【キングレコード/KICX-8565】<邦楽決定盤2000シリーズ・端唄> ●端唄名曲オムニバス ⇒根岸登喜子(Vo)、神楽坂まき子(Vo)ほか この前の金曜、疲れて帰ってきてEテレの『芸能百花繚乱』を眺めていたら、「もしかしてこれじゃね?」という気持ちがにわかに湧き上がったのである。 純邦楽のデカダンス、閉塞感、閉塞感の中の粋。 iTunesストアですぐに「端唄」と「清元」をダウンロードする。 邦楽独特の呼吸感に慣れるまでは…などと思う間もなく、須臾にして身体中に邦楽のリズムが染み渡っていくので可笑しくなってしまった。これまで少しずつ身体に蓄積してきた邦楽の胞子が、喜んでぷちぷちと反応している。そうしてiPodに入れて通勤電車で聴けば何とも言えぬ酩酊に襲われて、目前の世界が現実味をなくす。 この変な身体感覚は何か? 身体の中の暗いところに密かに根付いていた菌糸から、見たことのない茸が生えてきたような感覚は。その茸の懐かしくまた頗る美味であることよ。 + + + 天保の改革より後の年代で江戸庶民に大流行した、三味線(Smsn)伴奏付きの小歌曲を「端唄 はうた」と呼ぶ。 2~3分の小さな枠組みの中で、花鳥風月に色恋を仮託するスタイル。しかし、幽愁に満ちた音楽が多い…というわけでもないのがダウランドあたりとは如実に違うところで、端唄は掛け言葉や擬態語をリズミカルに使って愉快さや明るめの皮肉も追求している。旋律も覚えやすいね(このへんの江戸庶民の心情は、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)に詳しい)。 実は、リズムよりもメロディよりも、違和感が取れるのがずっと遅かったのが「日本語歌唱」という様式だった。 しばしば感じていることだが、僕らは日本の伎芸に対して(菌糸が届かない表面的には)すでにアラバマ州のボビーと変わらぬ視線しか持ち得ない。宿命的ねえ。 【Victor(MELODIYA)/VDC-513】●ムソルグスキー:交響詩《禿山の一夜》 ●ボロディン:《韃靼人の行進》 ●同:交響詩《中央アジアの草原にて》 ●イッポリトフ=イワーノフ:組曲《コーカサスの風景》op.10 ⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/ モスクワ放送交響楽団 まだ40代のフェドセーエフの音楽を、ビクター音楽産業のスタッフたちによる優秀な録音で聴く。裏ジャケの録音情報をよく見ないで買ったものだから、当然MELODIYAの荒々しい録音だろうと思っていたが、そうではないので吃驚してしまう。 + + + 武田泰淳のパートナー・武田百合子の『犬が星見た―ロシア旅行』という本がある。いつか独立したエントリを書こうと思っていたが、まあいいか。 昭和44年(1969年)に船で横浜を出発した有閑の文化人たちが、ナホトカ→ハバロフスク→イルクーツクとシベリアを横切り、アルマアタ→タシケント→サマルカンド→ブハラといった中央アジアの諸都市を経て、トビリシ→ヤルタ→レニングラード→モスクワ、とソヴィエト連邦を横断旅行した際の模様を記した旅行記である。 武田百合子の筆は剛直かつ率直であり、簡易な言葉しか使わない文体の強靱さは当代のヤワな流行作家たちが何人束になっても敵わない。平気で悪態もつく。彼女のテンションは空路でアルマアタ(現アルマトイ)に入ったところから高揚し、ブハラの砂漠で最高潮を迎え、やがてヨーロッパ・ロシアに向かって急速に萎むのだが、その中央アジアの描写がきわめて鮮烈で、得難い魅力を感じる。 「これは何でしょう?」いちめんに、ほやほやと生えている灌木に似た草を指すと、運転手は「サクソール、サクソール」と、噛んで含めるようにくり返してくれた。すぎなを大きくしたような草。幹を折ると、水気をいっぱい含んでいた。こんな感じ。佳いでしょう?僕はたいそう好きだ。みなさん読んでみてください。 + + + フェドセーエフが形作る《中央アジアの草原にて》も、ここでは武田百合子の筆致と同じように直截で、それゆえにとても優しい音楽になっている。弦楽のアンサンブルは豊穣で瑞々しく、木管はどこかぽうっとして田舎くさく、金管は穏やかに鈍く光る。耳から入った乾いた風が頭を吹き抜ける。脳みそは除湿機構を働かせたみたいにしてひんやりと乾いてゆく。 《コーカサスの風景》ももちろん素敵だ。カザフスタンやウズベキスタンに比べるとヨーロッパの臭みが強いが、これはリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法を自在に操るイッポリトフ=イワーノフの様式に、フェドセーエフがちゃんとギアを合わせている証拠と思われる。レガートの上質さ、遠大なフレージング。 といった作品を聴いたあとに《禿山の一夜》を聴くと、彼のヨーロッパ気質が急に強く感じられて面白い。いつもはエキゾチックに感じることが多いムソルグスキーも、実は都市生活者の音楽を書いているのだな。 【DENON(SUPRAPHON)/COCO-79798-9】<ブラームス> ●Pf三重奏曲第1番 ロ長調 op.8 ●Pf三重奏曲第2番 ハ長調 op.87 ●Pf三重奏曲第3番 ハ短調 op.101 ●Hr三重奏曲変ホ長調 op.40 * ⇒スーク・トリオ ヨゼフ・スーク(Vn)、ヤン・パネンカ(Pf)、ヨゼフ・フッフロ(Vc) →ズデニェク・ティルシャル(Hr *) チェコのバイオリン奏者、ヨゼフ・スークさん死去(asahi.com/7月8日) 7月6日、ヨゼフ・スークが亡くなった。僕はこの人の音楽から、独逸浪漫の何たるかをたくさん教わったと感じているが、最後に感謝と追悼の気持ちを込めて、ブラームスの3番目のピアノ・トリオを聴くことにする。 + + + ブラームスのトリオの中では、第3番ハ短調の熟成された浪漫にもっとも強く惹かれます。作品番号からわかるように、この曲はブラームスが交響曲第4番を通過した1886年の夏になって取り組まれ、ハ短調の調性感を円やかにぼやかすほどにゆったりとリラックスした作曲家の姿が想起されるんですな。 聴きどころは数多いものの、もっとも味わい深いのは第1楽章の第2主題だと思う。この主題では3人がユニゾンで憧れに満ちて胸苦しい、いかにもオトコっぽい主題を歌うのだが、この局面でのスークはまるでヴィオラか、さもなくばチェロというくらい、深々と照る黒い漆器のような音色で2人をリードするのです。 展開部のあとに第1主題ではなくこの主題が帰ってくるなど、胸熱のきわみといえよう。再帰したスークの歌い回しには若干の興奮と、興奮を抑えようとする精神の働きがともに見られ、漆器に盛られたブラームスのメロディは見事なバランスによって大事に大事に守られている。これが浪漫ではないか? 氷雨の中をとぼとぼ歩く不幸とそこにおける微妙な自尊心を漂わせた第2楽章などもたいへん佳いし(パネンカの心細いタッチは見事の一言)、第3楽章ではフッフロが素朴な温かみを添えて、この楽章の懐かしい雰囲気を醸成するのに一役買っている。フッフロの音色はちょっとくすんだキャメル色で、実家にあった古い石油ストーブなどを思い出さす。 第4楽章は再び炉に火が入って燃え上がるが、それでも案外あっさりしているのがブラームス後期だっすな(レーガーなら同じ主題で3倍くらい長く作曲しそう)。スーク・トリオのエッジは今日のハイパー室内楽の基準で言えばちょっぴり緩めだが、スークが形作る高音の輪郭線には独特の香気がある。お疲れさまでしたスーク先生。そしてこれからも、僕に浪漫を教えてください。RIP.
この日がマーラーの没後100年にあたる。5月17日の夜にちゃんとCDをリッピングしてiPodに仕込んだのだ。
僕が初めて聴いたマーラーは、亡くなった祖父が自分のCDコレクションからくれて寄越した、ハイティンク/コンセルトヘボウ管の《巨人》。PHILIPSの臙脂色ラインと、ジャケットの色づかいがシックでしょ。 初めて聴いたマーラーは、奥行きと広がりのある音楽であった。ベートーヴェンもモーツァルトもいいけれど、マーラーは表現したい事柄がずいぶん違うようだった。しかしこの演奏だから、なんの苦もなく自然に、マーラー世界へ足を踏み入れることができたのだと思う。ここにプレーンの良さが極まっているのさ。 + + + 【PHILIPS/32CD-615】●マーラー:交響曲第1番 ⇒ベルナルド・ハイティンク/ アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 第1楽章からして、未明の小雨で適度に湿気を含んだ夏の早朝みたいに気高い。そこへ木管の光線が差し込んでくる。心底きれいだ。浮かれがちなフレーズも(おそらくはハイティンクらしい品の良い自律心で)抑制が効いてる。 夜会のランプで魅せるマーラーもたくさんあるけど、日光と素肌美人、みたいなナチュラルな美しさはこの録音で聴けるコンセルトヘボウの一人勝ち。比類がないよね。マジでね。騙されたと思ってみんなに聴いてもらいたい。 大地の歌の終楽章を思わせるほど静謐に、丁寧に、ハイティンクはこの楽章を作り込んでいる。マーラーの本質のひとつでもある稚気から、注意深く離れて。そこにオケの深い音色が力を貸しているのは自明としか言えない。 第2楽章はエレガント。 ここに差し掛かると、ケーゲルがこの楽章をとっても残忍に作っているのがいつも思い出されるんだが、ハイティンクもコンセルトヘボウも、この楽章を幻想交響曲みたいに軽めのロマンに仕立てているんだよね。 さらに、第3楽章はまるでブラームスでもやるようにくすんだ音色が美しい。 木管のアンサンブルは高級きんつばのように深い色をしながらしっとりと湿り、極上の甘い香りを漂わすのです。 さて、ブルックナーの最終楽章みたいに堅牢な第4楽章の据わりの悪さが、この演奏の面白みであり、佳きところでもあろう。と、今こそ思う。 第1楽章の革新性は、ハイティンクの天性の勘とオケのスペックの猛烈な高さで乗り切ってしまったような感じだけど、比較的古めかしい様式の第4楽章は、既存の語彙に変換された上で処理が行なわれているようです。HrやらFlやらが弦の細かな模様の上でヒラヒラするパッセージなんて、オケの音がワーグナー専用みたいに重厚なギアにチェンジされて、いかにも古めかしい。柔らかなポルタメントがあちこちに降り注ぐ様子を一言で表せば、萌えである。 【BMG=Melodiya/BVCX-4001】●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60 ●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64 (1973年4月29日/レニングラード) ⇒エフゲニー・ムラヴィンスキー/ レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 珍しくチャイコフスキーの5番が聴きたくなって、何年かぶりにムラヴィンスキー盤を取り出してみたよ。例の、初来日直前のレニングラード・ライヴですね。 レニングラード・フィルの熱気。純粋なアンサンブル能力という意味では、今でもここが世界最高峰じゃと言い切るのはレコ芸のお爺さんたちぐらいのものだろう。音色だって(録音による損はあるにせよ)湿度が低すぎてけっして魅力的ではない。ところが、そのうえで、音に籠める気持ちは醒めてないよな…ということが、この記録からは実際にわかる。 第4楽章の響きの率直な明るさ。この先にあるコーダと、導いてくれる指揮者への絶対的な信頼。懐疑のあるチャイコフスキーなんて、僕は聴きたくない。世界のチャイ5がすべてこのようであったらいいのにとさえ思う。 精神論っぽいことってあんまり書きたくないんだけど、オケの側がメタな思考に陥ってしまうと、いくら指揮者が熱心に棒を振り回したところで、どこかうそ寒い音楽になるのだろうと思う。そしてメタな気持ちを排除するのはとても難しい。 メタな演奏は面白い。面白いけど、もしかしたら行き止まりなのかもしれない。 + + + なんかさ。こういうマジレスな演奏って、もう生で展開されることはないのかな、などと思っちゃわないこともない。 自分のマーケティング的「キャラ」をよーく把握したうえでの、括弧つき「マジレス」演奏は今でもたびたび見かけるんだ(それが悪いなんて、しばしばそれを楽しませてもらっている聴き手からは絶対言えませんが)。 ところが、技術的にも、また指揮者の美学的にもそれ以外は選択し得なかったであろうところの、本物のマジレス演奏は今どこにあるか。東南アジアや南米だろうか。あるいは、もうこの世界のどこにも存在しないのだろうか。 【Coviello Classics/CD30301】●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版) ⇒マルクス・ボッシュ/アーヘン交響楽団 原始霧とか、アルプスとか、大伽藍とか、石造りとか、神降臨とか、崇高とか、機能美とか、宇宙鳴動とか、素朴の勝利とか、もう、どうでもよろしい。 ただ、今日の私が聴いて、疲れないブルックナー。 ボッシュ/アーヘン響のブル8は、ついにその条件を満たす。 第8交響曲は図体がでかい。その大きな時間に、西洋古典巨匠名匠異才鬼才の「オレがオレが自意識」が混入する。 年に数回なら、そんな時間に浸るのもいいかもしれない。でも普段、日本国の都市部でコセコセと暮らしている自分の身の丈にはそれが合わないのだわな。 普段使いのブル8というのは、これまでにひとつも見つけられませんでした。曲調のせいもあって、どの指揮者もどのオケも肩に力が入るのは仕方がないにせよ、一見普段使いの「ような」演奏であったとしても、実際のところは普段使いの「ように」見せる術が見え隠れする。 + + + マルクス・ボッシュという指揮者のブルックナーが良いらしいぜという話は、これまでもネット上でたびたび見かけていたのだけども。実際にディスクを入手し聴いてみて、確かに、この演奏が旧来のブルックナー的評論言語(冒頭に列挙しました)に落とし込みにくいのがわかる。 まずその軽やかなテンポ設定に心惹かれることになります。総演奏時間76分足らずで、当然ながらCD1枚に納まっているんだけど、たとえばヨッフムやテンシュテットのような急加速・急ブレーキをまったく感じさせずにこの時間を達成していることからわかるように、土台からしてがかなり速い。 その上で、淡々としている。いわゆるブルックナーっぽい、これ見よがしの見得をほとんど切らない。シューベルトの初期交響曲のように、またメンデルスゾーンの弦楽シンフォニアのように、するするさらさらと流れていく局面の多いこと! アーヘン響が超絶技巧すぎないのも、この「身の丈感」に一役買っている。ドイツの中央のオケとは違って響きもほんのりと温かいし、フレーズの角が適度に丸っこいので、耳に刺さらないのがいい。最強サイボーグみたいなモダンオケにブル8をブリブリやられると、疲れてしまうのよ。 + + + amazonのカスタマーレビューに、 「ブルックナー独特の不可思議な「音楽的時間」や、物理的空間概念が壊されるような膨張、収縮のダイナミックはほとんど感じさせない。スーパーフラット(中略)村上隆の絵画ですな。(中略)評者はハッキリ言って少しも評価しない」という★2つのコメントがあるんだけど、この演奏の特徴を非常に巧みに表現していると思うので、最後に引用させていただきました。 ボッシュ/アーヘン響がやってるのは、評価する/評価される、というような20世紀時空とは無縁に、こちらは勝手にナチュラルさらさらブルックナーやってます、冷やし中華も始めました、みたいな演奏だもん。 自室にティントレットなんか飾りたくないけど、村上隆なら飾ってみたい―この演奏では、そういう、ブルックナー価値の転換が起こっている。 僕は、こっちのほうに行きますよ。 【PHILIPS/UCCP3149】 <シューマン>●ObとPfのための3つのロマンス op.94 ●夕べの歌 op.85-12 ●アダージョとアレグロ 変イ長調 op.70 ●幻想小曲集 op.73 ●民謡風の5つの小品 op.102より ⇒ハインツ・ホリガー(Ob) +アルフレート・ブレンデル(Pf) ハインツ・ホリガーが来日して、全国各地で公演を行なっている。実は26日・27日の名フィル客演を聴きに行こうかと計画していたのだけど、ちょっと無理そうであります。 で、その代わりに、40代のホリガーとブレンデルががっぷり四つに組んだシューマン・アルバムを聴いた。うーんいいねえ。 芥川也寸志の『音楽の基礎』の中に、たとえばいろいろな種類の楽器でA音を持続して鳴らしてみると、楽器固有の音色の違いというのは存外わからないものだ、われわれが違いを聴き取っているのは発音のタイミングやノイズの差にすぎぬ、という趣旨の一文があったように記憶しています(本当にそんなもんかいなあ、と思ったことも覚えている)。 しかし、壮年期のホリガーがこのシューマンで聴かせてくれるオーボエの音色は、芥川理論の裏づけになるくらい、均質で滑らかで美しい。 じっと浸って聴いているとクラリネットやヴィオラのようにも感じてくるし、いよいよ人の声のようにも思われ始める。ついには、何というか「音波」そのものに変容していくような気もする。でも、ぐるりと一周して最後はやっぱりホリガーのオーボエであることを知覚させられる(有名なop.94の第2曲なんか、あるいはオーボエ・ダモーレに持ち替えたop.73の第3曲なんか、どうだろう)。こういう気持ちは他の演奏家ではハイフェッツくらいにしか感じないので、面白い。 + + + 俳優の藤田まことが亡くなって数日が経つ。 夕方に見る中村主水と安浦刑事は、身体が弱く学校を欠席しがちな僕のヒーローだった。コメディアンだったころの藤田を知らない僕のような世代にとっては、彼は二枚目の、少し面長な温かいおじさんという印象。これは今でも変らない。 そしてまた、風邪を引いて寝ていた20日土曜日の午後、「剣客商売」の追悼再放送を偶然見た。 藤田が「剣客商売」で秋山小兵衛を演じているのは知っていたけれども、原作も好きだし、藤田の雰囲気もなんとなく想像がついてしまって、ついにこの日までテレビの画面で藤田=秋山を見たことはなかった。 今回の再放送は「春の嵐」というエピソードで、まあいろいろあるけれども、凄腕の剣客というより老父や老人としての秋山小兵衛がクローズアップされる回なんですね。無実の罪で捕まった息子・大二郎の疑いが晴れ、屋敷に戻ってくるのを出迎えるシーンの藤田の顔。あるいは、すべてが解決し、酒を飲みながら若い妻に甘えるラストシーンの藤田の顔。これに釘づけになる。 間違いなく俳優の藤田まことでありながら、秋山小兵衛その人に感じられ、やがて老いた人間そのものの顔に変容し、しかしぐるりと回って藤田まことに戻る。 僕たちは名優を喪った。合掌。 【EMI/5672612】<ショパン> ●Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11 ●Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21 →サンソン・フランソワ(Pf) ⇒ルイ・フレモー/モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団 『のだめカンタービレ』第22巻、ストーリーの大事な山場で延々と描写されるホ短調の協奏曲。諸君見たまえ!こんなタイミングでこんなエントリをUPするなんて、まるでのだめファンの鑑のようではないか!(棒読み) いや、正直に言うと、マンガのコマからショパンの協奏曲を思い浮かべられなかったのが悔しいという、いかにもヲタ的な汚れた理由から出発している行動なのですが。 このCDを取り出して聴くのはそれこそ7-8年ぶりではないかと思われる。 4月に購入したフランソワのドビュッシーは、以来おサルのように何度も聴いていて、その徹底的なフォルム重視に強烈な匂いを嗅いでいます(「フォルム重視」というとクラヲタ語彙的にはバックハウスのベートーヴェンみたいなものが頭に浮びますが、ここでのフランソワの「フォルム重視」は、「縦方向よりも横方向に気を配る」というくらいの意味で使っています)。とにかく自分がドビュッシーの《前奏曲集》の軸にしていたモニク・アースの、質朴なキルト地のようにモクモクとした和音感とはあんまりにも違っているので、大変なショックです。 その、言ってみればy軸が必要性を失くすくらいx軸を極度に鋭敏化させることによって音楽を構築するようなフランソワが、ショパンを弾いている。 これまで僕はショパンを避けてきたから、この演奏がショパン勢力図の中でどんな位置にあるのか判断ができないんだけれども、どうやらそうしたフランソワ流はここでも生きていて、かなり大胆なアゴーギクでショパンのスコアを責め苛んでいるような気がします。気がします、くらいしか書けないが、第1協奏曲の第2楽章のタッチなどはショパンシロートが聴いても天才的に美しいなあと思わせるのです。それから、モンテカルロ・オペラのオケの奇妙に艶やかな音色も今や楽しいポイント。 【EMI/3422562】 <ヴォルフ>●アイヒェンドルフ歌曲集~音楽師、秘めた愛、セレナード、夜の魔法、船乗りの別れ ●メーリケ歌曲集~苦悩から癒えて希望に寄せる、子供と蜜蜂、めぐりあい、飽くことを知らぬ恋、隠棲、春に、旅先にて、真夜中に、古い絵に寄せて、祈り、眠りに寄す、愛する人に、ペレグリーナⅠ、ペレグリーナⅡ、狩人、恋する者の歌、別れ ●ゲーテ歌曲集~善人夫婦、ガニュメート ⇒イアン・ボストリッジ(T)+アントニオ・パッパーノ(Pf) 例年の真夏には最も似合わないディスクかもしれません。でも畸形の真夏には? シュヴァルツコップもフィッシャー=ディースカウも聴いていない僕のヴォルフ経験値は依然として低いのですが、しかし魔王を倒しに行くハイレベルの勇者だけがヴォルフを語るものとも思えないのです。酒場で飲んだくれているダメな「勇者もどき」がヴォルフを愛することの何が悪いというのでしょう。心の中にわだかまって結局言えなかったことが、何度かの腐敗と熟成を繰り返すうちに妖しい結晶体になって、酒場の空気にばら撒かれています。ヴォルフの歌曲はそんなふうに聴こえる。 フィッシャー=ディースカウのバリトンがヴォルフの結晶を律儀に拾い集めて歌い上げるときに(きっとそのようなのだろう)、ボストリッジはいつものように甘い絶望感の混じったテノールで結晶のただ中に立っています。幾分多弁なパッパーノの伴奏とともに、もしかしたら鼻につくギリギリのラインの上を歩いているのかもしれません。ですが現状、僕にとっては、これ以外にはないなと思わせます。 たとえば、このディスクの《春に》(メーリケ歌曲集)という作品に打ち震えたのは、 Ach,sag' mir,all-einzige Liebe,に表現される世界の巨大な拡がり、そしてその少し後に来る、 Frühling,was bist du gewillt?において、つんのめるようにして素早く発音される「w」の音に込められた、劣情といっても差し支えないような切望感。こういうところに尋常でないものを感じたからであると言える。 あるいは《少年と蜜蜂》の明るいエロス("O nein,du feiner Knabe,)、アイヒェンドルフ歌曲集であれば《夜の魔法》の昏いエロス(weiße Arme,roter Mund,)…。妖しい結晶の尽きせぬ氾濫であります。 【PONY CANYON/PCCL00554】●チャイコフスキー:交響曲第4番へ短調 op.36 ⇒エフゲニー・スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立交響楽団 (1990年5月24日 サントリーホールでのライヴ) エンドレスな梅雨の後におずおずとやってきた夏。それでも6月7月に比べたら気温は格段に上昇していて、毎朝暑いですな。名古屋の夏は物理的に激烈ですが、一方で東京都心の夏は独特の閉塞感があって不思議であります。一日の気温の変化に乏しく、夜半になっても気温が下がらないからだと思うんだけど、昼も夜もなく熱いゼリーに閉じ込められているみたいな感じなのよね(ただ、今年はゼリー感が少ない)。 その盛夏目前に、あえてスヴェトラーノフ/USSR響のチャイ4を聴くのもオツなものでしょう。こういうのが日本人の季節感に案外訴える。 温熱ゼリーに突き刺さる鋼鉄のスプーン、それ自体が赤熱しているので、削られるゼリーの側も蒸発寸前です。<運命>のモチーフは禍々しさを失って快楽的な対象になっているし、<共産党員>テーマも決然として疾走します。スヴェトラは粘りの大虎と誤解されがちですが、僕の少ないスヴェトラ体験を思い返してみてもそんなことはない(ショスタコーヴィチの第10はそうだし、このチャイ4ライヴなんもいい例かと思う)。ある種の日本人オケのほうがずっと粘着質な音楽を展開するケースもあります。 ああ。文章も溶解しているなあ。 突破しきれないムードを抱え込んだとき、あるいは目覚ましに立ち向かう朝に。 < 前のページ次のページ >
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