【Virgin/5099907094323】●ボノンチーニ:Pietoso nume arcier ●マンチーニ:Quanto mai saria piu bello ●コンティ:Quando veggo un'usignolo ●ボノンチーニ:Chi d'Amor tra le catene ●同:Bella si, ma crudel ●ポルポラ:Ecco che il primo fonte ●B. マルチェッロ:Chiaro e limpido fonte ●同:Veggio Fille ●A. スカルラッティ:Nel cor del cor mio →フィリップ・ジャルスキー(C-T)+マックス・エマニュエル・チェンチッチ(C-T) ⇒ウィリアム・クリスティ(Cem,Org)/レザールフロリサン ~ヒロ・クロサキ(Vn)、カトリーヌ・ジラール(Vn) ジョナサン・コーエン(Vc)、エリザベス・ケニー(Tb,Lt) 近年出色の、エロバロデュオアルバム。禁色すなあ。 当代の人気カウンターテナー2人が組んずほぐれつ、差配はクリスティ以外の誰が務めよう。間違ってもピノックやルセじゃ義しすぎる。 品物を渋谷塔で見かけ、むんむんと漂うあちら側の雰囲気を感じて思わず衝動買いするも、オペラのデュオ曲集かというのは勘違いであった。 ここに収められているのは、1680年代から1720年代にかけて流行した「室内カンタータ」の系譜に属する作品たち。主として貴族の館の狭い室内で展開された、洗練され様式化された愛の歌である。華美というバロックの一大要素から正反対に舵を切り、隠微な美しさをこそ求める音楽。。 + + + どれもこれも官能の極致なのだが、就中、筆舌に尽くしがたいというか、その淫靡さに身悶えせざるを得ないのが、ベネデット・マルチェッロのカンタータ《ティルシとフィレーノ》からの重唱〈Veggio Fille〉である。 これ、歌詞を見るかぎりでは、ティルシ♂(ジャルスキー)がフィレ♀を想って、そしてフィレーノ♂(チェンチッチ)がクローリ♀を想って、それぞれ「じっと見れるけど口がきけねえ/口はきけるがじっと見れねえ」と男子中二病的な悩みを炸裂させてるようなんだけどさ(下図参照)。 ティルシ♂ → フィレ♀(不在) フィレーノ♂ → クローリ♀(不在) 若干自信がないのは、フィレ♀=フィレーノ♂の愛称形ではないか、という点なのです。そうするとこのテクストは、 クローリ♀(不在) ↑ フィレーノ♂ ← ティルシ♂ という妖しいBL世界に変容してしまいます。 なんたって2人の歌の熱っぽい柔らかさと、クリスティのかそけきオルガンの音が、この誤解のままでもいいじゃない―?と僕を誘いに来るのです。この誘いに乗ってはいけない気がします。気がするけれど、それにしても美しい…。 あ、このアルバムにはポルポラや親父スカルラッティのかっこいいナンバーもいちおう入ってますんで。いちおうね。。 【ALIAVOX/AVSA9882AB】<L'orchestre De Louis XV|ラモー> ●《優雅なインドの国々》 ●《ナイス》 ●《ゾロアストル》 ●《ボレアド》 ⇒ジョルディ・サヴァール/ ル・コンセール・デ・ナシオン 近来のラモーのなかでは最強のヒット。これを聴いてラモーを好きにならない人がいるとは思えない。僕がまず初めに薦めたい「はじめてラモー」が更新された。 前々から、ラヴェルに真っ直ぐつながるようなラモー演奏がないもんかなあ、と思ってたんだよね。作り物っぽくて、感傷が分かちがたく混入していて、それでいて退屈しのぎに羽虫を引き裂くような無邪気さに溢れている演奏はないかと。(※オネゲルにつながるラモーとしてのブリュッヘンの演奏はいっぽう、その真摯さと性質の猛々しさから、いまだに物凄い価値を持ち続けているんだけども。) + + + 一般的に快楽派ラモーといえばミンコフスキだけど、アタックの強さや太鼓ばんばんに立脚しているようなところもあり、サヴァールの、時に緩慢で、堕落的で、音楽が停止しているような局面もある、本当のエロティシズム演奏の前ではすでに物足りなくなってしまったと言ってよいだろう(ここで演奏されている《ボレアド》のアントレなど甘美の極致である)。 要は、「快楽的演奏」の快楽的本質は、ゆったりしたナンバーや爽やかなナンバーがどれくらい耽美であるかで計ることができるんじゃないかと思うんだよね。このディスクの《ナイス》の序曲なんて、序曲のくせに目がとろーんとしてるからねえ。いったいこれから何が始まるのだろうか(笑) むろんこれは酩酊が売りの演奏ではない。引き締めるところはバッハのコンチェルトのようにトゥッティをきりりと引き締めて、伊達である。 《優雅なインド》のシャコンヌなどまずはたいへん素敵だ。いつまでも終わらないでほしいと願うシャコンヌ萌え・パッサカリア萌えのツボをよく知っている。また、もともとダイナミックで格好いいナンバーの多い《ゾロアストル》は、儀礼用甲冑のようなブリリアントささえ感じさせるわけです。 しかし、そんな《ゾロアストル》でも、第1コンセールの第2楽章〈リヴリ〉と共通の旋律を持つところのガヴォットとロンドーでは、儀礼用甲冑をさらりと脱ぎ捨ててコンセールのあの親密な雰囲気を想起させつつ、うっとりさせるような躯を投げ出している。まことにエロいというほかない。 + + + そもそもラモーの場合は、ラモー自身が無節操で快楽的な音楽を書いているものだから、サヴァールのこのやり口はリュリ以上に完璧にフィットしちゃう。ゆえにこの伝説的完成度。ちなみにコンチェルティーノを務めるのはマンフレート・クレーマーとエンリコ・オノフリ、リッカルド・ミナシ…。聴き逃す手はないのです。 【Flora/FLORA1909】●バッハ:VnとCemのためのソナタ BWV1014~19 ●同:VnとB.C.のためのソナタ ト長調 BWV1021 * ⇒フランソワ・フェルナンデス(Vn) バンジャマン・アラール(Cem) フィリップ・ピエルロ(Basse de viole *) 注目のチェンバリスト、バンジャマン君が、重鎮フランソワ・フェルナンデスと一緒に演奏するバッハのソナタです。 このチェンバリストの只ならぬ風格については、彼が同行した、今年のラ・プティット・バンド来日公演を聴かれた皆さんのレヴューに詳しい。通奏低音奏者としてきわめてクレバーな補助と支配を行なういっぽうで、同時代的なグルーヴ感のある華やかなソロを聴かせていたこのひとが、バッハではどんなふうなのか? + + + …ということを気にしながら聴き始めたのだが、僕はまず、フランソワ・フェルナンデスのヴァイオリンにすっかり心を奪われてしまった。 「シギスヴァルトの懐刀」としての実力はなんとなく感じつつも、彼ひとりの音楽を注意して聴く機会はこれまでに一度もなかったんだが、僕がとりわけ好きな第2番イ長調1015でのほんわか風情には本当に恐れ入った! おおらかに雲が浮かぶ5月の青空のような第1楽章から、ヒバリがひゅーっと軽く飛ぶような第2楽章。地を這うイモムシのようでありながら線を太く保つことで深刻に陥らない第3楽章を伝って(草むらからも見上げれば青空がある)、いよいよこの世の快活を一手に引き受ける第4楽章のまぶしさよ。またヒバリが遠くで鳴いている。 第1番ロ短調1014の第2楽章での、自信に満ちて重い足取り(Allegro ma non troppo…)、また第3番ホ長調1016の第1楽章では、調性感をきわめて巧みに捉えてブロンズの風格を漂わせる。フェルナンデスがここまで雄弁に語るヴァイオリニストなのだということ、僕は知らなかった。 + + + 翻ってチェンバロはどうなのか。もう一度、第1番の第2楽章を聴いてみよう。 通奏低音のいないこのソナタ集でも、半分以上の楽章は3声部で書かれているから、実質的にはチェンバロの左手が通奏低音化して支えになり、立体的な音場が形成されることになる。 アラールの左手のタイミングを聴き、「低音擦弦楽器への擬態」が完璧に処理されているような気がして、自分はたいへん驚愕しました。左手をほんの少しだけ右手の発音から遅らせることで、音量の核が遅れてくるような効果を、つまり、低音擦弦楽器のメッサ・ディ・ヴォーチェを表現してるんじゃないかと思うのだ。 もちろん、チェンバロが普通の伴奏に回る楽章では(第4番ハ短調1017の第3楽章とかね)、堅牢さと柔軟な伸縮を両立した「枠組み」の維持に余念がない。アラールのこの面はラ・プティットでよく現れていた。正確な仕事人でもある。 バンジャマン君、2009年録音のこのとき、23歳でしょう? 【passacaille/961】<ヨハン・クリスティアン・バッハ> ●ソナタ ハ短調 op.17-2 ●ソナタ ト長調 op.5-3 ●ソナタ 変ロ長調 op.17-6 ●ソナタ ニ長調 op.5-2 ●ソナタ ホ長調 op.5-5 ⇒ニコラウ・デ・フィゲイレド(Cem) やっぱクリスティアン・バッハって佳い…というアルバム。かつ、ニコラウ・デ・フィゲイレドの代表作となるべき録音と思われる。 op.5-3 ト長調の、聴いてるこっちが痒くて恥ずかしくて身悶えするようなギャラントぶり。これは、上質なラブコメにニヤニヤしているときの気持ち、そして、読後に必ず感ずる幸福な空しさによく似てら。今日から僕はクリスティアン・バッハ≒ラブコメと認識することにする。なお、ここから中二病をこじらせるとブラームスの緩徐楽章になります。 op.17-6 変ロ長調などは様式が下っているせいか、モーツァルトの雰囲気かなりに接近しているけれど、モーツァルトのように展開部で深淵を覗くこともなければ、かと言ってハイドンほど健康的でもない。 でも、現世利益の何が悪い。俗気と色気の漂うフィゲイレドのタッチで聴くのに、これほど合う音楽もないだろう。第2楽章など、上品な香水が体温で温められて匂い立ってくるかのごとき現実的エロスである。 そんな曲どもを、ひたすら伊達に弾きまくるフィゲイレド。軽いタッチと絶妙の弾力、罪のない揺らめきが得意なフィゲイレドには、息子スカルラッティよりも親父バッハよりも(もちろんそれらも素敵なんだが)、この浮薄なキャラクタがよぅく似合っている。すべてのチェンバリストがアンタイやセンペだったら、この世は息苦しかろうよ。 そして、ここでフィゲイレドが弾いている1749年グジョンモデル(エミール・ジョバン製)のフレンチがかなり華奢な音のする楽器であり、この軽~い雰囲気づくりにまったく一役買っていることも、忘れちゃならない。
南風が吹き込む嵐の土曜日。一転、今朝はことごとく晴れている。こういう天気、これくらいの気温の午前は、ワラビやササダケが木洩れ日を受けて土から顔を出す。アザミやサシはすでに食べごろを過ぎ、ミズの旬まではもう少し待たねばならない。
+ + + 【ZIG ZAG TERRITOIRES/ZZT100301.2】●バッハ:《ヨハネ受難曲》BWV245 →ジュリアン・プレガルディエン(T、エヴァンゲリスト) ブノワ・アルノー(Br、イエス) ドミニク・ヴェルナー(Br、ペテロ/ピラト) タニア・アスペルマイアー(S) サロメ・アレ(S) ジュリアン・フライムス(C-T) パスカル・ベルタン(C-T)、他 ⇒ブノワ・アレ/ラ・シャペル・レーナン 最近更新を再開された古楽ブログ「Le Concert de la Loge Olympique」さんで少し前に激賞されていたアルバム。冒頭合唱のサンプルクリップを聴いて、居ても立ってもいられず購入してしまった。 ヘレヴェッヘやヘンゲルブロック、ユングヘーネルの指揮で歌っていたテノール、ブノワ・アレが2001年に結成したアンサンブルが、ラ・シャペル・レーナン(レナーヌ?)です。1stVn3人、2ndVn2人、Va1人、Vc1人にCb1人の極薄編成、合唱はソリストが交代で務め、響きは獰猛、足回りはすばしこい。非常に苛烈な通奏低音に引っ張られて(コントラバスのおねえさんが物凄い音を表出なさる)、演奏は全面的に、肉の痛みや血や残忍さを感じさせる。 こう書くと、いかにも兇暴な演奏のようでしょう。 ところが、この演奏が好いのは、岩石砂漠のように荒涼とした風景の要所要所で、甘美な不安さが靄のようにゆら…と立ちのぼっているところなんだよね。 + 声のもたらすものの、なんと甘美であることか。 第11曲のコラールで、ロマンティックと言ってもいいくらい和音が強調されているのを聴いて涙してしまう。彼らは、電撃的なアタックと同じくらい、惑いや落ち込みを含んだもやもやを上手に表現する人たちでもある(たとえば第2幕冒頭の「ユダヤ人たち」の造形の穢らわしさと、コラールの甘みが高度に並立している点など、素晴らしい)。 ときにヘンデルのような劇性を託されがちなヨハネ受難曲の「狂熱」の中に、ちゃんと弱くて柔らかい心根があることを知り、それを丁寧に増幅して伝えてくれるこのアンサンブルの演奏に、心を動かされないはずがあるだろうか。 この録音でもっとも注目されるであろう、プレガルディエン家の息子さん・ジュリアン君は、実年齢(1984年生まれ)からくる声の張りと柔軟さが武器になることを十分に知って、戦略的にエヴァンゲリストを歌う。もちろん過度に絶望したり、逆に奇妙な自信が鼻についたりすることはなくて、近所のにいさんと安い飲み屋に入って話し込むような等身大の振幅であるのが、快い。 熟達の歌手のみが到達する荘重なエヴァンゲリストもあれば、若い歌手だけが知っているエヴァンゲリストのツボも当然あると思うのだ。ペテロの否認のクライマックスで2度繰り返して歌われる "weinete bitterlich" に、どうしようもなく心の中に拡散していく不安がべっとりと(でも他者を傷つけないように控えめに)練り込まれているのを聴いて、僕などはわけもなくシンパシーを感じてしまう。全編を編み上げる福音史家の飾らない若々しさに、惹かれているのかもしれない。 + ピラトの審問のシーンは、ヴェルナーのピラトがヤな奴ぶりを発揮し(このシーンになるといつも「Мастер」のことを思いだし、ピラトには同情的になっちゃうのだが)、アルノーのイエスが「どうでもええわ」といった涼しい風を吹かせ、ジュリアン君のエヴァンゲリストが鞭打ちメリスマを完璧に決めて、物凄い緊張感。相変わらず通奏低音は、薄くてよく切れる刃物のようにぎらりと光っている。 バスのアリア《急げ、悩める魂よ》の圧倒的な疾走感(ベートーヴェンみたい)、「服もらうのくじ引きで決めよーぜ」で表現主義的にクローズアップされたチェロの音型、「成し遂げられた」のあとのアルトのアリアがとことん感傷的に造形されているところ、現実味を感じる地震の描写などなど、ディテールの細やかさは比類がない。 しかし逆に言えば、いくつものディテールの強力な推進力で全体を回しているような様子もあり、そこに袋小路を聴きとる方もおられるかもしれない。 散漫な感想文になっちゃったけど、ともあれ、最終合唱とコラールの真摯さはこの演奏でももちろん特筆すべきで、ここに至って不安から浪漫性に昇華した歌が美しい。オーケストラも戦闘的な衣を脱いで、硬派なランドスケープを描いている。 なお、最後のトラックは、余韻を楽しみましょう。
このまえ、ダントーネ/アカデミア・ビザンティナの演奏で、コレッリのop.6-2と6-4を聴いたんです。NHK-FMで。2010年、ドイツのハレでのライヴでした。
気持ちが悪かった。 趣味の悪い夜の蛾のような音楽。 あれほど無残に、品のない装飾をたくさんぶら下げて。白木でできた拍の枠はぼろぼろに蹴破られ、引き攣ったコンチェルティーノのご機嫌を伺うリピエーノ。かつてビオンディもかなり自由に振舞っていたけれども、少なくとも、彼らは音楽の自然な流れを堰き止めることはしていない。コレッリの成立要件が、たとえばヴィヴァルディとはずいぶん違うということがよくわかる結果だった。 僕は、コレッリのop.6に新しい像を示すのはたぶんダントーネだと思っていた。op.6の12曲を心のふるさととする人間として、それなり以上の期待をしていた。 ともかくも新しいコレッリだった。それをコレッリと認識することができれば。 + + + 【PHILIPS/UCCP3050-1】●コレッリ:合奏協奏曲集 op.6 ⇒イ・ムジチ合奏団 フェデリコ・アゴスティーニ(Vn) クラウディオ・ブッカレッラ(Vn) フランチェスコ・ストラーノ(Vc) マリア・テレサ・ガラッティ(Cem) ペーター・ソロモン(Og) イ・ムジチの録音をずいぶん久々に聴いてみて、もしかしたら、自分の理想像が限りなくこれに近いのではないか、という(ある種の)恐怖に襲われている。 コンチェルティーノの装飾はほぼまったく存在しない(なんということでしょう!)。通奏低音のリアライゼーションは後ろのほうのダ・カメラになるとほんの少し浮き上がるけど、そんなもんです。もちろん弦楽器はバリバリのモダン奏法で、当たり前だけどピッチは高いし、合奏人数が多くて響きも肉厚。ところが、たっぷりと汁気を含んだがんもどきにかぶりつくようなこの幸福感はなんだろう。 彼らの足回りは決して鈍くない。1991年に、モダン楽器であえて全曲録音している意味は確かにあるっていうことだよな。 ここでは秘密も何もなくて、拍をそのまま丁寧になぞっているだけだと思うんだけど、この作品集はもうそれでよく、特に味つけは必要ないといえよう、とか言っちゃいたくなる完成度の高さ。 + + + 僕はだいたい、新しいもの、面白いものが好きで、派手にお化粧するスタイルに拒否を感じたことはこれまでになかったのですが、このたびのダントーネ一派のコレッリは、ちょっとそれ違うだろ、と思うのです。声楽に由来するタイプの伸縮、それにともなうスリルの追及は、コレッリには全然合わないんだよ。コレッリがオペラを遺していないというのは、僕らが思っている以上に重い事実なんじゃないかな。 さて、今日もアンサンブル415を聴くしかないんだろか。 【SEON(SONY)/SB2K 62942】<オトテール> ●Flのための作品集 op.2~ Recと通奏低音のための組曲 変ロ長調 ●トリオ・ソナタ集 op.3~ 2つのRecと通奏低音のためのトリオ・ソナタ ニ短調 ほか、オトテール尽くし →フランス・ブリュッヘン(Rec)、ヴァルター・ファン・ハウヴェ(Rec) ヴィーラント・クイケン(Gamb)、バルトルド・クイケン(Ft) グスタフ・レオンハルト(Cemb)ほか LvBを継続的に集中して聴くのって、ほんとにほんとにほーんとに疲れる。 特に、何か新しいものを常に探しながら聴くのは。 今日はブリュッヘンのオトテールを聴くのだ。 + + + ジャック・オトテール(1674–1763)の音楽を、フランスバロックにおいてはラモーの次に愛好する私なれば、この古典的名盤は擦り切れるほどに聴いていなければならぬが、手に入れたのはわりと最近です。 ここでふえを吹いているおっさんと、この間まで錦糸町にいたヨボヨボの爺さまと、イメージはつながるだろうか。僕はいまだにつながらない。指揮者のほうをよくよく調べたら、フランヌ・ブリュッヘンとかいう別人だったんじゃないか。 このアルバムでブリュッヘンはリコーダーとフラウト・トラヴェルソを吹いてます。 イメージは攪乱されているけれども、しかし、指揮における変な彫りの深さ、あるいは空虚感好きにつながる音楽性は、ここでもどことなく共通していて、あえて一生懸命探すまでもないんだな。 変ロ長調の組曲のサラバンド、ロンドなどゆったり系舞曲に耳を傾けると、彼の好みは今でも大して変わってないような気がしてくる。すうっと空気の薄まるこういう瞬間、田園にもあったぜ。 ニ短調のトリオ・ソナタ、めっちゃくちゃカッコイイです。 ブリュッヘンとハウヴェは気ままに縺れ合ってひらひらと飛んでいるし、ヴィーラントの抉るようなアーティキュレーションには惚れ惚れとするし、第3楽章などいつものようにさりげないレオンハルトの推進力も素敵。第1楽章のアインザッツの断乎たる趣きは、キリッとして苦みもある柑橘系のシャーベットを口にするようだ。オトテールって大体においてはカスタードクリームっぽいのだが、これもアリ。 ただし、ブリュッヘンの通奏低音のセンスがこうしたレオンハルト的なものとずいぶん異なる、というのは、このまえのロ短を思い出してみても明らかなのね。上の例を持ち出すなら、ブリュッヘンはどう考えてもカスタードクリーム派なのである。 いっぽう、ホ短調の組曲は調性も手伝って、特に切れ味鋭くて呻る。 ハードボイルド・ジーグ。 + + + ヒュッと強く吹けば強靭な音になるし、ロングトーンだと息の濃度は下がる。結局今でも、息に紐づいたシンプルな音楽をやってるだけなのかも。
ご存知のように、クラヴィコードは17~18世紀に流行し、チェンバロと同じように急速に廃れた鍵盤楽器だが、チェンバロとは異なる機構を持っていて、あちらが弦をはじいて音を出すように、こちらは弦を叩いて音を出す。ピアノフォルテと同様のシステムながら、しかしその音量はごくごく控えめ且つたおやかで、理想的な可聴範囲はせいぜい四畳半ひと間といったところだろう(けっして大げさではない)。
すでに何度か書いているが、チェンバロを弾く(今はオルガンを弾く)友だちが、一時期クラヴィコードを所有していて、触らせてもらったことがある。僕はピアノが弾けないから深くは語れないけれども、打鍵とともに鍵盤の奥のほうが弦に触れる感触が生々しく伝わってくるのがこの楽器の楽しいところで、したがって音量の強弱を含んだ広範なアーティキュレーションが実現可能みたいである。 + + + 【EPR-Classic/EPRC007】●バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988 ⇒ベンヤミン=ヨーゼフ・シュテーンス(クラヴィコード) そのときの体験が面白くて、こんなディスクを買ってみる。クラヴィコードで聴くゴルトベルク。 まずね。ライヴ感追求のために、このディスクは収録音量が極微なのだな。いつもと同じようなヴォリュームで再生し始めると全然何も聴こえないので(直感的には10メートルくらいの距離感)、慌ててきゅうっとつまみを回す。あるいは、つまみを回さないのもいい。「つまみ」ってなんだ。世界には「つまみ」の感性論的意味を探る学者もいるだろうに。 シュテーンスというひとは、パリでアンタイやボーモンにチェンバロを学んだあと、アントワープでインマゼールに出会って劇的にクラヴィコード熱に罹ってしまったらしい。ほんのところどころクセのあるルバートが掛かるのは変態師匠の薫陶によるんだろうけども、楽器の特質もあって、身体の延長線上のように素直でリアルなゴルトベルクだなあと思う。すげえ楽。疲れない。 第15変奏から第16変奏のギャップがあえて避けられているところに、日々に倦んでいる心根がゆったりと刺激される。お城みたいなフランス風序曲が聴けない状態にあっても、これなら、大丈夫。 第20変奏:マルチタスク。 第22変奏:性的桎梏から解放された萌え。 こういう気張らない、サンダル履きのバッハを聴くと、レオンハルトやレオンハルトに対するコープマンなどの演奏は、今になれば本当に「力抜いてよ…」という感じだな。したがって、すでにアロハ+雪駄的だったスコット・ロスは偉大だな。 + + + amazonでは、この「アルバム」がMP3で購入できる。密室的抒情は回線を通してひとり静かに得られるべきだろう。音楽をダウンロードする行為の美学的意味合いについては、誰か研究してください。 【ARIA VOX/AVSA9877】●コレッリ:合奏協奏曲ニ短調 op.6-4 ●テレマン:組曲二長調 TWV55:D6 ●同:RecとGambのための協奏曲イ短調 TWV52:a1 ●同:組曲ホ短調 TWV55:e1(ターフェルムジーク第1集より) ●ラモー:組曲《優雅なインドの国々》 →エンリコ・オノフリ(Vnコンチェルティーノ) リッカルド・ミナシ(Vnコンチェルティーノ) ピエール・アモン(Rec) マルク・アンタイ、シャルル・ゼブリー、イフェン・チェン(Ft) バラズ・マーテ(Vcコンチェルティーノ)、ルカ・グリエルミ(Cemb) ⇒ジョルディ・サヴァール/コンセール・デ・ナシオン 「ルイ15世時代のコンセール・スピリテュエル」とのこと。この企画はニケと彼のオケがCDを出すべきなんじゃないかしらんと思っていたが、サヴァールの新譜が出たので買ってきた。 数多い古楽才人たちの中で、サヴァールはどうも山師的存在というか、古楽のゲルギエフというか、刺激的かと想像させておいて完全な肩透かしとか、やる気がなさそうで突然濃密な音楽になったりとか、捉えどころのない人だと思ってます。 この人の熱心なファンにはなれそうもないわけですが、今回のディスクは何しろプログラムがもう、モダンでいったら「コリオラン序曲→メンコン→ブラ1」みたいな超名曲路線みたいなわけで。メンツも豪華だしなあ。 + + + コレッリの6-1でも6-8でも6-12でもなく、二長調 6-4を選んでくるところにサヴァールの鋭い山師的勘が見える(笑) 名曲ゆえに様々なアプローチがありうるこの曲で、サヴァールはそのイメージを激しく裏切り、清純派黒髪乙女のようなコレッリに仕立て上げている。しかしそこはそれ、何世代かにわたる古楽のヲタク化を経た後の黒髪乙女であるから、ピノックのコレッリのような素朴な黒髪乙女を想像してはいかにもまずい。 流れも響きも薄く涼やかなので騙されそうだが、第1楽章冒頭や第2楽章で聴かれるゴテ盛りの装飾、チョコチョコと賢しい第3楽章、ヘミオラの異様に軽い第4楽章前半―そして急激に響きを重くしてエグい後半。もはや、乙女でいるには病んでなければならないこの世界の悲劇。オノフリはいつもよりライトめ。 そしてテレマン。 サヴァールのテレマンって初めて聴いたあ。 いや、なんというか、シャム猫のようなテレマンだな。 ドイツやイギリスのアンサンブルの演奏とはだいぶ様子が違う。響きはからりと晴れ渡って、セクシーで熱っぽいくせに、フレーズの収めは13時の砂漠のように冷淡。世界中のテレマンが全部これだったら困ってしまうが、たとえばブルックナーにベイヌムとティーレマンがあるように、選択肢としては当然用意されていなければならない種類の演奏だよね。これまでの例が思い浮かばないな。全国のテレマンマニアの皆さん、こんな演奏ありましたっけ? 鬱勃としたエネルギーには定評のあるターフェルムジークの組曲ホ短調も、いやに紳士づらしてやがら。そのうえで動物みたいな艶っぽさが滲み出ているので愉快愉快。テレマン新境地。 このラモーは、まあ、ライヴならありかな。《アフリカの奴隷たちのエール》は、パーカッションが並外れてアフリカンである。ただし北アフリカ。 + + + サヴァールの体系的なテレマン録音を望むものなり。
昨年に引き続いて、古巣の団体のOBOG有志によるアンサンブルのお手伝いに行く。そして自分が楽器で参加しなかったことをしばし悔いる(結局)。家族連れが芝生でバドミントンに興じていたりするこの季節の大倉山は、東急沿線的幸福の顕れなのよな。
《夏》のソロが考え抜かれて最高にクールだったり、バッハの1043が断弦の危機を乗り越えたり、テレマンのマニアックなトリオ・ソナタがリコーダーのユニゾンを要求したり。それからこの日、日本広しといえども、ローゼンミュラーのシンフォニアが鳴り渡ったのは大倉山だけだったろう。打ち上げもまた楽しからずや。 + + + 【ARCHIV/457 600】●モンドンヴィル:6つのソナタ op.3 ⇒マルク・ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊 何度聴いてもモンドンヴィルには才能の閃きを感じない。ラモーの劣化コピー、と言ったらあんまりかもしれないけど、デカダンするでもなく、大店のぼんぼんが趣味でへろへろりと作曲しました、みたいなあの白っぽい雰囲気がかえって魅力なのかも。 そんなモンドンヴィルには、ミンコフスキも攻めあぐねて手を焼く。曲調の変遷があまりにも唐突であるのは、フランスの様式とイタリアの様式がねるねるねるねのようにテキトーに混ぜられているからなのか(その点、テレマンは大天才だった)。 しかし、たのしい思い出と軽い脱力感をもって日曜の朝に聴くのはけっして悪くないということがわかったので、だいぶよしとする。お猿さんもいい顔である。 < 前のページ次のページ >
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