楽としてそのまま顕現させてしまった。煮たり揚げたり、これまでは手の込んだ料理として味わわなければならなかった素材が、あるときから素材の味によってロマン派オペラのアリアのように楽しめるようになったというのは、革命と書いてよいのではないか?
もちろん、滋味ある素材ばかりが彼の得意技ではない。肉食系のド派手なナンバーもまさにそのままの魅力で僕たちに突きつけてくる。
トラック3、レオナルド・ヴィンチ《許されたセミラーミデ》のアリアなどは、ティンパニがどんどこ鳴り響き、ラッパが吹き荒れる強力な曲です(仮にこれがモーツァルトのオペラのなかに挿入されていたとしたら、テノール歌手たちはこぞってこのナンバーを自分のフェイヴァリットアルバムに入れるでしょう)。A-B-A'のダカーポアリアの伝統はA'に自在な装飾を要求するわけですが、そこでファジョーリが披露する装飾はある意味では装飾らしくなくて、音楽の豊饒な劇性をそのまま活かしているだけなのだなあ。
悔しいけど上手に形容できないので、YouTubeのクリップを貼ろう。Bは2分12秒、A'は2分39秒から始まる。
この自然な調理から僕が連想するのは、たとえばワーグナーがジークムントに付与したような高貴な音楽である。こうした想像をさせるC-Tは、彼が初めてなんだよね。攻守のバランスがよく、正攻法で高得点をたたき出す。それが勇者枠。
(ちなみにこのクリップ、5分11秒からとある別のC-Tが歌う同じアリアが続くが、つまらない小細工に頼って音楽を台無しにしているのがよくわかる。上で書いたようにファジョーリの勇者だとしたら、この別のC-Tは残念ながら村人Aくらいでしかない。動画うp主による残酷な比較です。)
隆盛するバロックオペラは、こと日本ではまだまだ、ロマン派オペラやロマン派リートに比べ市民権を得るまでに到っていない。でもいつの間にか僕たちは、化学調味料のような味つけに頼らない本物の演奏実践を、まずはCDで楽しむことができるようになっている。その革命を知らないままでいるのは惜しいのです。
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いくつかのご報告とこのブログの今後について
http://dsch1906.exblog.jp/22349182/
2014-07-10T20:49:00+09:00
2014-07-10T23:07:27+09:00
2014-07-10T20:49:08+09:00
Sonnenfleck
日記
◆1 引っ越しました
柿の木が伐られた翌週、上司は僕を会議室に呼んで異動を命じた。二度目の名古屋であった。
半月の間、慌ててさまざまの支度をし、本を売りCDを段ボール箱に詰め、東京の寓居を引き払うことになった。この住まいは大震災を経験した場所でもあったし、何よりも20代の楽しい時間をひとりで過ごした場所でもあった。地震で落ちたテレビが作った床の凹みを見下ろしながら、まことに思い出は尽きない。この狭い部屋が僕の庭であった。
そしていま、僕は名古屋のマンションの一室からこのブログを書いている。前の名古屋の家は静かな住宅地のなかにあったが、今度の家は繁華街の外れにあって、たまに酔っぱらいの楽しそうな声が聞こえる。窓の外を眺めても柿の木はないけれど時間が流れているのがよく見える。そういうことだ。
◆2 結婚しました
人生はわからぬもので、この転勤を機にえいやっと結婚してしまいました。勢いよく時間の流れに漕ぎ出すことも大切ですね。
このブログを始めたのは僕が大学3年生、21歳のころだったのだけど、自分が結婚するまでこの場所をちゃんと守ることになろうとは、当時は考えなかったなあ。
◆3 このブログの今後について
時間は流れる。
ますます仕事に忙殺され、細切れの藝術体験(それは、しかしそれでも感性を刺激するのだが)と、Twitterの小さな文章に満足する9年後の僕は、それでもこのブログをやめません。定期的な更新が途絶えてもはや久しく、初めて訪れるユニークユーザがここを廃墟のようだと感じたとしても、ここは僕の庭であり続けます。いまでは僕の庭に根を張った柿の木が、風をはらんでさわさわと揺れています。
ときどき思い出したように更新するかもしれません。でもそれは誰かのためではなく、僕のためです。
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さらば柿の木
http://dsch1906.exblog.jp/21997011/
2014-04-12T10:22:22+09:00
2014-04-12T10:22:22+09:00
2014-04-12T10:22:22+09:00
Sonnenfleck
日記
樹高は僕の部屋のある2階の高さをゆうに超え、3階の高さと同等かそれ以上に見えていた。「柿8年」のことを思えば、あの樹高に達するまで10年や20年ではきかないのではないかと考える。夏には照り返す緑色で僕の部屋のなかを染め、秋にはたくさんの鳥が舞い降りては実をついばみ、冬にも堂々とした枝ぶりを寒空に示していた。そして春にはまた、新しい葉をつけようとしていた。
・2009年4月30日 美しい4月に。
・2009年11月1日 柿の午後
・2009年10月18日 暮色蒼然
・2012年11月10日 柿の晝
隣家の敷地には、古いアトリエのような建物と、柿の木を中心にした活力に満ちた庭が含まれていた。いまはすっかり更地なのだ。小さな一戸建てが2軒建つのだろう。そして庭のことを知らない、罪のない一家が引っ越してくるのだろう。一家には犬がいるかもしれない。犬は柿の木があった気配を感じるかもしれない。
さらば柿の木!
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NHK、ザ八・八ディド氏設計による新NHKホール建設へ
http://dsch1906.exblog.jp/21925693/
2014-04-01T01:04:16+09:00
2014-04-01T01:04:03+09:00
2014-04-01T01:04:03+09:00
Sonnenfleck
日記
NHK経営委員のミリオン尚樹氏による「(現NHKホールは)音楽ホールのくず」発言が物議を醸す中、NHKが新しい音楽用ホールの建設を検討していることが明らかになった。
消息筋によると、2月末頃、NHKのモミーヌ勝人会長と東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森元気楼会長が都内の料亭で会食した際、森元会長から「せっかく決めた新国立競技場のデザインがお蔵入りになりそうだ、何とかならないか」とモミーヌ会長へ露骨な打診があったという。
2015年秋季頃に建て替え着工、2019年竣工を目指す新国立競技場は、イギリスの建築家、ザ八・八ディド氏のデザインを採用することで決定した。ところが、専門家から「高い」「カブトガニだ」「雪で屋根が落ちる」などと批判の声が上がり、政府はデザインや規模の見直しなどの検討に入っている。
一方、1973年に運用が開始された現NHKホールは施設の老朽化が進んでおり、また世界最大規模の歌の祭典である紅白歌合戦の会場に相応しくない、自販機の飲み物の種類を増やして、などの指摘が相次いでいる。NHKはNHKホールを含む東京・渋谷の放送センターの建て替えを検討しており、森元会長の鶴の一声が、モミーヌ会長の思惑と一致した格好だ。
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NHK高官によれば、ザ八・八ディド氏の設計を流用した新NHKホールの総工費は3000億円、8万人が収容可能で、開閉式ドームを持つという。
そのため「事実上の新国立競技場だ」との声も上がる中、モミーヌ会長は「NHK交響楽団に所属する職員数を1000人規模に拡大する」「世界一のコンサートホールにしたいと政府が言っているのに我々が違うよと言うわけにはいかない」などと呟いているという。
モミーヌ会長はさらに、「(ダメだったときの)取り壊し許可証を取っている」「一般社会ではよくあること」と発言したとの情報もあり、今後物議を醸しそうだ。
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