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カテゴリ:パンケーキ(19)( 88 )

天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ

c0060659_21563774.jpg【DGG/4791061】
<シューマン>
●交響曲第2番ハ長調 op.61
●劇付随音楽《マンフレッド》序曲
●歌劇《ゲノヴェーヴァ》序曲
⇒クラウディオ・アバド/モーツァルト管弦楽団

超ひさびさにCD感想文を書きましょうか。
僕が本当にアバドと出会ったのは、彼がBPOを辞めてからだと言える。まずマーラー室内管と録れた《魔笛》、これで完璧に心を捉えられて以降、モーツァルト管との一連の交響曲・協奏曲録音、ブランデンブルク協奏曲、イザベル・ファウストとのベートーヴェン、、心の底から素晴らしいと思える録音をたくさん聴いてきた。

ほとんどの場合、自分は拍節感がくっきりした演奏が好みである。それはただの速い遅いではなく、天界の数学があるか否か。クレンペラーもセルもアーノンクールもブリュッヘンも、みんな数学の音楽を聴かせてくれる。
ところがアバドは。
アバドのリズムは数学ではなくて詩ではないかと思う。若いころのアバドの録音はちゃんと聴いていないのでコメントできないが、いまのアバドの「秩序」は彼の呼吸と彼の歌に依拠して、まるで靄や霧が大気に漂うように即興的な流れを示す。これは本来は僕の好みから大きく外れるはずなのに、すべてが楽しい。そして、フレーズのあちこちが軽くすっ...と消える。

+ + +

交響曲第2番(まったく予想どおりだけど)クレイジィでもホットでもなく、ただゆるふわーっと始まる。
この交響曲は「シューマンの4曲の交響曲のなかでも地味」などと言われがちだけど、その実、含んでいるものが4曲中もっとも多い複雑な作品で、アバドがここで取り組んでいるのは第2番のなかにあるハイドンやベートーヴェンの明るい理性の音色を実現させることではないかと感じる。腹の底にガツンと来る拍節感や、焦燥に駆られた末の浪漫的自殺ではなくて。

よく聴いていると第1楽章の序奏こそゆるふわで始まっているが、第2楽章に掛けてタンタンタンタン...という軽いリズム構造が収斂していく様子がわかる。それを彩るモーツァルト管の明るい響き。こういう演奏を否定しがちな旧世代の評論家さんたちは19世紀前半の本質をいまだに見誤っている可能性があるので、われわれとしては可能なかぎり注意してゆきたい(もちろん周到な解釈の結果、演奏家がそこへ19世紀末浪漫のドレッシングをかけること自体は全然否定しませんし、僕はそっちだって大いに楽しむし、そんな使い分けは常識的にどんどんやればいいと思うのです)

この演奏の第3楽章には、ベートーヴェンの第9番のアダージョが遠くで鳴っている。なんという理性と平安の音楽だろうと思う。
シューマンの心の和平は保たれるのが難しいくらい微細なものだったかもしれないが、だからといってそれが無視されていいはずがないのだ。アバドの歌いかたは抑制が効いていて、たいへん品が良い。そしてリズムは「ゆるふわ」に戻っているが、それが古典性と両立するという奇跡のような演奏なのだ!

第4楽章は再びかっちりとまとまり、推進する音楽としてアバドのなかで設計されている。強すぎたり無理のあるアクセントが皆無なので、たいへん理知的で明晰な印象を受けます。シューマンがなぜこの交響曲にハ長調を選んだか、多くの指揮者は忘れているのかもしれない。大切なディスクが持ちものに加わった。

+ + +

もしこの1枚を皮切りにシューマンの交響曲全集が立ち上がるのであれば、エポックメイキングなできごとだと考える。他のひとがそう思わなくても僕はそう思う。
by Sonnenfleck | 2013-07-07 21:59 | パンケーキ(19)

貴公子ジノの平穏

c0060659_21522668.jpg【Hänssler/CD94.219】
<ブラームス>
●Vn協奏曲ニ長調 op.77
→ジノ・フランチェスカッティ(Vn)
(1974年4月27日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
●セレナーデ第2番イ長調 op.16
(1978年5月16日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
⇒エルネスト・ブール/SWR交響楽団

―あなたはどのヴァイオリニストがいちばん好きですか?

という質問をもらったら、たぶん、僕はレオニダス・カヴァコスかクリスティアン・テツラフかエンリコ・ガッティかで迷ったあげく、結局ジノ・フランチェスカッティと答えると思う。
もともとロベール・カサドシュの相棒として彼のことを知ってから今日まで、そんなにたくさんの彼の録音を聴いたわけじゃないけれど、悲劇ぶらずアダルトな彼の唄い口や、細くてもきらきらした美しい音色に魅せられてきた。

ブラームスの協奏曲が得意だったフランチェスカッティは、5つか6つくらいの録音を残している。今回、SWRのアーカイヴから掘り出された当録音はヴァイオリニスト72歳、キャリア最後期の演奏にあたり、フランチェスカッティの晩年を伝えるものとして貴重な存在(もっとも彼は1991年まで長生きしたんだけど)

晴れた日曜日の午後にじっくりと聴いて、まずはその技巧がほとんど衰えていないことに吃驚してしまった。老境のフランチェスカッティが「ブラームス」として提出してきたのは、うだうだと悩み苦しみ抜いたあげく枯れていくヨハネスではなく、かつてカサノヴァだったことを隠そうともしない自信たっぷりのヨハネス。上のほうで書いた涼しげな行書体が70歳を過ぎてなお維持されていて、若いころの録音と同じように貴公子のようなブラームスが繰り広げられている。

年老いたヴァイオリニストはボウイングの自制がきかずに悪魔のようなフレージングになっちゃうことも多いように思いますが、フランチェスカッティは地上に留まっているようです。燦々と太陽が照るような第3楽章のボウイングに惚れ惚れ。

余白に納められているのは第2セレナーデ。

ディスク全体を通してもブール/SWR響らしさ、みたいなものはほとんど感じないが、協奏曲の美しい第2楽章の冒頭を飾るObがものすごくペェペェした音で、いつでもリームとか始められますぜマエストロ、という空気が微笑ましい。
by Sonnenfleck | 2013-03-04 22:04 | パンケーキ(19)

絶食系男子になりきれない草食系男子のための音楽

c0060659_7322418.jpg【Linn/CDK400】
<ベルリオーズ>
●幻想交響曲 op.14
●《ベアトリーチェとベネディクト》序曲
⇒ロビン・ティチアーティ/スコットランド室内管弦楽団



シューベルトの亜種みたいなベルリオーズ。
ちょっとこんな演奏、聴いたことがない。
ベルリオーズの標題どおりの「病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家」に、初めて出会えたような気がする。この曲に登場する音楽家は脂ぎったおっさんではないのだ。

まず第1楽章があまりにも清楚で、純粋で、驚くしかない。ティチアーティの戦略の根底にあるのは音色の魔術だったり、慎重に慎重を重ねたフレージングだったりするけれども、聴き手の感覚によってはこの態度はあまりにも臆病に聴こえるかもしれない。それくらい青白くて純朴で腺病質な響きによって支配されてる。

コケティッシュの妖怪が跋扈しがちな第2楽章は、何かプーシキンの詩作みたいに非現実的で、素直なインテンポによる統一が快い。イデー・フィクスの登場も、まるで楽中にシューベルトのリートが迷い込んできたみたいに楚々とした佇まい。こんな世界にギラギラしたコルネットが存在しないのも道理だ。

スコットランド室内管の美点が余すところなく発揮される第3楽章。この楽章が安っぽいサイコスリラーみたいにならないのは前2つの楽章から容易に想像がつくけれども、それにしても風通しよくくっきりとしたオーケストラの響きを純粋に楽しむのにこれほど気の利いた楽章もない。…なんということをよりにもよってベルリオーズから感じ取るのが、僕にとっては意外中の意外。この楽章が少し長く感じられるのも、重ねて意外である。
…そして楽章の最後で、広大なランドスケープが目の前に拡がる。。

腺病質の青年が、いよいよ第4楽章では牙を剥くのだけれども、ティチアーティが響きのなかにどこか細い鎖骨や肋骨の存在を包んでいるのが面白い。ワーグナー風の破滅的人物にはなり切れない、というか。

第5楽章も、悪趣味をにおわせるもののどこか幻想童画的なワルプルギス。
もちろんアンサンブルの精妙さが土台にあって、ティンパニやバスドラムが愉快な発音を指示されているのを聴いていると、ぐっと時代が流れてルーセルやミヨーのような空気すら知覚しちゃう。ベルリオーズの忘我的混沌にうんざりしているあなたへ。または同質の原理。

+ + +

ティチアーティ、2014年2月にスコットランド室内管と来日するみたいです。やっとライヴで聴けそうだなあ。楽しみ。
by Sonnenfleck | 2012-12-02 07:34 | パンケーキ(19)

ルガーノの黄色い車に乗って。

c0060659_72131.jpg【aura/AUR120-2】
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op.61*
●ドビュッシー:管弦楽のための3つの交響的素描《海》**
●ベルリオーズ:《ラコッツィ行進曲》*
⇒ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団
(*1957.5.31、**1968.1.19)

自分のキャリアのかなり初期に手に入れた、至高の名盤のひとつ。動くキ印;セルルガーノライヴと、動かないキ印;クレンペラー/NPOとを原料に、僕のシュマ2観は醸成されたと言ってよい。酵母としてねばねばしたバーンスタイン/VPOも入ってるかも。

ホリガー/新日フィルの公演を予習するために、久しぶりにこのディスクを取り出して聴いていたのですが、やはり凄い演奏なんである。当時世界最強のオーケストラを恣にして特段の自分語りや茶目っ気にも走らず、スコアの要求をクソ真面目に実現させようとしたただの結果であるっぽいところが善い。
(いや、もしかしたらセルのことだからスコアの改変をたくさんやっているのかもしれないが、新機能ゴテゴテではなくナチュラル強化改造ならべつに構わないなあとも思う。)

50年後の昨今ありがちな「オレ、シューマンの病巣を抉りだしてやるもんね!」という「カッコイイ音楽づくり」ではなくて、クソ真面目すぎて狂気、という現象が理想的なかたちで引き起こされているのがクールだ。もし他人の狂気を完璧に再現するなら、再現者は自分のアイディアが可笑しくて吹き出していたり、まして狂っていたりしてはならない。これは自分の鑑賞哲学。

+ + +

この曲の第1楽章序奏はフランス風序曲へのパロディの可能性があるが、前述のような態度から生まれるのはあくまで荘重さである。入れ子状のパロディ。そして主部に入ってから第2楽章までずっと続く、落ち着きのない軽さと堅牢な強迫観念。セルがオーケストラに求めている筋肉は短距離ランナーや槍投げのそれである。シューマンの交響曲は第2番が群を抜いて圧倒的な傑作だと思っているんだけれど、こういう強烈な演奏で聴くたびにその思いを新たにするよねえ。

急転直下、第3楽章のべっとべと浪漫も面白いところだし、危なめ旋律を自信満々に朗々と歌い上げる第4楽章も素敵です。
by Sonnenfleck | 2012-11-03 07:28 | パンケーキ(19)

スタニスラフ、工場へ行く

2012年9月、スクロヴァ爺さんが東京に来て読響を振り去っていったが、結局コンサートには足を運ぶことができなかった。ブログやTwitterで観測したかぎりではかなり評判がよろしく、聴けなかったのは無念である。

無念なので少し昔のCDを引っ張り出してきた。

+ + +

c0060659_9372681.jpg【Altus/ALT031】
●ベートーヴェン:《大フーガ》変ロ長調 op.133*
●ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲*
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67**
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/NHK交響楽団
(*:1999年1月27日/**:1999年2月5日)

僕がスクロヴァ爺さんを初めて生で聴いたのは、たぶん2004年4月に行なわれた3回のN響定期・オールベートーヴェンプロです。エロイカ(C定期)、第4+第7(A定期)、そして第5(B定期)で当方のハートを鷲づかみにした老人は、やがて読売日響のシェフに就任し、頻繁にその音楽を東京の聴衆に聴かせることになりましたが、あのときN響で味わった精密なベートーヴェンを上回る体験は(僕のところには)ついに訪れなかったのでした。

この1999年N響ライヴは、特にあのときのサントリーホールの様子をかなりはっきりと思い出させてくれる逸品ディスクで、とても大事。

ところどころ筋肉や血潮が見える読響のマッチョな弦よりも、重金属的で古インテリっぽいN響の弦のほうに、スクロヴァチェフスキらしさはより明確に宿ったのではないかと今でも考えていて、《大フーガ》の弦楽合奏を聴いてさらにその考えを深くする。細い金属線で織り上げられていくフーガの軽い手触りには、若い古楽系指揮者たちとは全然別ルートの軽快さがあるんだよね。

ルトスワフスキも素敵。打楽器が特別に峻烈かつ冷徹なリズムを指示されているのは間違いなくて、それがトゥッティを支配することで(むしろ!)前のめりの熱い音楽に仕上がっているのが楽しいです。この人のバルトークと同じで、たとえ縦線が精密に揃っていなかったりしても気にならない。熱いモダニズム!

そして第5。繰り返しになっちゃうけれども、スクロヴァ爺さんのベートーヴェンの軸にあるのは金属線の束感だと思う。しかもそれは、クリーンな工場でオートマティックに機械加工されるツルリとした束じゃなく、町工場の爺さんが技術を習得した時代に最先端だった加工技術によるものである。

何十年もその加工技術ひと筋でやってきた爺さんの製品は、声部の金属線同士が自在にほろほろと解け、解けては融合し、しかし明らかに文学作品ではなくて一個の工業製品として存在している。シンプルに駆動する第3楽章のフガートに、みな人は快感を覚えよ。
by Sonnenfleck | 2012-10-07 09:38 | パンケーキ(19)

幕末のリュートソング・ブック

c0060659_917721.jpg【キングレコード/KICX-8565】
<邦楽決定盤2000シリーズ・端唄>
●端唄名曲オムニバス
⇒根岸登喜子(Vo)、神楽坂まき子(Vo)ほか




この前の金曜、疲れて帰ってきてEテレの『芸能百花繚乱』を眺めていたら、「もしかしてこれじゃね?」という気持ちがにわかに湧き上がったのである。
純邦楽のデカダンス、閉塞感、閉塞感の中の粋。

iTunesストアですぐに「端唄」と「清元」をダウンロードする。
邦楽独特の呼吸感に慣れるまでは…などと思う間もなく、須臾にして身体中に邦楽のリズムが染み渡っていくので可笑しくなってしまった。これまで少しずつ身体に蓄積してきた邦楽の胞子が、喜んでぷちぷちと反応している。そうしてiPodに入れて通勤電車で聴けば何とも言えぬ酩酊に襲われて、目前の世界が現実味をなくす。

この変な身体感覚は何か?
身体の中の暗いところに密かに根付いていた菌糸から、見たことのない茸が生えてきたような感覚は。その茸の懐かしくまた頗る美味であることよ。

+ + +

天保の改革より後の年代で江戸庶民に大流行した、三味線(Smsn)伴奏付きの小歌曲を「端唄 はうた」と呼ぶ。
2~3分の小さな枠組みの中で、花鳥風月に色恋を仮託するスタイル。しかし、幽愁に満ちた音楽が多い…というわけでもないのがダウランドあたりとは如実に違うところで、端唄は掛け言葉や擬態語をリズミカルに使って愉快さや明るめの皮肉も追求している。旋律も覚えやすいね(このへんの江戸庶民の心情は、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)に詳しい)。

実は、リズムよりもメロディよりも、違和感が取れるのがずっと遅かったのが「日本語歌唱」という様式だった。
しばしば感じていることだが、僕らは日本の伎芸に対して(菌糸が届かない表面的には)すでにアラバマ州のボビーと変わらぬ視線しか持ち得ない。宿命的ねえ。
by Sonnenfleck | 2011-11-05 10:54 | パンケーキ(19)

星見てボロディン。

c0060659_8132045.jpg【Victor(MELODIYA)/VDC-513】
●ムソルグスキー:交響詩《禿山の一夜》
●ボロディン:《韃靼人の行進》
●同:交響詩《中央アジアの草原にて》
●イッポリトフ=イワーノフ:組曲《コーカサスの風景》op.10
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 モスクワ放送交響楽団

まだ40代のフェドセーエフの音楽を、ビクター音楽産業のスタッフたちによる優秀な録音で聴く。裏ジャケの録音情報をよく見ないで買ったものだから、当然MELODIYAの荒々しい録音だろうと思っていたが、そうではないので吃驚してしまう。

+ + +

武田泰淳のパートナー・武田百合子の『犬が星見た―ロシア旅行』という本がある。いつか独立したエントリを書こうと思っていたが、まあいいか。

昭和44年(1969年)に船で横浜を出発した有閑の文化人たちが、ナホトカ→ハバロフスク→イルクーツクとシベリアを横切り、アルマアタ→タシケント→サマルカンド→ブハラといった中央アジアの諸都市を経て、トビリシ→ヤルタ→レニングラード→モスクワ、とソヴィエト連邦を横断旅行した際の模様を記した旅行記である。

武田百合子の筆は剛直かつ率直であり、簡易な言葉しか使わない文体の強靱さは当代のヤワな流行作家たちが何人束になっても敵わない。平気で悪態もつく。彼女のテンションは空路でアルマアタ(現アルマトイ)に入ったところから高揚し、ブハラの砂漠で最高潮を迎え、やがてヨーロッパ・ロシアに向かって急速に萎むのだが、その中央アジアの描写がきわめて鮮烈で、得難い魅力を感じる。
「これは何でしょう?」いちめんに、ほやほやと生えている灌木に似た草を指すと、運転手は「サクソール、サクソール」と、噛んで含めるようにくり返してくれた。すぎなを大きくしたような草。幹を折ると、水気をいっぱい含んでいた。
ゼラフシャン河のほとりで車を停めた。橋にもたれて、皆、水を飲んだ。りんごの味がかすかにしている水を、一人一本ずつ飲んだ。綿の運搬車が土煙をあげて走って行く。
この河の近くでは、瓜がたくさん出来るという。それは八月ごろらしい。
また来ることがあるだろうか。そんなことがもしあったら、この橋のところで、りんご水ではなく、瓜を食べたい。
こんな感じ。佳いでしょう?僕はたいそう好きだ。みなさん読んでみてください。

+ + +

フェドセーエフが形作る《中央アジアの草原にて》も、ここでは武田百合子の筆致と同じように直截で、それゆえにとても優しい音楽になっている。弦楽のアンサンブルは豊穣で瑞々しく、木管はどこかぽうっとして田舎くさく、金管は穏やかに鈍く光る。耳から入った乾いた風が頭を吹き抜ける。脳みそは除湿機構を働かせたみたいにしてひんやりと乾いてゆく。

《コーカサスの風景》ももちろん素敵だ。カザフスタンやウズベキスタンに比べるとヨーロッパの臭みが強いが、これはリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法を自在に操るイッポリトフ=イワーノフの様式に、フェドセーエフがちゃんとギアを合わせている証拠と思われる。レガートの上質さ、遠大なフレージング。

といった作品を聴いたあとに《禿山の一夜》を聴くと、彼のヨーロッパ気質が急に強く感じられて面白い。いつもはエキゾチックに感じることが多いムソルグスキーも、実は都市生活者の音楽を書いているのだな。
by Sonnenfleck | 2011-08-06 08:16 | パンケーキ(19)

101回目のブラームス、またはさようならヨゼフ・スーク

c0060659_618772.jpg【DENON(SUPRAPHON)/COCO-79798-9】
<ブラームス>
●Pf三重奏曲第1番 ロ長調 op.8
●Pf三重奏曲第2番 ハ長調 op.87

●Pf三重奏曲第3番 ハ短調 op.101
●Hr三重奏曲変ホ長調 op.40 *


⇒スーク・トリオ
 ヨゼフ・スーク(Vn)、ヤン・パネンカ(Pf)、ヨゼフ・フッフロ(Vc)
→ズデニェク・ティルシャル(Hr *)

チェコのバイオリン奏者、ヨゼフ・スークさん死去(asahi.com/7月8日)

7月6日、ヨゼフ・スークが亡くなった。僕はこの人の音楽から、独逸浪漫の何たるかをたくさん教わったと感じているが、最後に感謝と追悼の気持ちを込めて、ブラームスの3番目のピアノ・トリオを聴くことにする。

+ + +

ブラームスのトリオの中では、第3番ハ短調の熟成された浪漫にもっとも強く惹かれます。作品番号からわかるように、この曲はブラームスが交響曲第4番を通過した1886年の夏になって取り組まれ、ハ短調の調性感を円やかにぼやかすほどにゆったりとリラックスした作曲家の姿が想起されるんですな。

聴きどころは数多いものの、もっとも味わい深いのは第1楽章の第2主題だと思う。この主題では3人がユニゾンで憧れに満ちて胸苦しい、いかにもオトコっぽい主題を歌うのだが、この局面でのスークはまるでヴィオラか、さもなくばチェロというくらい、深々と照る黒い漆器のような音色で2人をリードするのです。

展開部のあとに第1主題ではなくこの主題が帰ってくるなど、胸熱のきわみといえよう。再帰したスークの歌い回しには若干の興奮と、興奮を抑えようとする精神の働きがともに見られ、漆器に盛られたブラームスのメロディは見事なバランスによって大事に大事に守られている。これが浪漫ではないか?

氷雨の中をとぼとぼ歩く不幸とそこにおける微妙な自尊心を漂わせた第2楽章などもたいへん佳いし(パネンカの心細いタッチは見事の一言)第3楽章ではフッフロが素朴な温かみを添えて、この楽章の懐かしい雰囲気を醸成するのに一役買っている。フッフロの音色はちょっとくすんだキャメル色で、実家にあった古い石油ストーブなどを思い出さす。

第4楽章は再び炉に火が入って燃え上がるが、それでも案外あっさりしているのがブラームス後期だっすな(レーガーなら同じ主題で3倍くらい長く作曲しそう)。スーク・トリオのエッジは今日のハイパー室内楽の基準で言えばちょっぴり緩めだが、スークが形作る高音の輪郭線には独特の香気がある。お疲れさまでしたスーク先生。そしてこれからも、僕に浪漫を教えてください。RIP.
by Sonnenfleck | 2011-07-11 06:20 | パンケーキ(19)

ぼくのマーラーはじめてものがたり(5/18)

この日がマーラーの没後100年にあたる。5月17日の夜にちゃんとCDをリッピングしてiPodに仕込んだのだ。
僕が初めて聴いたマーラーは、亡くなった祖父が自分のCDコレクションからくれて寄越した、ハイティンク/コンセルトヘボウ管の《巨人》。PHILIPSの臙脂色ラインと、ジャケットの色づかいがシックでしょ。

初めて聴いたマーラーは、奥行きと広がりのある音楽であった。ベートーヴェンもモーツァルトもいいけれど、マーラーは表現したい事柄がずいぶん違うようだった。しかしこの演奏だから、なんの苦もなく自然に、マーラー世界へ足を踏み入れることができたのだと思う。ここにプレーンの良さが極まっているのさ。

+ + +

c0060659_23293744.jpg【PHILIPS/32CD-615】
●マーラー:交響曲第1番
⇒ベルナルド・ハイティンク/
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団




第1楽章からして、未明の小雨で適度に湿気を含んだ夏の早朝みたいに気高い。そこへ木管の光線が差し込んでくる。心底きれいだ。浮かれがちなフレーズも(おそらくはハイティンクらしい品の良い自律心で)抑制が効いてる。
夜会のランプで魅せるマーラーもたくさんあるけど、日光と素肌美人、みたいなナチュラルな美しさはこの録音で聴けるコンセルトヘボウの一人勝ち。比類がないよね。マジでね。騙されたと思ってみんなに聴いてもらいたい。

大地の歌の終楽章を思わせるほど静謐に、丁寧に、ハイティンクはこの楽章を作り込んでいる。マーラーの本質のひとつでもある稚気から、注意深く離れて。そこにオケの深い音色が力を貸しているのは自明としか言えない。

第2楽章はエレガント。
ここに差し掛かると、ケーゲルがこの楽章をとっても残忍に作っているのがいつも思い出されるんだが、ハイティンクもコンセルトヘボウも、この楽章を幻想交響曲みたいに軽めのロマンに仕立てているんだよね。
さらに、第3楽章はまるでブラームスでもやるようにくすんだ音色が美しい。
木管のアンサンブルは高級きんつばのように深い色をしながらしっとりと湿り、極上の甘い香りを漂わすのです。

さて、ブルックナーの最終楽章みたいに堅牢な第4楽章の据わりの悪さが、この演奏の面白みであり、佳きところでもあろう。と、今こそ思う。

第1楽章の革新性は、ハイティンクの天性の勘とオケのスペックの猛烈な高さで乗り切ってしまったような感じだけど、比較的古めかしい様式の第4楽章は、既存の語彙に変換された上で処理が行なわれているようです。HrやらFlやらが弦の細かな模様の上でヒラヒラするパッセージなんて、オケの音がワーグナー専用みたいに重厚なギアにチェンジされて、いかにも古めかしい。柔らかなポルタメントがあちこちに降り注ぐ様子を一言で表せば、萌えである。
by Sonnenfleck | 2011-06-23 23:38 | パンケーキ(19)

チャイコにマジレス。

c0060659_0413183.jpg【BMG=Melodiya/BVCX-4001】
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64
(1973年4月29日/レニングラード)
⇒エフゲニー・ムラヴィンスキー/
  レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団


珍しくチャイコフスキーの5番が聴きたくなって、何年かぶりにムラヴィンスキー盤を取り出してみたよ。例の、初来日直前のレニングラード・ライヴですね。

レニングラード・フィルの熱気。純粋なアンサンブル能力という意味では、今でもここが世界最高峰じゃと言い切るのはレコ芸のお爺さんたちぐらいのものだろう。音色だって(録音による損はあるにせよ)湿度が低すぎてけっして魅力的ではない。ところが、そのうえで、音に籠める気持ちは醒めてないよな…ということが、この記録からは実際にわかる。
第4楽章の響きの率直な明るさ。この先にあるコーダと、導いてくれる指揮者への絶対的な信頼。懐疑のあるチャイコフスキーなんて、僕は聴きたくない。世界のチャイ5がすべてこのようであったらいいのにとさえ思う。

精神論っぽいことってあんまり書きたくないんだけど、オケの側がメタな思考に陥ってしまうと、いくら指揮者が熱心に棒を振り回したところで、どこかうそ寒い音楽になるのだろうと思う。そしてメタな気持ちを排除するのはとても難しい。
メタな演奏は面白い。面白いけど、もしかしたら行き止まりなのかもしれない。

+ + +

なんかさ。こういうマジレスな演奏って、もう生で展開されることはないのかな、などと思っちゃわないこともない。
自分のマーケティング的「キャラ」をよーく把握したうえでの、括弧つき「マジレス」演奏は今でもたびたび見かけるんだ(それが悪いなんて、しばしばそれを楽しませてもらっている聴き手からは絶対言えませんが)
ところが、技術的にも、また指揮者の美学的にもそれ以外は選択し得なかったであろうところの、本物のマジレス演奏は今どこにあるか。東南アジアや南米だろうか。あるいは、もうこの世界のどこにも存在しないのだろうか。
by Sonnenfleck | 2011-02-08 00:51 | パンケーキ(19)