「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:パンケーキ(18)( 133 )

「かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ」「ファジョーリにや」

c0060659_9305654.jpg【Naive/V5333】
●ハッセ:《シロエ》より〈嵐の恐怖の中で〉
●ハッセ:《シロエ》より〈私はあなたの人生でなければならなかった〉
●ヴィンチ:《許されたセミラーミデ》より〈千の怒りに抱かれて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈可哀そうな子供〉
●ポルポラ:《許されたセミラーミデ》より〈Passaggier che sulla sponda〉
●ペルゴレージ:《シリアのアドリアーノ》より〈だから、時々嬉しくて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈海岸近くで願い信じていたのに〉
●カファロ:《イペルメストラ》より〈私をもっと落ち着かせて〉
●サッロ:《ヴァルデモロ》より〈よく愛する心〉
●マンナ:《ルキウス・ウェルス、またの名をヴォロジェーソ》より〈お前を残して行く、愛する人よ、さようなら〉
●マンナ:《独裁者ルキウス・パピルス》より〈戦場のトランペットの音を聴き〉
→フランコ・ファジョーリ(C-T)
⇒リッカルド・ミナージ/イル・ポモ・ドーロ

そのうち、そのうち、と思いながら感想文は書けていないのだが、レオナルド・ヴィンチ Leonardo Vinci(1690-1730)のオペラ《アルタセルセ》を1年以上ずっと聴き続けている。
《アルタセルセ》はカウンターテナーが5人必要なものすごいオペラで、しかもナポリ楽派の大天才であるヴィンチが花園のようにメロディを書きまくったおかげで凄まじい作品になっているのですが、そこで重要な役を務めているのが、アルゼンチン出身の若きカウンターテナー、フランコ・ファジョーリです。

+ + +

カウンターテナーの人気者たち。デラー、コヴァルスキー、ヤーコプス、レーヌ、ヴィス、ショル、、煌びやかな先人たちが種をまいた畑がいよいよ実りの時期を迎え、ついに2010年代がカウンターテナーの百花繚乱となっていることを、たとえばレコ芸のおじいさんたちは知っているのでしょうか?知らないだろうなあ。知らないままでえーわ。
そのなかでも特に、フィリップ・ジャルスキー、マックス・エマヌエル・ツェンチッチ、そしてフランコ・ファジョーリ。この3名が抜きん出た活躍をし始め、しかも賢明に声質を住み分けて、おのがじし大輪の花を咲かせ始めています。ドラクエ3的な語彙でたとえると、ジャルスキーは妖しい魔法使いLv.65、ツェンチッチは僧侶から武闘家への転職組(+黄金の爪)、そしてファジョーリはベホマズンとギガデインを操るロトの勇者、というのが僕の見立てである。

なぜファジョーリが勇者枠なのかということだ。
このひと、C-Tの教科書のような歌唱を平気でやってしまう。曰く、滑らかな中高音をテノール歌手の豊かな声量で、というのが辞典的な記述だが、僕はこれまでヴィスやヤーコプスの歌唱からそれを感じ取ったことはなかった。でもショルあたりから格段に技術が進歩してきて、いよいよファジョーリがそれを「本当に」やってのけた。C-T2.0である。
たとえばトラック6、ペルゴレージ《シリアのアドリアーノ》のアリアを聴いてみよう。11分を超す長大なアリアだが、ペルゴレージらしく甘やかでたおやかな、言ってしまえばかなり起伏のつけにくいナンバーなんですよ。これをファジョーリはそのまま、肉厚で豊かな音楽としてそのまま顕現させてしまった。煮たり揚げたり、これまでは手の込んだ料理として味わわなければならなかった素材が、あるときから素材の味によってロマン派オペラのアリアのように楽しめるようになったというのは、革命と書いてよいのではないか?

もちろん、滋味ある素材ばかりが彼の得意技ではない。肉食系のド派手なナンバーもまさにそのままの魅力で僕たちに突きつけてくる。
トラック3、レオナルド・ヴィンチ《許されたセミラーミデ》のアリアなどは、ティンパニがどんどこ鳴り響き、ラッパが吹き荒れる強力な曲です(仮にこれがモーツァルトのオペラのなかに挿入されていたとしたら、テノール歌手たちはこぞってこのナンバーを自分のフェイヴァリットアルバムに入れるでしょう)。A-B-A'のダカーポアリアの伝統はA'に自在な装飾を要求するわけですが、そこでファジョーリが披露する装飾はある意味では装飾らしくなくて、音楽の豊饒な劇性をそのまま活かしているだけなのだなあ。
悔しいけど上手に形容できないので、YouTubeのクリップを貼ろう。Bは2分12秒、A'は2分39秒から始まる。


この自然な調理から僕が連想するのは、たとえばワーグナーがジークムントに付与したような高貴な音楽である。こうした想像をさせるC-Tは、彼が初めてなんだよね。攻守のバランスがよく、正攻法で高得点をたたき出す。それが勇者枠。
(ちなみにこのクリップ、5分11秒からとある別のC-Tが歌う同じアリアが続くが、つまらない小細工に頼って音楽を台無しにしているのがよくわかる。上で書いたようにファジョーリの勇者だとしたら、この別のC-Tは残念ながら村人Aくらいでしかない。動画うp主による残酷な比較です。)

隆盛するバロックオペラは、こと日本ではまだまだ、ロマン派オペラやロマン派リートに比べ市民権を得るまでに到っていない。でもいつの間にか僕たちは、化学調味料のような味つけに頼らない本物の演奏実践を、まずはCDで楽しむことができるようになっている。その革命を知らないままでいるのは惜しいのです。


by Sonnenfleck | 2014-07-13 09:34 | パンケーキ(18)

次の時代に新しい風を。

以前どこかで書いたかもしれないが、フランチェスコ・ドゥランテ Francesco Durante(1684-1755)の弦楽のための協奏曲ト短調の通奏低音を弾いたことがあって、それ以来、このナポリ楽派随一の感傷主義者(もうちょっと正確に言うと「甘いメロディ量産家」)にはなんとなく心惹かれるものがある。



↑弦楽のための協奏曲ト短調
*ニコラス・クレーマー/ラグラン・バロック・プレイヤーズ

このひとはアレッサンドロ・スカルラッティの高弟としてナポリ楽派の隆盛に大いに貢献した人物なのですが、彼は面白いことにオペラを作曲せず、もっぱら教会音楽に人生を捧げてるんだよね。上にリンクを載せた弦楽協奏曲は数少ない例外。

+ + +

c0060659_12204516.jpg【Arts/475222】
<ドゥランテ>
●《預言者エレミヤの哀歌》
●《ヴェスプロ・ブレーヴェ》
→ロベルタ・インヴェルニッツィ、エマヌエラ・ガッリ(S)
 ドロシー・ラブッシュ、アンネミーケ・カントル、
 ローザ・ドミンゲス(A)
 マルコ・ビーズリー(T)
 アントニオ・アベーテ、フリオ・ザナージ(Bs)
 スイス・イタリア語放送合唱団
⇒ディエゴ・ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ

したがって、劇性や旋律に対するナポリ的偏愛を一滴残らず注がれた彼の宗教作品は、ヴィヴァルディやヘンデルのそうした作品にまったく劣らない強靱な音楽として現在に伝わっている。このディスクはそのなかでも傑作と考えられている《預言者エレミヤの哀歌》と《ヴェスプロ・ブレーヴェ》を収めた一枚です。

まず《預言者エレミヤの哀歌》を聴いてびっくりするのは、そこに確かに現れている、モーツァルトのレクイエムとよく似た旋律運びなんだよね。
モーツァルトがナポリ楽派に甚大な影響を受けていることはよく知られていますが、こんなにはっきりと感知できる作品もあったんだねえ。



↑《預言者エレミヤの哀歌》序盤
*ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ
◆2:45すぎくらいから、モーツァルトの元ネタっぽさが炸裂!

指揮は最近お気に入りのディエゴ・ファソリス。
彼のことはどこかであらためてちゃんと書きたいと思いますが、音の立ち上がりと立ち消えに対する彼の鋭敏な感覚と、音符の子音的特質に関する明快な好み、そして決して作品フォルムを崩さない優雅な音楽運びなど、僕は彼に「古楽界のドホナーニ」の称号を贈りたくてたまらんのです。

+ + +

《ヴェスプロ・ブレーヴェ》はもう少し前の時代の作品に寄っているような気がする。聴取による様式判断は禁じ手ではありますが、こっちはアレッサンドロ・スカルラッティと、さらにその師匠のカリッシミを経由して、昆布だしのように利いているパレストリーナ風の安寧が聴かれて愉快である。

もちろんバッハもモーツァルトも不世出のものすごい人物だし、彼らの作品は任意の瞬間の「雑な」演奏実践にも耐えうるくらい強靱なフォルムを持っているんだけれど、よりまともな藝術性を確保するために大切なのは、彼らに流れ込んでいるそれまでの潮流を忘れないようにすることだと思うの。
by Sonnenfleck | 2013-09-07 12:28 | パンケーキ(18)

おまえが落としたのは金のコレッリですか、それとも銀のコレッリですか。

c0060659_10123075.jpg【ACCENT/ACC24281】
<Corellimania>
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-4
●モッシ:合奏協奏曲ニ短調 op.3-3
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-1
●ロカテッリ:合奏協奏曲ホ短調 op.1-4
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-7
●ヴィヴァルディ:2Vnのための協奏曲ヘ長調 RV765
●ジェミニアーニ:コレッリのVnソナタ op.5-12による合奏協奏曲ニ短調《フォリア》
⇒フロリアン・ドイター/アルモニー・ウニヴェルセル

アルカンジェロ・コレッリ(1653年2月17日 - 1713年1月8日)の生誕300年にあたる今年、コレッリの典雅な音楽をリスペクトしたアルバムがたくさん登場しているが、これはそのなかでも圧倒的に変な光を放つ一枚。浮いている。でも浮いているのは善いこと。

バッハよりもテレマンよりも、ヴィヴァルディよりもヘンデルよりも、ひと世代後の音楽家たちに与えた影響の凄まじさはコレッリのほうが上である(コレッリは「音楽の祖母」くらいには呼ばれていいと思いませんか)。そのコレッリのコンチェルト・グロッソを中心に、影響を受けた作品を据えたアルバム。コンセプトとしてはごく普通でしょう?…しかしですよ。

このディスクに収められたコレッリのop.6-1,4,7には、トランペットとトロンボーンがアンサンブルのなかでリピエーノを吹いているのです。最初の6-4を聴いたときの驚きと言ったらない。
でもこれはお遊びなのかと思ったら、さにあらず。
12曲の合奏協奏曲を仕上げたころのコレッリはピエトロ・オットボーニの楽長として大規模な宗教声楽作品を振っていたし、そもそも1689年3月19日にコレッリが彼の協奏曲をトランペットともに演奏した、という記録もあるらしい。当時のローマでは、アンサンブル補強のためにトランペットとトロンボーンが追加されることも珍しくはなかったようなんだよね(ライナーノーツではコレッリのこの3曲が祝祭性の強いニ長調であることも触れながら、この試みを説明している)

+ + +

そんなわけで初めて聴いたときには、まったくコレッリらしからぬ、きんきらきんに光り輝くテクスチュアに「ヴェネツィアかwww」って思ったのですが、演奏実践のフォルムは第一級なのです。

もったりと熱を帯びた「動的な静けさ」で聴かせるコレッリのグロッソはもちろん佳いのだけれど、独特の長~くのたくる旋律がダレやすいロカテッリのグロッソが、かなり素敵な演奏。ロカテッリには金管楽器を加えていないので、このアルモニー・ウニヴェルセルというアンサンブルの機動力がグッと表に出る。しゃっきりと瑞々しいレタスを囓るような爽やか系ロカテッリ。

MAKやルーヴル宮音楽隊のコンサートマスターだったフロリアン・ドイターが創設したこのグループは、このディスクを聴くかぎりでは「現実を忘れさせるくらいニュートラルな」面白い音楽をやる。
どうしても念頭に浮かびやすいゲーベルやミンコフスキの音楽と正反対のその方向は、百花繚乱の10年代古楽シーンではきっととても強力な武器で、僕は彼らの演奏にブーレーズのラヴェルと同様の矜恃を感じるのだ(でも通奏低音にハープやギターがいたりもするから、一筋縄ではいかない)

かくして金管楽器に彩られた72分は、自他共に認める史上最強のコレッリマニアことフランチェスコ・ジェミニアーニの「5-12」グロッソがトリを務める。ここでもニュートラルの仮面をかぶったスペインが踊り、爽やかにまた平然と幕を下ろすのであった。
by Sonnenfleck | 2013-08-11 10:15 | パンケーキ(18)

ラグジュアリーへようこそ!

学生時代、バロック音楽を演奏して楽しんでいたころは、テレマンやヘンデルからの距離の遠さが面白くて長兄フリーデマンBや次兄エマヌエルBを好んで聴いていた時期があったのだけれど、そうしたとき、末弟クリスティアンBは僕の視界に入ってこなかった。たぶんクリスティアンBを感知するにはレーダーを違う方角へ向けなければならなかったのだ。

+ + +

c0060659_749429.jpg【Glossa/GCD920607】<クリスティアン・バッハ>
●シンフォニア第3番 変ホ長調
●シンフォニア第4番 変ロ長調
●シンフォニア第5番 変ホ長調
●シンフォニア第6番 変ロ長調
●シンフォニア第1番 変ホ長調
●シンフォニア第2番 変ロ長調
⇒エリック・ヘープリチ/ナハトムジーク

過去、このブログでは何枚かのディスクを通じて「クリスティアンはプログレッシヴ・バロックだ!」とか「クリスティアンはラブコメ(ハート)」などと勝手気儘に断じてきました。
今回、エリック・ヘープリチ氏(またの名をホープリッチ、ホープリチ、ヘープリヒ)と彼のアンサンブル・ナハトムジークで聴くウィンド・シンフォニーは、また新しいクリスティアンBの魅力を伝えてくれている。それは、彼の作品の恐ろしいまでのラグジュアリーさである。

このディスクを最初に再生し始めた瞬間から、最後のトラックの時間が尽きるまで、一部の楽章を除いて人為的な音楽的展開はほとんど見込めない。時間をこのように美しく飾り、不毛に過ごすことの贅沢さよ!まったくつるんとして非の打ちどころがないヘープリチたちのアンサンブルもそれに拍車を掛ける。

ギャラントの作曲家たちが住んでいる音楽ラグジュアリーの世界では深刻さはむろんのこと、恐らく稚気や官能すらふんだんには必要ではないと僕は考えていて、だからこそ苗床になっているバロック音楽の袋小路的正統なんじゃないかと思う。
でも、バロックの宮廷からクリスティアンBたちが引き継いだ音楽ラグジュアリーの広大な荘園は、力のある分家筋であるハイドンやモーツァルトに簒奪されてしまった(メンデルスゾーンがJSBに惹かれていたのはすごく納得がいく)

クリスティアンBのギャラント様式による作品は、しかし第4番のラルゴのようにモーツァルトも真っ青な強烈な美しさを湛えている楽章を突然産み落としていたりするので気が抜けない。《グラン・パルティータ》のお手本のようでもある。
分家筋的な稚気と淫靡の音楽に足を踏み入れることができるのに、普段は必要がないかぎり均整のなかに留まり、あえて抜け出ないのもクリスティアンBの魅力。




↑第4番変ロ長調の第2楽章ラルゴ、ロンドン・ウィンド・ソロイスツで。

by Sonnenfleck | 2013-03-30 09:45 | パンケーキ(18)

ポーランドよ、永遠に野蛮なれ!

c0060659_23313847.jpg【Passacaille/972】
<Barbarian Beauty>
●テレマン:Rec+Vgambのための協奏曲イ短調
●グラウン兄:Vgambのための協奏曲ニ長調
●ヴィヴァルディ:Vn+Vcアッリングレーゼのための協奏曲イ長調
●タルティーニ:Vgambのための協奏曲イ長調

→ドロテー・オベルリンガー(Rec)
 平崎真弓(Vn)
 マルセル・コメンダント(ツィンバロン)
⇒ヴィットリオ・ギエルミ(Vgamb)/イル・スオナール・パルランテ・オーケストラ

後期バロック音楽に「ポーランド風」という薬味が存在していたことは、たぶんよく知られていると思います。それを、お豆腐と薬味を「同量で」食してみるとどうなるか、という素敵なコンセプトのアルバム。最近よく読ませていただいているブログ、mondnachtさんで紹介されていたもの。

まずは最初のトラックが、ツィンバロンによるインプロヴァイゼーション。

うおっ!と思っていると、続けざまに繰り出されるのがテレマンの有名なリコーダー+ガンバ協奏曲。たーーーくさん残されているテレマンのポーランド風作品のなかでも特に東方気分が強いこの曲で、当たり前のようにツィンバロンが遊撃的に(あるいはときに通奏低音的に!!)挿入されています。

でも、それだけなら騒ぎ立てる必要はない。
ガンバソロかつアンサンブルの組み立ても行なっているヴィットリオ・ギエルミが、作品のフォルムが破壊される寸前のところまで「野蛮な」音楽を演出しているんだよなあ。この曲でこれ以上どろどろに土臭い演奏がかつてあっただろうか?最終楽章のアレグロなんかツィンバロンによって全面的に修飾されつつ、どったどた、どたっ、ばったり!どた!という重たくて快活な舞踏が展開されている。

いいですか。たとえば90年代のイル・ジャルディーノ・アルモニコの名録音に聴くメソッドは、あくまでもアントニーニの西欧的なセンスの延長線上にあったと思うんだけれど、ギエルミがここでイル・スオナール・パルランテに命じているのは、縦ノリが最重要視される東欧の動的センス。
イルジャルをマニエリスムの最高級袋小路と表現していいなら、イルスオナールは、もしかしてこいつが真性のバロックじゃねえのかい?ポルトガルの真珠が、ポーランド方面の田園から協賛されるという面白み。

+ + +

テレマンに比べるとグラウン兄(ヨハン・ゴットリープ)はインテリっぽいよね。フリードリヒの宮廷を経由してヴェネツィアへ遠くこだましたツィンバロンの響きは、最後にパドヴァから空中に消えてなくなる。

ギエルミのガンバ、以前から巧いなあと感じていたけれど、熱心に彼のソロを聴くのは初めてかもしれない。ライナーの最後に、兄ロレンツォと一緒にやるバッハのガンバ・ソナタ集とフォルクレ集が告知されてて熱いですね。
by Sonnenfleck | 2013-02-28 23:35 | パンケーキ(18)

室内の聖なるメガネのために

c0060659_551209.jpg【DECCA/4669642】
<ヴィヴァルディ>
●ニシ・ドミヌス RV608
●弦楽のための協奏曲へ長調 RV141
●モテット「明るい星々よ、煌きたまえ」RV625
●弦楽のための協奏曲ハ長調 RV109
●モテット「あなた方の聖なる君主のために」RV633
●サルヴェ・レジナ RV616
⇒アンドレアス・ショル(C-T)
→ポール・ダイアー/オーストラリア・ブランデンブルク管弦楽団

たまにこう、むらむらっとヴィヴァルディが聴きたくなるじゃないですか。今やわれわれにはたくさんの選択肢があるけれど、今日はショルの美声に耳を傾けよう。

+ + +

ヴィヴァルディのこまごましたソロ用モテットを集積したこのディスク、iPodに入れて外で聴いているときには全然いいと思わなかったんだよねえ。線が細くて。

しかしたとえば休日の夜に灯りを落として聴いていると、歌い手とオーケストラが静かに堅く結合して、まるで蝋燭の火に照らされる宋代青磁のように透き通った碧を示していたのがわかる。ダメだねえ外でばっかり聴いてると。外は濃口がよく映えるものだから、薄口の旨みがわからなくなってしまう。

ショルはたとえばヘンデルのアリアで彼が聴かせるものより、もう少し観念的な作り込みを心がけているようである。それは人間の声のえぐみや臭みを蒸留して、つるりとした無生物的嫋やかさを保つような歌い方。ヴィヴァルディの明るい旋律線と化学反応を起こしていて面白い。

また、オーストラリア・ブランデンブルク管の品格のあるアンサンブルが「宋代青磁」の出現に深く寄与していることも書き落とせない。
この古楽オケの名前から漂ってくる辺境感は凄まじいが、それに反して音楽の作り方は洗練の極みといえる(昔NHK-FMでライヴを聴いたことがあるような気がしているものの、詳細は思い出せぬ)。通奏低音なんか硬く薄く引き伸ばされていて、この系統のヴィヴァルディは流行のものと違う。BCJのヘンデルといい、メインストリームからの距離は独自の進化を生み出すのか?
by Sonnenfleck | 2012-09-26 05:53 | パンケーキ(18)

ヘンゲルブロック来日と離日に寄せる自己憐憫

たった三晩の公演を残して瞬く間に離日したヘンゲルブロック/NDR交響楽団のコンビ。聴衆からあがる賞賛の声を尻目に、僕は自室に籠り、PCの白い光に跳ね返す一枚のディスクを見ている。

+ + +

c0060659_10253212.jpg【DHM】
●ヴィヴァルディ:歌劇《オリンピアーデ》序曲
●バッハ:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV1069
●ヴィヴァルディ:弦楽のための協奏曲イ長調 RV158
●バッハ:カンタータ第42番《されど同じ安息日の夕べに》BWV42~シンフォニア
●ヴィヴァルディ:4Vnのための協奏曲ロ短調 Op.3-10
●バッハ:3Vnのための協奏曲ニ長調 BWV1064
⇒トーマス・ヘンゲルブロック/フライブルク・バロック・オーケストラ

僕にとってのヘンゲルブロックは、極めて優れた古楽指揮者である。彼がモダンのフルオケを振っているなどとはいまだに信じられない。数は多くないながら、フライブルク・バロック・オーケストラを振っての録音は圧倒的に素晴らしい。
(蛇足ながら付け加えるが、今年1月のFBO来日公演@三鷹の感想文を書いていないのにはちゃんと理由がある。僕がFBOの個性だと思いこんでいた強固なフォルム感と沸き立つリズムは、どうやらヘンゲルブロックやヤーコプスの個性に依拠する部分が大きいようであった。確かにアンサンブルや舞曲の拍感はたしかに佳かったけれど、「フランス風」という魔物が召喚できるような大きな魔方陣が描いてあったかという点に関しては、強い疑念が残った。)

+ + +

フランス風・イタリア風という二大様式に対するヘンゲルブロックの異様に鋭い嗅覚、そして彼が現在のキャリアに至った理由がわかるのが、このディスクである。

《オリンピアーデ》序曲から管組4番への顕な落差は、偽ヴェルサイユの偽性を否応なく高め、こちらの心を躍らせる。
舞曲ひとつひとつが、その煌めく何層かのコーティングでもって偽性を自己拡張しながら、あり得べからざる幻時間を形成している。のみならず、ひとつながりの人造真珠のような重みにも事欠かない(これこそがゴルツのまだ会得してない魔法と思われる)。バッハがなぜああいう様式で音楽をつくったかは、いたずらに各舞曲のエッジを立てても見えてこないのではないだろうか。

さて、ヘンゲルブロックを彼たらしめている要素が、バッハの《されど同じ安息日の夕べに》のシンフォニアと、ヴィヴァルディの3-10にさらによく現れている。

それはとりもなおさず、がっちりと肩幅の広い通奏低音で、音を三角形に組み上げる流儀なんですね。ヴィヴァルディの3-10などは僕も遊びで演奏してみたことがある曲だけど、あのヴィヴァルディらしいクリスプな通奏低音を、ここまで鋼のような土台に仕立て上げるのは至難のわざである。

+ + +

ヘンゲルブロックがつくるこうした三角形フォルムは、昨今流行の流線型をしたラテン系アンサンブルと明らかに一線を画しており、そして残念ながら、このセンスはベートーヴェンやブラームスへまっすぐ伸びてゆく。ヘンゲルブロックがNDR交響楽団というオーケストラに招かれたのは必然なんである。

バロクーはこの集いから泣きながら立ち去ることにしよう。でもたまにはバッハとかテレマンとか…やって…ね…
by Sonnenfleck | 2012-07-28 10:26 | パンケーキ(18)

男だらけで、遠く離れて、密かに隠れて。

c0060659_2124918.jpg【Virgin/5099907094323】
●ボノンチーニ:Pietoso nume arcier
●マンチーニ:Quanto mai saria piu bello
●コンティ:Quando veggo un'usignolo
●ボノンチーニ:Chi d'Amor tra le catene
●同:Bella si, ma crudel
●ポルポラ:Ecco che il primo fonte
●B. マルチェッロ:Chiaro e limpido fonte
●同:Veggio Fille
●A. スカルラッティ:Nel cor del cor mio

→フィリップ・ジャルスキー(C-T)+マックス・エマニュエル・チェンチッチ(C-T)
⇒ウィリアム・クリスティ(Cem,Org)/レザールフロリサン
 ~ヒロ・クロサキ(Vn)、カトリーヌ・ジラール(Vn)
  ジョナサン・コーエン(Vc)、エリザベス・ケニー(Tb,Lt)

近年出色の、エロバロデュオアルバム。禁色すなあ。
当代の人気カウンターテナー2人が組んずほぐれつ、差配はクリスティ以外の誰が務めよう。間違ってもピノックやルセじゃ義しすぎる。

品物を渋谷塔で見かけ、むんむんと漂うあちら側の雰囲気を感じて思わず衝動買いするも、オペラのデュオ曲集かというのは勘違いであった。

ここに収められているのは、1680年代から1720年代にかけて流行した「室内カンタータ」の系譜に属する作品たち。主として貴族の館の狭い室内で展開された、洗練され様式化された愛の歌である。華美というバロックの一大要素から正反対に舵を切り、隠微な美しさをこそ求める音楽。。

+ + +

どれもこれも官能の極致なのだが、就中、筆舌に尽くしがたいというか、その淫靡さに身悶えせざるを得ないのが、ベネデット・マルチェッロのカンタータ《ティルシとフィレーノ》からの重唱〈Veggio Fille〉である。

これ、歌詞を見るかぎりでは、ティルシ♂(ジャルスキー)がフィレ♀を想って、そしてフィレーノ♂(チェンチッチ)がクローリ♀を想って、それぞれ「じっと見れるけど口がきけねえ/口はきけるがじっと見れねえ」と男子中二病的な悩みを炸裂させてるようなんだけどさ(下図参照)。

 ティルシ♂ → フィレ♀(不在)
 フィレーノ♂ → クローリ♀(不在)

若干自信がないのは、フィレ♀=フィレーノ♂の愛称形ではないか、という点なのです。そうするとこのテクストは、

 クローリ♀(不在)
 ↑
 フィレーノ♂ ← ティルシ♂

という妖しいBL世界に変容してしまいます。
なんたって2人の歌の熱っぽい柔らかさと、クリスティのかそけきオルガンの音が、この誤解のままでもいいじゃない―?と僕を誘いに来るのです。この誘いに乗ってはいけない気がします。気がするけれど、それにしても美しい…。

あ、このアルバムにはポルポラや親父スカルラッティのかっこいいナンバーもいちおう入ってますんで。いちおうね。。
by Sonnenfleck | 2012-03-08 21:07 | パンケーキ(18)

踊らん哉(デジタルリマスター・エディション)

c0060659_1374848.jpg【ALIAVOX/AVSA9882AB】
<L'orchestre De Louis XV|ラモー>
●《優雅なインドの国々》
●《ナイス》
●《ゾロアストル》
●《ボレアド》
⇒ジョルディ・サヴァール/
 ル・コンセール・デ・ナシオン

近来のラモーのなかでは最強のヒット。これを聴いてラモーを好きにならない人がいるとは思えない。僕がまず初めに薦めたい「はじめてラモー」が更新された。

前々から、ラヴェルに真っ直ぐつながるようなラモー演奏がないもんかなあ、と思ってたんだよね。作り物っぽくて、感傷が分かちがたく混入していて、それでいて退屈しのぎに羽虫を引き裂くような無邪気さに溢れている演奏はないかと。(※オネゲルにつながるラモーとしてのブリュッヘンの演奏はいっぽう、その真摯さと性質の猛々しさから、いまだに物凄い価値を持ち続けているんだけども。)

+ + +

一般的に快楽派ラモーといえばミンコフスキだけど、アタックの強さや太鼓ばんばんに立脚しているようなところもあり、サヴァールの、時に緩慢で、堕落的で、音楽が停止しているような局面もある、本当のエロティシズム演奏の前ではすでに物足りなくなってしまったと言ってよいだろう(ここで演奏されている《ボレアド》のアントレなど甘美の極致である)。
要は、「快楽的演奏」の快楽的本質は、ゆったりしたナンバーや爽やかなナンバーがどれくらい耽美であるかで計ることができるんじゃないかと思うんだよね。このディスクの《ナイス》の序曲なんて、序曲のくせに目がとろーんとしてるからねえ。いったいこれから何が始まるのだろうか(笑)

むろんこれは酩酊が売りの演奏ではない。引き締めるところはバッハのコンチェルトのようにトゥッティをきりりと引き締めて、伊達である。

《優雅なインド》のシャコンヌなどまずはたいへん素敵だ。いつまでも終わらないでほしいと願うシャコンヌ萌え・パッサカリア萌えのツボをよく知っている。また、もともとダイナミックで格好いいナンバーの多い《ゾロアストル》は、儀礼用甲冑のようなブリリアントささえ感じさせるわけです。

しかし、そんな《ゾロアストル》でも、第1コンセールの第2楽章〈リヴリ〉と共通の旋律を持つところのガヴォットとロンドーでは、儀礼用甲冑をさらりと脱ぎ捨ててコンセールのあの親密な雰囲気を想起させつつ、うっとりさせるような躯を投げ出している。まことにエロいというほかない。

+ + +

そもそもラモーの場合は、ラモー自身が無節操で快楽的な音楽を書いているものだから、サヴァールのこのやり口はリュリ以上に完璧にフィットしちゃう。ゆえにこの伝説的完成度。ちなみにコンチェルティーノを務めるのはマンフレート・クレーマーとエンリコ・オノフリ、リッカルド・ミナシ…。聴き逃す手はないのです。
by Sonnenfleck | 2011-12-29 01:51 | パンケーキ(18)

フランソワ×バンジャマン。

c0060659_2113932.jpg【Flora/FLORA1909】
●バッハ:VnとCemのためのソナタ BWV1014~19
●同:VnとB.C.のためのソナタ ト長調 BWV1021 *
⇒フランソワ・フェルナンデス(Vn)
 バンジャマン・アラール(Cem)
 フィリップ・ピエルロ(Basse de viole *)



注目のチェンバリスト、バンジャマン君が、重鎮フランソワ・フェルナンデスと一緒に演奏するバッハのソナタです。
このチェンバリストの只ならぬ風格については、彼が同行した、今年のラ・プティット・バンド来日公演を聴かれた皆さんのレヴューに詳しい。通奏低音奏者としてきわめてクレバーな補助と支配を行なういっぽうで、同時代的なグルーヴ感のある華やかなソロを聴かせていたこのひとが、バッハではどんなふうなのか?

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…ということを気にしながら聴き始めたのだが、僕はまず、フランソワ・フェルナンデスのヴァイオリンにすっかり心を奪われてしまった。

「シギスヴァルトの懐刀」としての実力はなんとなく感じつつも、彼ひとりの音楽を注意して聴く機会はこれまでに一度もなかったんだが、僕がとりわけ好きな第2番イ長調1015でのほんわか風情には本当に恐れ入った!
おおらかに雲が浮かぶ5月の青空のような第1楽章から、ヒバリがひゅーっと軽く飛ぶような第2楽章。地を這うイモムシのようでありながら線を太く保つことで深刻に陥らない第3楽章を伝って(草むらからも見上げれば青空がある)、いよいよこの世の快活を一手に引き受ける第4楽章のまぶしさよ。またヒバリが遠くで鳴いている。

第1番ロ短調1014の第2楽章での、自信に満ちて重い足取り(Allegro ma non troppo…)、また第3番ホ長調1016の第1楽章では、調性感をきわめて巧みに捉えてブロンズの風格を漂わせる。フェルナンデスがここまで雄弁に語るヴァイオリニストなのだということ、僕は知らなかった。

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翻ってチェンバロはどうなのか。もう一度、第1番の第2楽章を聴いてみよう。
通奏低音のいないこのソナタ集でも、半分以上の楽章は3声部で書かれているから、実質的にはチェンバロの左手が通奏低音化して支えになり、立体的な音場が形成されることになる。
アラールの左手のタイミングを聴き、「低音擦弦楽器への擬態」が完璧に処理されているような気がして、自分はたいへん驚愕しました。左手をほんの少しだけ右手の発音から遅らせることで、音量の核が遅れてくるような効果を、つまり、低音擦弦楽器のメッサ・ディ・ヴォーチェを表現してるんじゃないかと思うのだ。

もちろん、チェンバロが普通の伴奏に回る楽章では(第4番ハ短調1017の第3楽章とかね)、堅牢さと柔軟な伸縮を両立した「枠組み」の維持に余念がない。アラールのこの面はラ・プティットでよく現れていた。正確な仕事人でもある。

バンジャマン君、2009年録音のこのとき、23歳でしょう?
by Sonnenfleck | 2011-11-10 21:02 | パンケーキ(18)